①今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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秀吉が信長や家康と対照的なのは、家筋である。先祖の身分があまりにも開きすぎているからだ。信長の先祖の織田氏は、越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官の出身。その末裔は尾張守護の斯波氏(しばし)に仕えて守護代となり、父信秀は清洲織田家の家老であった。
家康の先祖は三河国賀茂郡松平郷の豪族。その四代目にあたる松平広忠が、三河岡崎城主で、家康の父親だ。したがって、信長と家康は、独特の武将としての感覚を持っているのだが、秀吉にはそれがなく、俗っぽいところがある。
社会の規約というようなものを、すごく有り難がり、官位とかお金を有り難いものと考える傾向がつよいので、きわめて現世的で、明るい展望を持っていたようだ。だが、少年のころは、かならずしもそうではなかった。
私(作家・津本陽さん)が津島市(愛知県)で講演したときに、聞いた話だが、十五歳の秀吉が津島の豪商のところに、子守奉公に出たさい、こんな子守なんかしていては、前途がひらけない、と悲観的となり、赤ん坊を井戸枠にくくり付けて家出してしまったという。
彼はきわめて精悍(せいかん)で機敏な行動をする気の強い性格であったということを、外国の宣教師が、ある記録に書いている。それによると、信長に仕えていたころ、信長が鷹を放したさいに、足にむすんでいた紐が高い杉の木にからまり、鷹が梢(こずえ)から下りてこられなくなったのを見た秀吉は、スルスルと素早く杉の木に登ってその鷹を下ろしてきたという。
鷹という鳥は人の目を鋭く突っつく習性を持つので、非常に危険であるが、それを怖れず、木を猿のごとく登って下ろしてきた、という逸話は、秀吉の勇気と横敏な性格を物語っている。
(小説『秀吉私記』作家・津本陽より抜粋)
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