じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ネパール旅日記 完結

2014-02-02 09:53:31 | ネパール旅日記 2013
 ポカラには3泊4日滞在した。
観光する場所と言ってもヒマラヤの山並みとチベット仏教とヒンドゥー教の寺院くらいしか無く,それらは既に見飽きており敢えて出掛ける気にはなれなかった。
さりとて,街の中をうろついても土産物屋とレストランか茶店くらいしか行くところも無く時間を持て余した。

 昼は少し早めに日本食屋に行き,カツ丼を食べ,餃子をつまみにビールを飲み,二時間近くも居座って,日本語の上手な店員の手が空いた時にネパールとポカラの話しを聞かせてもらって時間をつぶした。
それでも午後は手持ち無沙汰になり、ホテルの前の茶店や、近くの小さな雑貨屋の店番の男とどうでも良い世間話をして過ごした。
話しの内容は,ネパールのどうしようも無い貧困と政治への愚痴が主だった。
しかし,政治体制や貧困に対して不満は言うものの,他のアジアの国で見られる人のように自国に絶望はしていず,ネパール人である事の誇りも失っていないように伺えるのが面白かった。

 茶店で見た新聞に日本語や英語を話せる人募集の記事が有った。
それは語学学校の教員の職だった。
茶店の主人にその事を問うと,出稼ぎに行くにも英語が話せないと職にありつけないとの事で,貧困からの脱出のための出稼ぎ者ですら,最初に幾許かの投資が必要になると言う矛盾が有った。

 ナーランの事を思い出した。
ナーランは大学を中退していたが,それでも英語の読み書きが出来たのでマレーシアへの出稼ぎに行けた。
そして,8年間の出稼ぎで得た金で家を建て牛を飼い畑も手に入れたのだった。
茶店の主人が無造作に注ぐお替わりのロキシーを飲みながら、恵まれた日本国の事がちらりと脳裏をかすめる。
日本国しか知らないと恵まれた環境を活かす事もせずに流され、現状に不満を述べる。
先進国が故の病と,貧困国が故の問題は社会構造の問題と言うよりは人間の本質に根ざす事のように思えてならなかった。

 注がれるままにロキシーをあおり話しをしていると,毎年訪れる金持ちの日本人の話しが出た。
その人は日本に会社を幾つも持つ金持ちで、ポカラの一流ホテルに一ヶ月も滞在するのだそうだ。
1日50ドルの高級ホテルに一ヶ月滞在するのだと彼は興奮気味に語るが,その程度なら日本のリタイアメントの小金持には雑作も無い金額で,特別な大金持ちでは無いと思ったが黙って聞いていた。

 ポカラはネパールで一番洗練されたリゾートの街だが、しかし,世界標準のランク付けで行けば,かなり質素な部類に入る事を彼は知らないようだった。
ポカラに訪れる観光客の多くはアジアの秘境のヒマラヤに惹かれて来るのではあろうが、前提には,貧困国の物価の安さがあるのは否めないと思う。
 
 ネパール人は会話が好きだ。
どんなつまらない事でも話題にし,そして熱っぽく語る。
自分の拙い英語の語彙は尽き,積極的に話す事も無くなり茶店を出た。

 あまり暇だったのでホテルのカウンターで山と寺以外の名所は無いかと訊ねてみた。
すると,インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムなるものが有り,クライマーなら見ておくべきだろうと推された。
タクシーで300ルピーと言うので行ってみた。

 インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムはネパールの登山史と山岳民族の歴史や風俗が展示された興味深い博物館だった。
特にヒマラヤ8000m峰攻略の歴史が山別に解説されているのは当時の登山の様子を伺い知るにも貴重な資料だった。
日本人としてはマナスル初登の装備や写真が見られたのは感動ものだった。
こんなショボイ装備で良くもまあ~と,根性と執念の初登頂だった事がひしひしと伝わって来た。
自分の予想と違っていたのは,三浦雄一郎に関するものが何も無かった事だ。
その他の日本人関連の展示では,田部井淳子とエベレストのゴミ掃除人野口健が有った。
特に野口健の扱いは大きな一角を占め,回収した登山隊のゴミとともに展示されていた。
そして,自分が尊敬する冒険家(本人は僧侶だと言うが実体は冒険家か探検家だと勝手に思っている)の河口慧海の紹介があったのが嬉しかった。

