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野戦では勝利した家康は政治力では秀吉にはるかに及ばない

2024年05月16日 | 歴史
⑨今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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秀吉が大坂の地に安土城にはるかまさる、巨大な城郭建築を出現させようとしているのは、諸国大名に工事の様子を実見させ、驚倒させる狙いもあってのことである。
五万人の人足がはたらくさまは、どのような大大名の領地でも見られるものではない。
五畿内の住民たちは、前代未聞の大工事の状況をひと目見ようと、遠方からも泊りがけで見物にきていた。

連日、街道を埋める見物人の数は、幾万とも知れず、彼らの胃袋をみたすための物売りの露店が、道筋に軒をつらね、大道芸人、遊女も掛け小屋で客を呼ぶ。
諸国大名の家来たちが大坂にきて、生れてこのかた見たことのない人の渦に巻きこまれ、おびただしい蟻の群れのような人足達が、かけ声をあげ木石を曳き、天を摩す(ます:迫る)建築物を造営するさまを目の辺りにすると、怯(おび)えた。

「羽柴筑前殿が威勢のほどは、方今ならぶべくもなしと聞きおりしが、やはり見ると聞くは大違いじゃ。かほどの普請をば、三河守(家康)殿相手の合戦をやりつつなしとげてゆかるるとは、まことに恐れいったる地力と申す他はない」
大友宗鱗(そうりん)、上杉景勝のような大身代の大名の家来でも度胆を抜かれ、郷国へ帰るとその見聞にさらに尾鰭(おひれ)をつけて吹聴する。

徳川家康のもとへも、その見聞は伝わっていた。家康は内心、秀吉の実力をはかりかねている。
彼は秀吉との対陣のまえ、羽柴勢がどれほどの大軍を動員してきても、互角の対戦をしてみせるつもりでいた。
徳川勢の中核をなす三河衆は、姉川の合戦で五千の兵力によって万余の朝倉勢を粉砕した戦歴を有する精鋭である。

三方ケ原の敗戦にも鍛えられ、変幻きわまりないゲリラ戦法では、上方勢の追随をゆるさない。
尾張の野に秀吉の大軍を引きこめば、縦横に駆け悩まし、長期戦に持ちこむ自信はあるが、全国の有力大名のおおかたが秀吉に誼(よしみ)を通じていた。

野戦の名人である家康は、自らの政治力が秀吉にはるかに及ばない事実を、認識していた。
彼は秀吉との対決に際し、北条氏政を味方に就けられなかった事実に、衝撃を受けていた。
北条氏四代氏政が、家康が執成(とりなし)であるにもかかわらず、同調する動きをあらわさなかったのは、秀吉の実力が家康のそれをはるかにうわまわると判断したからである。

家康は天正十年(一五八二)本能寺の変ののち、氏政の子の氏直と信濃若神子で対陣し、上野を北条に与えることを条件に和睦した。
翌年、家康は次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。
それほど深い間柄の北条氏が秀吉をはばかったのは、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)、陸奥(むつ)にわたり一大勢力圏を擁する佐竹氏が、秀吉と結んでいたためである。もし佐竹氏が家康に同調すれば、どのような波瀾がおこるか知れなかった。

また秀吉は毛利輝元と親密な関係を保ち、養子秀勝の妻に輝元の娘を迎える話を進めていた。
家康は尾張、伊勢の戦場で全力をふるって戦い、勝利を納めてきたが、秀吉を圧倒している実感はなく、無気味な畏怖の思いが胸裡(きょうり)にわだかまっている。

秀吉は、山崎、賤ケ岳の決戦で敵勢を粉砕した電撃作戦の威力を、なぜか家康に対しては片鱗もあらわさない。
家康は個々の決戦では羽柴勢を圧倒しながら、秀吉の思うがままに操られているのではないかとの疑惑が、頭をもたげてくるのをおさえられなかった。

彼の推測は的中していた。
大坂城にいる秀吉は黒田官兵衛にはかり、すでに織田信雄(信長の次男)との和睦の時期を探っていた。
信雄と和睦すれば、家康は信長の遺孤(いこ:親の死後に残された子供)を授けるという大義名分がなくなる。
秀吉は家康を孤立させておいて、和睦に導こうと考えていた。

(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)

---owari---
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