このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

坂本龍馬 人間の大きさ(後編)

2020年05月24日 | 歴史
("商売人"龍馬の独創カと政治カは何で磨かれたか)
龍馬としては、神戸海軍操練所の閉鎖という災いを、薩摩藩をバックにした商売で同志の志実現と生活の道を拓き⇒犬猿の仲の薩長を提携させ⇒第二次幕長戦の長州勝利、という形で、福に転じた。

幕府の浪士狩りに対して、単なる薩摩藩の食客に堕せず、船に関する知識を活かした自主的な商売を行なった点に龍馬の面目がある。

しかも操船技術ではなく、それを基礎にして海外と商取引をしたこと、龍馬が政治・外交に飛び回っていても、上杉、高松らが商いを成立させるなど亀山社中がカンパニーとして機能し始めたこと、さらにそれを基盤に籠馬が政治家として飛躍を遂げることなどが、この時期の龍馬を取り巻く状況変化の特徴である。

勝の手を離れた龍馬が自己の政治的立場を自力で確立するのである。
そして、その翌年には早くも、かつて勝が江戸城大広間で説いたが実現しなかった大政奉還を、弟子の龍馬が実現する。

龍馬は書によらず、耳学問と天性の勘によって、近づく近代資本主義経済を先取りしていた。
だから剣に頼らず、軍艦・兵器の商売に頼り、幕府や藩に頼らず、自前のカンパニーに頼った。そしてその卓抜した政治手腕も、独創的な努力による経済的実績と、海のような人格的魅力を兼ね備えたからこそ発揮できた。

ひとことで言えば、坂本龍馬は、自力で経済的基盤を確立していたからこそ、思想と行動が自由たり得た、と言えるのだ。
考えてみれば、明快な理なのだが、当時はまだ"賤商(せんしょう)"の気風があり、特に侍が商売するなどということは考えられなかった。しかし、そんな考えは、龍馬にすれば、
「はめ替えのきく心の壁の一枚」
であって、いとも簡単に取りはずせる。

(海援隊の先進性)
慶応三年(1867)4月、当時、土佐藩の参政であった福岡孝弟(たかちか)が、薄命によって坂本龍馬に会ったときに「海援隊の規約」を取り決めた。

取り決めの目的は、それまでの龍馬の脱藩の罪を許し、新しく創設する藩の商社として公認する海援隊の隊長に龍馬を命ずるということであった。そのために、海援隊の責務と、隊長の権限を覚え書きとして文章にしたものであった。

言うまでもなく海援隊は、龍馬が長崎亀山に設立した亀山社中を母体にしていた。亀山社中は薩摩藩や長州藩のために、それまでの攘夷(じょうい)の主要目標であったイギリスとも交易するという、いわば密貿易の団体であった。土佐藩は、もう一人の参政・後藤象二郎と相談して、亀山社中を藩の商会として藩が公認するという態度に出てきたわけである。この頃は、土佐藩も、それほど高く龍馬の才能を認めていた。規約はおそらく龍馬の考えが主体になっている。

この規約の秀逸な点は、隊員の資格は脱藩者であること、としている点だ。250年以上続いた幕藩体制の桎梏(しっこく)を、龍馬はすでに認めていない。彼にすれば、これははめ替えるべき"制度の壁"であった。だから、低身分の、しかも脱藩者という生活不安定な人間の群れが、砲術、航海、外国語などの専門知識を身につけて、無能な上士たちによって支配されている世の中を引っ繰り返してやるぞ、という気概に満ちている。

(この"人間的魅力"があればこそ他人の褌(ふんどし)だけで相撲がとれた)
坂本龍馬は、いくつかの偉業を成し遂げた人物だが、そのほとんどが、いま流の言い方をするならば、無資本で行なったと言える。早く言えば、龍馬は、彼の偉業を、ほとんど他人の褌で成し遂げたと言える。彼自身は、そういう偉業を成し遂げる組織とか資本カとか、必要資材とかをほとんどもっていなかった。

なにゆえ、それができたのか。
それはやはり、彼の独創的な人間関係主義による。独創的な人間関係主義というのは、
・人との出会いを重視する。
・したがって出会う人を選ぶ。
・すなわち、人間の一級品主義を貫いた。
・二流品、三流品、四流品の人間はほとんど黙殺した。
・社内よりも、社外の人脈の設定の妙手であった。しかも、それを日本的規模でネットワークを張った。

・しかし、決して人に執着せず、状況によって人を見限るタイミングの良さももっていた。つまり、見捨てる、見限るの非情の精神の実行者でもあった。
・先輩に優れた人物が多かった(勝・大久保・横井・西郷・桂等々)。
・龍馬は、他人が自分で気づかない妙手妙案を引き出す能力に優れていた。つまり、龍馬は、他人から社会のためのアイデアを引き出す誘発剤的機能をもっていた。
・このことは、龍馬は話上手でもあったが、並行して聞き上手でもあった。人々は龍馬に、巧みに自分のアイデアを引き出された。
・龍馬は、他人のアイデアを増幅して、実現する機関的実践者であった。

しかし、なぜ、龍馬は、このことが可能であったのだろうか。それは、やはり龍馬自身の人間的魅力に帰着せざるを得ない。
龍馬の人間的魅力というのは、たとえば、
・底にいつも市民精神が流れていたこと。
・歴史のうねりに乗ってはいるが、そのうねりの上にあるさざ波をいっこうに気にしなかったこと。
・エネルギッシュであったこと。
・いつも女に好かれ、女を愛していたこと。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 坂本龍馬 人間の大きさ(前編) | トップ | 「自由」を担保するもの(前編) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事