 ポカラはとても良い観光地で、気候温暖にして風光明媚,時間が許すなら数日滞在しトレッキングの疲れを癒すべし,とガイドブックにあったのを真に受けて三泊四日の滞在を予定したのだが,無駄だった。
だからと言ってカトマンズに引き上げたところで普通に観光して歩く気など毛頭無い自分はどちらにしても所在は無いのだが。

 トレッキングが終わったらさっさとタイに移動して南国のビーチでふやけていた方が良かったと後悔していた。

 12月1日 日曜日
 あの日本食屋でポカラ最後の夕食を食べた。
回鍋肉は単品だったので日本食セットと書かれたご飯と味噌汁と漬け物と冷や奴のセットを注文した。
ネパール人が作った回鍋肉の美味さに驚きながらすっかり馴染んだゴルカビールを呑み,わざと大きめの札で会計をし、釣り銭をチップにした。
日本語の上手い彼に,今夜が最後で明日の朝のバスでカトマンズへ行くと告げた。
彼はチップの礼とともに、楽しい旅を続けて下さい,そして,また来て下さいと言って店の外まで見送ってくれた。

 12月2日 月曜日
 朝7時半のツーリストバスでカトマンズに向かった。
バスは途中2時間おきに停車し休息したり食事をしたりして午後3時半にカトマンズに着いた。
僅か240キロ程度に8時間も掛かったのだが,その理由の多くは,カトマンズに入る前の最後の峠越えにあった。
後少しでカトマンズとなった山道で、故障し路上で修理している車が何台もあり通行に手間取って渋滞するのだった。

 ほぼひと月ぶりに同じホテルにチェックインした。
一番良い部屋に通されたのだが道路に面した部屋は深夜まで煩く寝付けないので替えてもらった。
しかしその部屋は隣のビルの空調コンプレッサーの音が煩くもっと酷い部屋だった。
そう,これがネパールなんだなと諦めた。

 12月3日 火曜日
 ドルジが朝9時に迎えに来た。
今日はドルジの家でお昼をご馳走になるのだった。
タクシーで30分程走って着いたドルジの家は,小さなアパートの一室で,そこにはドルジの子供4人と5人暮らしだった。
昭和の時代,自分が子供の頃の日本でも6畳一間に家族5人が暮らしているなどそれ程珍しく無かったので驚きはしなかった。
それよりも狭い部屋を上手に使っている様子と清潔感に驚いた。

 ドルジは簡単なつまみとウィスキーを用意していた。
自分がそれを飲んでいる間に彼は鶏を料理をし、あれこれとテーブルに並べてくれた。
この時,身銭を切って持て成すんなら俺から小銭をくすねる必要なんて無いじゃないか,と思ったと同時に,あの110ドルの伝票の一件は自分の勘違いで,本当に請求されるべき物だったのかとの思いが過った。
そして一番驚いたのは,ラクパ・ドルジ・シェルパを隊長としたエベレストへのエクスペディションクライミングの旗が飾られていた事だった。
何処かで疑っていたドルジはホンモノのエキスパートガイドだったのだと納得した。

 ドルジのもてなしでほろ酔い加減になった頃,近くに有名な観光地「ボウダ」があるから行ってみようと誘われた。
ボウダが何かを知らなかったし観光には興味は無かったが歩いて行けると言うのが魅力的で,カトマンズの庶民の暮らしが見られると思い出掛ける事にした。

 ボウダとは,仏舎利塔の大きな物のようで寺ではなかったが,ネパール一大きなボウダは参拝者と観光客でごった返していた。
仏舎利塔を取り囲むようにツーリスト向けの安宿や土産物屋が建ち並び活気があった。
土産物屋を冷やかし,路地裏の茶屋でチベット茶を飲みすっかり観光客になって夕方まで過ごした。

 そろそろホテルに戻ろうと言う頃,ドルジが少し待っていろと言って走って行った。
戻って来た彼が手にしていたのは「カタ」と呼ばれる黄色い布だった。
それを自分の首に掛けてくれ、また来るんだよな,次はアイランドピークだよな,と言って両手で握手をした。

