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八咫烏はなぜ三本足なのか?

2015年12月20日 | 歴史

八咫烏(ヤタガラス)の由来は、イワレヒコ(後の初代天皇・神武天皇)が大和平定のため熊野から大和に攻め入る道中で道に迷った。それを高天原から見ていた日の神のアマテラスは、天から八咫烏を遣わして道案内をさせて進軍を支援したとされている。

その八咫烏は、鴨県主(カモノアガタヌシ)の祖とされる賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)の化身だったという。

八咫烏の咫(あた)は長さの単位で、親指と人差指を広げた長さ(約18cm)をいう。したがって八咫烏は1.4mを越える体長の巨大なカラスということになる。

八咫烏についてはこれ以外に諸説がある。
①黒装束をした3人の地元民が大和への道を案内した
②地元の智慧のある老人が杖をついて、山道を道案内したので、足が3本あったと強調した。
③実際に突然変異の3本足の大きな烏がいた

八咫烏が三本足であることが何を意味するのか、八咫烏が境内に祀られている熊野本宮大社の解説では、三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれている。

京都の下鴨(しもがも)神社は、この賀茂建角身命(カモタケツヌミのミコト)をご祭神としており、古代の京都をひらかれた神さまとして、京都の守護神としてまつられています。

この下鴨神社がある糺の森の南側に位置し、古くから下鴨神社本宮に次ぐ大社として歴史に登場する河合神社の境内には「任部社(とべしゃ)」と呼ばれる八咫烏(やたのからす)をまつる神社があります。

余談ですが、方丈記で有名な「鴨長明」はこの河合神社の神官の家系に生まれましたが、神官に就くことができず世を嘆いて「方丈記」を書いたと言われています。

話を昔に戻しますと、
賀茂建角身命は、初め大和の葛木山の峰に下り、そこから山代の賀茂(相楽郡)に遷り、さらに木津川を下って、葛野川と鴨川の合流点から賀茂川をさかのぼり、久我国の北の山本に鎮まったという。その場所が現在の下鴨神社の社地であります。

『日本書紀』では、八咫烏の子孫が山代国の葛野に住む鴨県主(カモノアガタヌシ)であるとしています。

また、古くからこの地には、八咫烏結社が設けられており、この河合神社を仮本宗と位置づけて、 組織内では八咫烏神、賀茂建角身命、秦伊呂具、役小角、聖武天皇、八咫烏開祖の吉備真備を祭神として奉っている。

八咫烏結社は天平時代から幕末にかけて主に迦波羅(かばら)と呼ばれる秘術を核とした神道、陰陽道、宮中祭祀を執り行い、 京都御所における食事や掃除、湯浴みに至るまで天皇や内廷皇族の日常的な事柄を一手に引き受けていたとされている。

この結社には、重要な役目があります。
天皇の身に危険が及ぶ事態が起こった場合、聖護院に連れて行き事態が収束せずに更に危険が拡大すれば聖護院から あらかじめ決められた極秘の道に従って神社や寺等を点々として、最終的に天皇を奈良吉野に逃がす役割を担っていたのです。

この間に滞在する神社と寺の主はすべて八咫烏の構成委員またはその血族者で固められていたというのです。 

現在の状況はよくわかりませんが、京都1200年の歴史のなかでは信憑性があると感じました。

また、八咫烏は日本サッカー協会(JFA)のシンボルでもあります。
これは、明治時代に日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助が、熊野那智大社がある和歌山県那智勝浦町の出身であることを記念して制定されたものです。

八咫烏の3本足は十分に解明できなかったが、この熊野でもう一つ引っかかることがある。
それは、私も参詣しましたが、この熊野の狭い地域で、大社が3つもあるということです。

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、これらを熊野三山と呼ぶが、八咫烏の3本足と何か関係があるのではないかと今でも思っているのです。

---owari---

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