(同業であるがゆえに、親子でけんかになることも)
例えば、医者という職業の場合、父親が三十歳ぐらいで結婚して子供ができたとすれば、一世代、三十年以上開いた親子関係になることが多いでしょう。そうなると、子供が医者になったときには、父親の代の医学と、息子や娘の代の医学とでは、そうとう違っていて、ずいぶんズレが生じるわけです。おそらく、歯医者などでも同じではないでしょうか。
そのため、同業であるがゆえに、親子でけんかになることも多いらしく、すぐには跡が継げない場合もあるのです。やはり、勤務医として一般社会に出て、ほかの人に叱(しか)られたり教わったりしながら、柔軟にお仕(つか)えするような技術を勉強する必要もあるかもしれません。あるいは、医者になるにしても、専門を少し変えるなどして、衝突しないで済むような選択もありえると思います。
もちろん、ほかの職業でも同じであって、政治家にしても、親子で見解が変わってくる場合はあるでしょう。宗教においても、そういうことは起きるかもしれません。
したがって、「柔軟な心」、あるいは「新しく学習する心」を、年齢にかかわらず持ち続けることが大切です。やはり、それぞれの人間として個性が違う以上、また、時代が変わっていく以上、変化していくものもあるわけです。
(時代が変化するなかで、『変化してはならないもの』を見極める)
ただし、変化するなかにおいて、「変化してはならないもの」と「変化してよいもの」とを見極め、区別しなければなりません。やはり、それができる人が賢(かしこ)い人間なのです。なぜなら、「変化してはならないもの」もあるからです。
例えば、「歌舞伎」や「能」といった伝統芸能であれば、まずは「変化してはならないもの」を徹底的に仕込まれることが普通だろうと思います。そして、変化してはならないものをマスターして、師匠である親から教わったことを、学んだとおりにできるようになるのが前提なのです。これができない人は、そもそも跡継ぎにはなれずに追い出されることになるでしょう。
したがって、変化してはならないものは何かを学び、その上で時代の変化に合わせていかなければなりません。
最近では、歌舞伎でも新しい試みとして、アニメで流行っている作品や外国の作品などを題材として取り入れています。こうしたことは、従来の歌舞伎からすると、なかなか納得しがたいものではあるでしょう。しかし、伝統的なものをマスターしているという前提の下(もと)で、新しい客を呼ぶために、若い世代にも人気が出るようなものを、ときどき試みているわけです。
確かに、そういう挑戦はありましょうし、変化するものに対してチャンスを窺(うかが)わなければならないところもあると思います。要するに、伝統だけを墨守(ぼくしゅ)していても潰(つぶ)れてしまう場合もあるということです。
もちろん、伝統は伝統として学ぶことは大事であり、落語であっても、まずは「古典落語」をしっかりと勉強する必要があるでしょう。古典落語をできない人が「新作落語」ばかりをやったところで、たぶん駄目だと思います。やはり、古典落語をきちっと学んだ上で、時代の変化を捉え、新作落語に挑戦することが大事なのです。
結局、その「按配(あんばい)」と「見切り」「判断」といったものが、“人間としての出来・不出来”や、あるいは、“賢いか賢くないか”という問題にかかわってくるのだと思います。さらに、それで生じる「結果」については、自分自身が享受(きょうじゅ)しなければなりません。
---owari---
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