 そうだな,次はアイランドピークだな,来年の秋にまた来るからと言って、表通りまで送ると言ったドルジと別れた。
ドルジって、良い奴だよな・・・彼奴が悪い奴だったらこんな事しないよな,と、自分はドルジの最後の演出にすっかりやられていた。

 この夜,ホテルの部屋には何処からか聞こえて来るお祈りの声のようなものが静かに響いていた。
起きていれば気にならない程度の音なのだが目をつむって眠ろうとすると邪魔な物で気に触るのだった。
しかし,これがネパールなのだ,部屋を替えたところで何かしら新手の問題が起るのがこの国なのだと諦めたが、現実的には寝付かれず,TVで忍者ハットリ君の漫画を見ていた。
ハットリ君の英訳は日本語の微妙なニュアンスに欠けていてつまらなかった。

 土産にと買っておいたネパールウィスキーの小瓶の封を切って呑み,酔っぱらっていつの間にか眠った。

 12月4日 水曜日
 まるっきり一日空いてしまった。
ガイドブックを片手に観光地を歩くなどは真っ平だ、と見栄を張ってもどこにも行くところは無く,する事も無かった。
ホテルのTVは英語が少なく,またNHKプレミアムの放送も無く見てもおもしろく無かった。

 結局はタメルのホテルと土産物屋が密集する路地を歩き回り,適当な店に入ってビールを呑み,見飽きてしまった窓からの景色を眺めていたら夕方になった。

 土産を買おうかと思ったが大きな物が入る余地は無く,小さくても重量物も持てないので何も買えなかった。
何度も同じ店を冷やかしていたら終いには相手にされなくなった。

 晩飯は少し歩けば数件も見つかる日本食屋で食べる事にしていた。
相変わらずのカツ丼なのだが、カトマンズでもトンカツ定食とカツ丼と焼き肉定食は十分美味くて満足していた。

 つまらない街だと思ったカトマンズだったが,今夜が最後だとなると幾分か名残惜しさも感じ,それでは、最後の思い出作りに一杯やりに行くか,と、趣向の変わった呑み屋を捜した。
やはり自分の嗅覚は優れているのか,とても怪しいバーを探り当てた。
しかしその手のややこしい事に手を出すには自分はもう若く無かったので雰囲気だけを楽しみ,馬鹿高いビール代を支払って退散した。

 12月5日 木曜日
 午後の便でバンコクに行くべく空港に行った。
空港でトレッキング中に知り合ったオーストラリアの少年に出会った。
彼は自分とドルジにしたたかロキシーを呑まされた事を根に持っているのか,愛想が良く無かった。
美人のお母さんに,オーストラリアに来たら電話をちょうだい、と、メモを渡されたが,少年の目は来るんじゃないぞと訴えていた。

 バンコクでの長い待ち時間を無料の待合所のソファーで寝て過ごし,深夜の仙台行きの便に乗って帰国。

 12月6日 金曜日
 仙台の税関は成田より数段煩く,胡散臭そうで汚い自分はしっかりと時間を取られ通過。

 これにてネパール旅行記は    
 



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ポカラ 旅情異聞 其の弐

2014-01-31 12:25:39 | ネパール旅日記 2013

 そうか,やはりそう来たか。
うつ伏せから仰向けはマッサージとしては自然な流れなのだが、この場の状況と雰囲気からはそれだけでない事はなんとなく伺い知れた。

 しかし,まあ,推測は間違っているかも知れないとも考えられるのでパンツ一丁の無防備な姿のまま仰向けになった。

 仰向けになって目を開ければ彼女の姿が見える。
自分は,先ほど上着を脱ぐ所以後彼女の姿は見ていなかったが,目をつむっていても衣擦れの音や空気感から大体の想像はついていたが,はたして、彼女は上半身が下着姿だった。

 彼女は仰向けになった自分の胸にニベアの乳液を垂らし相変わらずのマッサージを施していた。

 胸の辺りから腹部へ,そして,やはり予想通りの展開になり,彼女が自分のパンツに手をかけた。

 そこで自分は彼女の動きを制し上半身を起こして時計を見た。
この部屋に入ってから25分が経過していた。

 彼女は私の言いたい事がすぐには分からなかったのか,パンツの上から股間に手を伸ばして来たが,それをやんわりと外し,手を振って「ノー ノー」と言うと何を思い違いしたのか,今度は自分のスボンを脱ぎに掛かった。
自分は慌てて再度「ノー ノー」と言いながら彼女の手を取って動きを制し,ベットに座るようにと身振り手振りを試みた。

