「嫁の心得」について、権威を持って語れる適切な人はあまりいないのですが、日本の歴史の中で見ると、高知県、土佐藩の藩主だった山内一豊の妻、山内千代という方が、「良妻賢母の鑑(かがみ)」としてよく知られています。
土佐に行くと、桂浜には龍馬の像が建っていますが、確か、高知城の天守の近くには、お千代さんの像として、ふくよかな女性の立派な像が建っていたと思います。
彼女が生きたのは主に安土桃山時代なので、織田信長や豊臣秀吉の時代です。五百年近くも前の時代に、土佐藩をもらって藩主になった方の妻だったわけですが、武将の妻だった人の像が五百年後に存在するのは極めてまれなことであろうかと思います。
その意味で、彼女には、一般の人たちにはなかなかまねできないものがあったのではないかと考えています。
彼女は、1557年に生まれ、1617年に没しており、61歳まで生きた方です。
晩年、夫が亡くなったあとに出家して尼さんになり、京都の妙心寺大通院で「見性院(けんしょういん)」の法号を受けているので、仏縁もあった方かと思います。「見性」とは、悟りを開くときの言葉で、人間に備わる本性を見ることです。
浅井家の家臣の娘で、父が討ち死にしたあと、現在の岐阜県に当たる美濃の不破氏の養女になりました。「一豊の母に仕えて嫁に見込まれた」とも言われています。
その後、山内一豊と結婚し、1585年に長浜城城主夫人になり、後に大坂に居住しました。
1600年になると、夫の一豊は、徳川家康に従って会津に出陣していたのですが、千代は夫のもとに石田三成の挙兵を知らせ、「自分は、人質になれば自決する覚悟なので、心置きなく徳川氏に忠誠を尽くすように」と助言したそうです。(「笠の緒文(おぶみ)」の逸話(いつわ))。なかなか筋の通った方だと思います。
この「関ケ原の戦い」の功績で一豊は土佐一国を与えられましたが、数年後に死去しています。ただ、初代の土佐藩主として知られており、「土佐の大本(おおもと)」というように考えられています。
千代がまだ若いときの逸話として、次のような話があります。
「一豊が、目に留(と)めた名馬を『求めたい』と望んだときに、『夫の大事の際に使う』として実家から持参した黄金十枚を用立てた。そして、そのあとの馬揃え(うまぞろえ:軍馬を集めて検分すること)で織田信長に認められ、それが一豊の出世のきっかけになった」と言われているのです。
山内千代さんは、「良妻賢母の鑑」として知られている方なので、「嫁の心得」を言うなら、彼女あたりがいちばんよろしいかと思います。
このシリーズはこれから必要とされる「新しい道」を拓(ひら)くために、一つの扉を開くことになるのではないかと思います。
---owari---
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