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戦後教育で失われた「道徳」を取り戻すには(後編下)

2020年10月24日 | 日本
(すべて平等にしても、どこかで“仕切り直し”になる)
一人の権力とほかの人の権力とに、あまりに巨大な差がありすぎても、世の中、うまくいかないのかもしれません。しかし、その差を常に潰(つぶ)してしまうような、「この世には働きアリしか存在しないのだ。女王アリはいてはならないのだ」という思想が正しいかというと、実際に自然界の法則から見ても合っていない部分はあるわけです。

例えば、アリを観察していると、「たいてい、二割のアリが勤勉に働いていて、八割のアリは怠(なま)けている」ということが分かります。そして、この二割の勤勉なアリだけを集めると、そのなかでまた、二割は勤勉になって、八割は怠け者になるのです。ところが、八割の怠け者のアリを集めると、今度は、そのなかから、二割ぐらいはリーダーが出てき始めて、あとの八割ぐらいは怠け者になっていきます。

これは、何であれそうであって、「勉強がよくできる人が集まった超一流校に入ったら、みんながトップクラスになるか」というと、そうはなりません。一番から四百番ぐらいまで違いが出ます。また、平均から下になってくると力はなくなってきて、下の四分の一ぐらいになってきたら、生徒ががっかりしてしまうので、成績の順位等を出さないところもたくさんあるのです。

しかし、下の四分の一に入るような人でも、たまたま第一志望に入れずに、第二志望、第三志望など、それ以外の学校に入った場合、上の一割、二割のなかに入ってしまい、リーダーになることもあります。

さらに、そこで頑張れば、成績も伸びて、よい学校に進めることもあるかもしれません。
そのように、いろいろなグループをつくってみても、いったん全部、平等にしようとはするものの、どうしても、どこかで“仕切り直し”になり、何年かすると、その間に差が開いてくるのです。それについては、ある程度、認めざるをえないと思います。

ただ、そのやり方が、必ずしも一生続くわけではありません。次の段階に進んだとき、あるいは職業に就(つ)いたときに、また違った原理が働いてきて、入れ替えは起きてくるのです。

(「結果の平等」より「機会の平等」を尊重すべき)
そういう意味で、「『結果の平等』を言いすぎ、度が過ぎれば害が出ることもあります。それでは、どんなことがあっても同じになり、進歩・発展のない社会が出来上がります」ということです。

例えば、数学の勉強をいくらしても、「満点を取ろうが零点を取ろうが、全員に百点をつける」ということであれば、もはや教育の使命そのものがなくなります。

教育においては、数多くの間違いを正し、正確にできるようにさせる努力が必要です。また、そうすると、生徒間で差がついてくるので、できれば彼らをいい方向に引き上げ、揃(そろ)えていこうとする努力も要るでしょう。

さらに、社会に出てからも差は開いていくので、その格差についても調整をしなければいけないわけですが、私は、どちらかというと、「『機会の平等』のほうを重視しなさい」という言い方をしています。

それは、「スタート点からあまり差がありすぎるのは厳しいので、そういうものについては、多少ハンディをつけてもよいから、なるべくチャンスを与えられるようにしたほうがいい。ただ、結果がある程度開くところについては容認しなければいけない。ただし、それによって社会がいびつになりすぎるようであれば、一定の調整機能は必要であろう」ということです。

また、「全員が同じ扱いを受ける」というのであれば、それは本当に全体主義的な考え方になっていくので、必ずしも成功しないだろうと思います。

人間は、小さいうちは大人に“支配”されて育てられるかもしれませんが、人間として、自分としての自覚が出てきたら、やはり、自分で道を拓いていかなければならない存在です。

それからあとは、すべてを“全体主義的な価値観”で支配するのは無理になり、差が出てくるでしょう。これは、ある程度受け入れざるをえないし、世間の目にもそう見えるようになるのではないでしょうか。私はそのように見ているのです。

ですから、ある程度、「平等」と「差」の「両方の目」を持っていたほうがよいでしょう。
少し抽象的な話が多くなって、なかなか分かりにくくなっているかもしれません。

---owari---
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