 彼女の顔にほっとした様子の笑みが浮かび,身繕いをしてベットの端に腰を下ろした。
自分が身支度を整えていると彼女の方から辿々しい英語で名前と歳を訊ねて来た。
こんな時自分は「Oyazi」と名乗る事にしている。
歳は、君の二倍くらいだと言って誤摩化した。
チャイニーズと言うのでジャパニーズと答えると頷いた。
英単語のいくつかは知っているようだったので、試しに「ユー ネパーリィー?」と語尾を上げて言ってみた。
すると理解したらしく「ノー ムスタン」と言った。
ムスタン地方、チベットとの国境近くから出て来ているのか、あるいはチベット人なのかも知れないと思ったがそれを訊く事は出来なかった。

 彼女が新聞紙をゴミ箱に捨てコンドームをポケットに仕舞ってドアを開けた。
彼女に続いて急な階段を下りると外の光が眩しく暖かくて少しほっとした。

 一階に下りると誰もいなかった。
彼女はカウンターの内側の椅子に座り自分に背を向けていた。
自分との仕事は既に終わり,存在さえ無い者として扱われているのが如実に伝わって来る。
出来ればお茶かビールなど呑みながらもう少し話しをしたかったのだが、仕方なく外に出た。

 店から出た自分は外でも無視される存在だった。
既に事を終えて出て来た者は客にもなり得ないので無用なのだろう。
先にこの通りを通った時に感じた、誰も見ていないのに何処からか強烈な視線を感じたあの気配は既に失せていた。

 成る程,興味と好奇の目で眺めれば少し変わった雰囲気に見えなくも無いが,こうして完全に無視されて眺めた時の通りは,何の変哲も無い路地でしかなかった。
派手な娘達と見えた者も,今時の若い娘として見直せばどうと言う事も無く見えた。

 タクシーの運転手は隣の路地の茶店に居て、自分が彼を見つけると手招きして呼んだ。
「どうだった、ここは安いがあんまり可愛い娘は居なかっただろう?」とにやけた顔で言った。
そして「なんなら違う場所に案内するぜ。そこはツーリストも行くところなんで値段も良いが美人が多くてサービスが良い」とはしゃぎながら言った。
そんなものはもう沢山だからマーケットのようなものがあったら見に行きたいが,と言うと,野菜の露端のマーケットしか無いぞ,と答えた。
それもそうだ、肉屋と魚屋がほとんど無い野菜が主食の国だものな,自分が想像するマーケットは無くて当たり前だと思った。

 ホテルの戻ってくれ,と言って自分と運転手のお茶代を払って立ち上がった。

 ポカラ 旅情異聞 完

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ポカラ 旅情異聞 其の壱

2014-01-29 18:21:25 | ネパール旅日記 2013

 ポカラの街は小さい。
元々左程人口の多く無い国だからネパール第二の都市と言っても規模は知れており20万人に満たない。
しかし,だからと言って観光客が歩く湖畔の界隈だけがポカラではない。
言わば観光客は湖畔の一角に集められ体よく管理されていると言っても良かった。
だから地元民が生活する街は別に有り、そこには観光客が見る事の無い純粋なポカラの人の暮らしが有るのだった。

 今度の旅は自分の中では神聖な位置づけだったからこの手の情報は遠ざけて来たのだが,どう言う訳か向うから飛び込んで来るのだからどうしようも無い。
茶店のオヤジが教えてくれたバスターミナルをタクシー運転手に告げると何やらにやけた笑みを浮かべた。
ああ,ひょっとしてこれは、あの手の感覚へ向かう事になるのか、と思ったが,見ない事には事実は分らないし,旅とはそう言うものなのだから,と心を決めた。

 ここから先の話しは一部の人にとっては不愉快な話しになる可能性もあるので注意して頂きたい事を断わっておきます。

 バスターミナルの位置は,簡単に説明すると,どこからかの幹線道路を辿ってポカラに来て観光客の定位置の湖畔のホテル街を目指す時に通る,だだっ広い広場のようなところにポンコツバスが数台所在無さげに停まっているあそこである。
ポカラへ行った事が有る人がすぐに思い浮かべるツーリストバスのターミナルでは無い。

