今日は、作家・童門冬二さんの『歴史小説より』抜粋して、お伝えします。
(日々新たなり、自己を果てしなく変革していった)
なぜ、彼に限ってそういうことを成し得たのか。
「彼は昨日の彼ならず」
という言葉がある。
今日の坂本龍馬は昨日の坂本龍馬ではなかった。龍馬にとっては、明日になれば今日は即昨日に変わった。つまり、籠馬は、日々新たなりの言葉どおり、自己を果てしなく変革していった。
自己変革とは、脱皮に次ぐ脱皮の行為だ。龍馬は昨日の自己に何の未練ももたなかったし、捨てても惜しいとは思わなかった。この連続性のある脱皮精神が龍馬を龍馬たらしめた。現代に最も欠けている精神だ。
すなわち、龍馬は二千年前の中国の思想家が口々に唱えた、
「社会を変革する者は、まず自己の変革者でなければならない」、
という言葉を、そのまま実演したのである。
同時に坂本籠馬は、歴史の波のうねりの中に生きた。うねりの上に浮かんだ小さな波、つまり、さざ波をいっさい気にしなかった。その意味では彼の生涯は、こせこせ、ちまちました一生ではなかった。太い丸太棒のような、時世にとっての大切なモチーフを包含する、大づかみな生き方であった。ここでは、そういう龍馬の、自己変革の歴史をたどってみる。
(脱藩によって龍馬の思想と行動は大いに自由を獲得)
幕末の脱藩者のたどる道としては、テロル(強引な実力行使)や挙兵が典型的だ。龍馬と前後して脱藩し、天誅(てんちゅう)組の乱を起こした武力討幕の先駆者吉村寅太郎などがこれに当たる。半平太も、この吉村寅太郎の脱藩は、
「功名心による暴発」
ととらえ、あまり評価していない。
しかし、龍馬の脱藩は、はじめから目的が違った。テロのためではない。龍馬の行動にとっては固い桎梏(しっこく)(自由を束縛するもの)である藩を超越しようとするものであった。
だから、龍馬は脱藩後、馬開(下関)から吉村黄太郎のあとを追わず、九州を回遊し、大坂を経て江戸へ行く。そして幕臣勝海舟と会見し、心服して入門、航海術を学ぶに至る。
脱藩によって龍馬の思想と行動は大いに自由を獲得した。彼は自分を白紙にした。自分を掘る鍬(くわ)を握ったのである。脱藩は彼にとって原点であった。
(他人の評価などまるで歯牙にもかけなかった男)
龍馬の自由で創造的な生き方の秘訣の一つに無欲と自己否定の精神がある。
それは、別の表現をすれば、「他人の評価を期待しない」、あるいは「他人の評価など気にしない」ということである。これは、師の勝海舟が、後に
「行ないはわれにあり、評価は他にあり、われ、関せず」
と言ったのと同じだ。
このことは自分が気にしない、こだわらないだけでなく、他人に対してもそれを求めた。たとえば、薩長連合の話をまとめるときなど、その例だ。慶応二年正月、龍馬が厳重な警戒網を突破して上京してみると、薩長連合の話し合いは意外に進展していない。
「おかしいじゃないか」
と長州藩の桂小五郎を問い詰めると、
「薩摩は朝廷とも、幕府とも、諸藩ともつき合いがある。いわばフリー・ハンドだ。それに対してわが藩は朝敵の汚名を着て天下に孤立している。こちらから連合を言い出すのでは憐(あわれ)みを請(こ)うことになる。言い出せるものか」
と桂は答えた。
つまり桂は、面子にこだわり、見栄を張っているのである。自由人龍馬と違って、桂は藩という体制の中に組まれた官僚制の中で生きてきたため、また桂自身そういう体制が決して嫌いではないため、
(こっちから先に言い出したら、長州藩やおれが世間からどう思われるか)
と、しきりに他人の評価を気にしている。これは相手の薩摩藩にしても同じだった。
このとき、そこにいた大久保利通は維新後に日本の近代官僚制の基礎を作った人である。自信と誇りに満ちた性格だから、対外折衝で自分から身を屈してことを持ち出すような真似は絶対にしない。
もう一人の同席者西郷隆盛はちょっと違う。桂が延々と、薩摩藩の近年の行動の非を説くと、黙って最後まで聞いて、ひとことポツリと、
「ごもっともです」
ともらす。が、そこまでだ。西郷もまた自分からは言い出さない。別段、策を弄(ろう)するわけではなく、逆に桂の心中を察して自分からは言い出さない。
そこへいくと龍馬は他人の評価などいっさい気にしない。だから、一介の浪人の身でありながら、桂、西郷、大久保など雄藩の実力者たちを叱りつける。
(龍馬を育てた一級品の"挫折人間"たち)
坂本寵馬が、人間の一級品を選んでその影響を受けたことは前に書いた。
当時の一級品というのは、龍馬が会った人物に限って言えば、たとえば勝海舟、松平春嶽、大久保一翁、中根雪江、横井小楠、西郷隆盛、土方楠左衛門、後藤象二郎、永井尚志らであろう。
おもしろいのは、これらの人々は、人間として一流であったが、共通して挫折の経験をもっていることだ。幕臣の中で一流人物であった勝海舟、大久保一翁、あるいは川路聖護、永井尚志などは、すべてある時期に深刻な挫折感を味わった。
これらの人物は、非常に開明的な老中であった阿部正弘という人に登用された人材たちである。阿部は非常に進歩的な老中で、ペリーの来航以来、アメリカの開国要求に対して、幕府人だけでなく、外様大名や、陪臣や、一般庶民にまで、どうすれば良いのか意見を聞いた。
もちろん、この当時の日本人の対外意見はほとんど実用化できないものであったけれども、阿部には、日本民族を挙げて、外窟に対して、総力を結集しようという意図があった。国民の国政総参加である。しかし、それにしても、幕閣に人材を得なければどうにもならないので、阿部は非常に若い老中であったにもかかわらず、身分に関係なく、幕臣や外様大名の家来の中から、有能な人材を登用した。
それが先に挙げた勝海舟、大久保一翁、川路聖講、岩瀬忠震らである。
しかし、これらの人材は、ほとんど十四代将軍の擁立問題のときに、水戸斉昭の息子である一橋慶喜を推した。ところが、大老となった井伊直弼は、紀伊藩主であった徳川慶福を推したため、これらの開明派官僚を、ことごとく追放したり、隠居させたり、あるいは蟄居(ちっきょ )させたりした。
大久保、勝、岩瀬、永井らは、すべてその犠牲になって、不遇をかこつよう各身になってしまった。
坂本寵馬は、こういう不遇者たちに目をつけた。一級の人物が、不遇なときに、そのまま黙っているはずがないと思ったからである。一流の人物が、自分の能力を伸ばす場を与えられなければ、当然そのもっている能力は、不完全燃焼現象を起こす。そこへ、たまたま龍馬のような聞き上手が現われれば、腹膨れているこの連中は、何でもいいから、とにかく、自分の考えていることを誰かに伝え、伝えたその誰かが実行してくれればいいと願う。
坂本龍馬はこの手を使った。したがって彼がこの時期に得たヒントは、当代一流の人物たちが、世に現わす場を失っていたにもかかわらず、坂本龍馬という恰好の媒体を得て、自分のもつものをすべて龍馬に注入したものであった。
---owari---
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