こんにちは! ただち恵子です

政治と社会、日々の暮らしの小さな喜び。思いつくままに綴ります。

戦争は、アリを殺すように庶民の暮らしを奪う

2018-03-25 23:55:37 | 憲法・平和
後援会ニュースの「シリーズ 戦後72年 平和の願い」。

毎月、地域の皆さんの戦争体験の投稿をいただいたり、お話を聞かせていただいて編集しています。


3月号に掲載した、89歳のIさんのお話。今日も、3000万署名のお願いでご近所をお訪ねする中で、話題になりました。

戦争は、いっぺんに庶民が犠牲になる。
そんなことのない世の中を!


私は、昭和3年(1928年)9月生まれで89才、父母と兄と姉、妹二人の5人兄妹の次女でした。
 昭和20年は、大正区に住み、母や小さな妹たちはすでに高知の室戸岬の田舎に疎開していましたが、姉と私は、家財など荷物の番をしながら、姉は製粉工場で働き、私は高等女学校に進みましたが、学徒動員で軍事工場にまわされ、兵隊さんの乾パンをつくる工場で勤労奉仕をしていました。
 6月1日防空壕に避難していましたが、息が苦しくて壕を出たら火の海で、B29から、底が抜けた缶のような焼夷弾がまとまって、音もなくパラパラと雨のように落ちていました。足元一面に花が咲いたように油が燃えていました。火の中で水を求め、尻無川の水を飲む人が大勢いました。ひどい火傷を負った人の皮膚が、はがれる悲惨な場面も目にしました。大勢の人が一度に亡くなる、映像ではわからない痛烈な、においも忘れることができません。

夜が明けると市役所、学校、病院、警察署以外みんな焼け、梅田の方まで見えるくらい何もかも焼けていました。
学校にテントを張ってくれた中で過ごし、2日目にお結び1個が配られ飢えをしのぎました。校庭の隅に大きな穴を掘って、大勢の人が弔われていきました。

罹災証明をもらい、姉と何人かの人と一緒に高知の室戸岬を目指しました。水は直ぐに無くなって、川の水を飲み、炒った大豆を頼りに、姫路、岡山、いかだを組んだような小船で宇野から高松に渡り、四日、五日がかりでやっとたどり着くことができました。
その後やさしかった兄も戦死しました。

戦争は、ありを殺すように、いっぺんに、一般の市民、庶民が犠牲になります。あまりにも悲惨で犠牲が大きすぎる。そんなことのない世の中を望みます。


辛い思い出を語ってくださったIさんは、その後「戦争の世の中を」の願いをこめて3000万署名も、お知り合いからたくさん集めてくださいました。


コメント
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