 バスターミナルの広場を背に奥へ進むと路地が二本見えるが,それの左手の方が目指す通りになっている。
通りの奥行きは左程ではなく,急ぎ足で歩いてしまったら2~3分で突き抜けてしまう。
見た目は、あまりきれいではない飲食店が並んでいるように見えるかも知れない。
しかし,その手の事に詳しい人であれば店の雰囲気と,それらの店の前に決まって佇んでいる少し濃いめの化粧の女性に目が行くはずだ。

 タクシーの料金交渉は往復500ルピーで、彼はマッサージが終わるまで待つことになっていた。
そんな彼はこちらの様子が気になるのかタクシーから降り路地に向かってやって来た。
そして,路地の入り口で躊躇っている自分に「とにかくじろじろ見ないでさり気なく,そしてゆっくり歩いて品定めをし,奥まで行って戻って来るのがコツだ」と言った。
さらに「店の中に引っ込んでしまう時には拒否していると思え」と教えてくれた。
「よし分った、相場は幾らだ」と聞くと「俺が交渉してやるから1000ルピー寄越せ」と言い出した。
お前にピンハネされるんなら騙される方を選ぶ、と言って路地へ進んだ。

 通りの向うまで両側に並ぶ店を、右目と左目が別々に動けば良いのにと思いながらもしっかりと見定めつつ歩いて行ったが,ネパール人の尺度にはギャップを感じ困ってしまった。
そうか,茶店スタイルを取っている訳だからお茶を飲みに入ったりビールを飲んでも良いのではないかと思い立ち,見るからに汚い中華料理屋風の店に入った。
その店の表に女性は居なくてどこから見ても茶店に見えたので入ったのだが,中には,派手なレザーの上着を羽織った若い女性が居た。
英語で話しかけたがまるで分らないらしく椅子を指差し,ゼスチャーでそこに座って待っていろと言った感じで飛び出して行った。
1分もせずに彼女は若い男を伴って戻って来た。
彼は英語が話せるのかと思い「ここは茶が飲めるのか?ビールは?」と訊ねたが、答えは「一時間500ルピー」と、それしか言わなかった。
そうか、そう言う事か,図らずもこの娘に決まってしまったのか,と意気は下がったが,マッサージは上手いかも知れないと思い直し「彼女はマッサージは上手いのか?」と問うと「1時間500ルピーだ」と言って手を出すばかりだった。
仕方が無い,これも後学のためだと意を決して,不本意ではあったが500ルピーを彼に渡した。

 彼は500ルピーを受け取ると新聞紙を千切りそれにコンドームを包んで彼女に渡した。
ああ,そう言う気遣いは要らないんだがと思ったが言葉が通じないのだから黙って見ていた。
さらに部屋の鍵らしい物を受け取ると奥へと案内された。
そこは店の裏口から別の建物の入り口につながり、彼女は階段を昇って行った。
三階まで上がると鉄格子の扉を開け中へ入るように促され,彼女も中に入るとまた南京錠を締めた。
ああ,この状況は何か有っても逃げられないから拙いかも知れないと思ったが既に後の祭りだった。
仕方が無い,有り金全部でも2万円も持っていないから大した事にはならないと腹を括った。

 八畳程の広さの部屋にはキングサイズのベットが一つ置かれているだけだった。
良く見れば部屋の隅に段ボールの箱が一つあり,そこに恐らく彼女の私物であろうと思われる物と、僅かな衣類が収まっていた。

 彼女は自らの上着を脱ぎながら手振り身振りで服を脱いでベットに横になれと言って来た。
言われるままにパンツ一丁になりうつ伏せに寝転んだ。
見た目にはあまり清潔そうとは思えなかったシーツは意外にも異臭は無く,古くてくすんでいるがしっかり洗濯されている事が伺えた。

 彼女はベットの下からニベアのボトルを取り出しマッサージのような事をし始めた。
陽当たりが良く無いのであまり暖かくは無い部屋で殆ど裸になった上に冷たいニベアの乳液を垂らされるのは決して心地良くは無かった。

 彼女のマッサージは,首から肩,そして背中を,揉むとか押すと言うよりは乳液を塗りたくって撫で回すような感じだった。
とてもマッサージとは言い難いそれが終わると,うつ伏せから仰向けになるようにと身振りで指示した。

