⑧今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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それに、ぐずぐずしていれば、光秀の天下が固まってしまう恐れもある。いかに主君の仇とは言え、官僚としての才覚があり、旧幕府勢力などとも通じている彼が、畿内を固めたとなれば、情勢は地滑り的に彼の思う方向に動いてしまうやも知れない。まわりの武将たちにとっては、勝ち馬に乗ることこそが戦国の処世術だからだ。
したがって、自分としては、何としても勝家より早く京都に帰り、光秀の態勢が整わないうちに主君の仇として討ち倒してしまわなければならない……。
(勝ちを呼び込んだ大胆な決断力と謀略のセンス)
秀吉の決断は早く、決断した後の行動も素早かった。光秀の密使を捕らえたその夜のうちに、まだ信長の死を知らない毛利方を巧妙に講和に引きずり込み、翌四日には毛利方と誓紙(誓いの文句を書いた紙)を交換、五日ないし六日にはもう、京都への電撃的反転を開始している。
しかも、すでにこの時から、京都の光秀周辺に情報戦を仕掛けて、相手方の勢いを削ぎにかかっている。
大坂にいた信長の重臣の一人・丹羽長秀らと通じ合い、光秀と近い関係にある摂津茨木城主・中川清秀、同高槻城主・高山重友(右近)、大和郡山城主・筒井順慶、光秀の女婿・細川忠興とその父・藤孝らの動きを牽制(けんせい)。さらに、公家の周辺にまで手を回した節もある。
中川清秀に対しては、五日付で次のような書状を送ったという記録がある。
「いま京都から届いた確かな情報によれば、上様(信長)ならびに殿様(嫡男・信忠)は、光秀の襲撃を切り抜けて近江膳所城に逃れ、無事だとのこと。まずもって、めでたいことである」
もちろん、内容はまったくのデタラメだ。京都周辺の諸将は、すでにたくさんの情報を得ていたはずで、すぐにこの書状を眉ツバものと思っただろう。
だが、そうは言っても、事件後すぐのこの時点では、まだ情報が錯綜していた可能性は強い。そこにこんな書状が届けば、誰でも「そんなバカな」と思う一方で「あの恐るべき上様のこと、ひょっとすると本当に存命なのかも知れない」という思いを拭い去れなくなる。
光秀から参陣の要請を受けていた武将たちは、自ずと「いま軽々に動くのは危険」という判断に傾き、一気に兵力を結集して勢いに乗ろうとする光秀の計算は大きく狂うことになる……。
秀吉は生涯のいくつかの局面で、「よくぬけぬけと」と言いたくなるようなウソやハッタリの書状を書いているが、それがことごとく大きな効果を挙げている。この時の書状もまた、そのひとつ。まさに、人の心の操り方を心得た秀吉ならではのウソ八百なのだ。
それにしても、この書状が書かれた時点ではまだ、すぐ背後に毛利軍がいるのである。武将にとって、退却するところを後ろから襲われるほど恐ろしいことはない。普通の武将なら、「あとで信長の死を知った毛利方が、講和を反故にして追撃して来はしまいか」という心配で頭が一杯だろう。光秀周辺の動静についての情報収集はしても、自分から謀略を仕掛けていく余裕など持てないはずだ。
実際、同じころ、猛将と謳われた柴田勝家ですら、弔い合戦の重要性を知りながら、上杉勢を背にして一気に退却するという決断はできず、秀吉に出遅れている。また、勝家にしても光秀にしても、戦う前から情報戦によって自分に有利な状況を作るという発想は見られない。
(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)
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