  とりあえず 続く






 


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ポカラの街で その2

2014-01-29 13:20:07 | ネパール旅日記 2013

 11月30日 土曜日 快晴

 ドルジはどこに泊まっているのかと思ったら真向かいの小さな宿だった。
5時になっても現れないので外でウロウロしているとあまりきれいではない建物のドアからひょっこりと顔を出した。
この宿はガイド専用でトレッキングルートの宿と同じようにガイドは無料らしかった。

 予約してあったタクシーで「サランコットの丘」と呼ばれる展望台へ向かった。
今更展望台からヒマラヤの山を眺めても絶対に感激しない自信があったが,しかし,マチャプチャレが間近に見えると言うので行ってみた。

 小一時間程市街地から山へ登ると大小のバスやらタクシーが入り乱れて止まっている駐車場に着いた。
そこから少し歩くとサランコットの展望台が有り大勢の観光客が御来光を待っていた。
数日前のプーンヒルの展望台も観光客が多くて嫌だったが,それでもあそこは最低二日は歩いて来なければ成ら無いのでトレッカーとして許せる部分があった。
しかし完全に観光地のサランコットの人の多さには辟易し楽しむ気分にはなれなかった。
土産物屋と茶店が並び,塩梅の良さそうな展望台は土産物屋が100ルピー取っていた。

 標高1600mのサランコットから見るマチャプチャレは確かに近かったが,間にある空気が淀み抜けていなかった。
だから朝焼けもきれいな紅にならず紫にくすんでいて写真も撮る気にならなかった。
自分の後で話しをしていた老人二人連れはかつてヒマラヤの何処かに登った経験者なのか,懐かしそうに山の名前を挙げていた。
歩けなくなっても山を見たい人はここへ来るしかないか,と思う反面,自分はここからの眺めなら見なくても良いと思った。

 ドルジが茶を飲んでいこうと誘ったが,さっさとホテルに戻って朝飯を食おうと促して駐車場に戻った。
沢山の車と人でごった返すこの場所でタクシーの運転手はどうやって我々を見つけたのか、こちらが探すまでもなく現れ、車を持って来るから待っていろと言った。

 ホテルに戻り朝食を食べると、次なるポカラの名所の湖を見に行こうとドルジが言った。
どうせ何の宛も無いし今更金を払ってショートトリップなど行く気もなかったので歩いていける湖畔公園に異存は無かった。

 ネパールには日本には無い素晴らしい山岳景観が有るが、湖や沼や川の美しさでは日本の方が数枚上手だった。
ポカラの街は湖に沿って開けており,ヒマラヤの眺めとともに湖畔の公園や景観も売りにしているのだが残念ながらこの程度の景色では日本人は大して驚かないと思う。
一通り歩いて時間をつぶし少し早い昼飯を食べに日本食屋に向かった。

 数代前にはアフリカ系の血が確実に混じっていると思う彼が「また来てくれましたか,ありがとうございます」と言って茶とメニューを持って来た。
畳み敷きの小上がりで茶をすすりメニューとにらめっこをし、ドルジにチャンポン麺、自分は天丼と迷ったが結局はカツ丼を頼んだ。
ビールを飲みながらのんびりしていると昨日と違って日本人の旅行者が結構入って来た。
三人連れ,単独で二名,そして,あの読書好きの白人女性もまた居た。

 7000m峰で俺に登れそうな山は無いかとドルジに訊ね盛り上がっているとテーブルで焼き肉定食を食べていた白人がこちらを向いて話しかけて来た。
これからトレッキングに出たいのだが雪も多くなる時期に何処へ行ったら良いだろうかとの問いだった。
ドルジが,一週間以内ならプーンヒルからタトパニ,で,二週間あるならアンナプルナベースキャンプだ,と言った。
カナダ人らしかったが,この手の質問をするのに地図を持っていないと言う時点で自分は相手にしたく無かった。

 昼飯を食べた後土産物屋を冷やかしつつホテルに戻った。
カトマンズへ戻るツーリストバスの切符を買って来ると言ってドルジはまた街の通りへ向かって行った。
明後日のバスの切符をもう買うのか,と思ったが何も言わずに見送った。

 ホテルの隣にマッサージ屋があった。
フロントに料金表があったので見ると,いくら観光客価格もここまで馬鹿にしてくれるか?と驚く料金だった。
単なるマッサージでは無くて何か特別なリクエストに応えてくれる料金なのかと一瞬思い尋ねるとそんな事でも無かった。
90分のオイルマッサージが4000円から5000円もするのだ。
ネパールの物価水準から行けば200円か300円が相場だろうと自分は思うが。

 ホテルの向いのティーショップに入りビールを飲みながら店のオヤジと世間話しをした。
先ほどのマッサージの法外な値段の話しをすると,一月に10人も客は居ないだろうがそれでもあの価格だからやって行けるのだとか。
そして、ポカラにはツーリストは行かないマッサージ屋が街中に有るのだと言う。
歩いては行けないからタクシーに乗り,バスターミナルのマッサージへ行ってくれと言えば良いと教えてくれた。
料金をと問うと,相手によって少し違うが大体500ルピーだと言う。
そうか,圧倒的に暇だし,ここは一つ後学のために行かなくてはなるまいか、と腰を上げた。

 ポカラのマッサージは様々有るのかも知れなかったが,自分が体験したそれは別に書く事にしてここでは控えさせて頂きたい。

 マッサージから戻り気怠い夕暮れ時を部屋のベランダで過ごした。
高い事は覚悟してホテルのルームサービスでビールとピーナッツをもらいマチャプチャレとアンナプルナが夕日に染まるのを眺めた。
日本に帰りたくも有り,このまま旅を続けたくも有り、と少し遣る瀬無い思いで眺めるヒマラヤの雪山は心に滲みた。

 この日の夜,晩飯を食べに入ったレストランで日本語のやけに上手いネパール人に遇った。
話す切っ掛けは店の表に停めてあったインド製バイクのエンフィールドを眺めていた事だった。
バーチカルツインのクラシカルなスタイルのエンフィールドはどこから眺めても美しかった。
惚れ惚れする姿態引き込まれるようにしてレストランに入り、表のバイクの傍の席に座った。
それを見ていた彼が「日本人ですか?」と、全く澱みのない日本語で話しかけて来た。
しかも彼の顔はあまりにも日本人的であったから自分はてっきり日本人だと思って話しをしていた。
しかし、何度かの言葉のやりとりの後に少し違和感を感じたので「君,ネパール人?」と言うと「日本人だと思ったの?」と返された。
訊けば,ミュージシャンとして仙台に10年近くも居たのだそうだ。
話しがややこしくなるのを避け自分が仙台から来た事は黙って彼の思い出話しを聞いた。
奇遇って有るもんだな、と感心しつつ,エンフィールドをチョイ乗りさせて貰い感謝してホテルに戻った。

 何だか,やっと自分の旅らしい充実した一日だったと気持ち良くベットに潜り込んだ。

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ポカラの街で その1

2014-01-28 11:48:00 | ネパール旅日記 2013
 
 11月29日 金曜日 快晴

 ビレタンティーからタクシーに乗り1時間程でポカラに着いた。
既にトレッキングシーズンが終わりつつあるポカラの街は思った程観光客の姿も見えず落ち着いていた。

 ATMを探して歩いた街の通りで日本食屋を見つけたのでドルジと二人で入った。
メニューに列ぶ懐かしい日本食の写真を見て迷わずカツ丼を頼んだ。
ドルジは写真に見入って決めかねていたので,片言だが丁寧な日本語を話す店員がお茶とメニューを持って来た時にネパール人好みの物を訊ねた。
彼のお勧めはタンメンだった。
餃子をつまみにエベレストビールを飲み,日本のモモ(ネパール餃子はモモと言う)はどうだと聞くと、肉が入っていて美味いと唸った。
ネパールのトレッキングロードのモモは肉は入っていなかった。
カツ丼は文句無く美味かった。
小皿のタクアン漬けととうふの味噌汁も日本の定食屋の物と遜色無く、ポカラになら長期滞在でも食に困らないと思った。

 ドルジはタンメンを食べながらしきりに小さく唸っていた。
「どうだ美味いか」と問うと,こんな美味い物は始めて食べたと言った。
ドルジとはこの店に三度通って毎回違う麺を食べたのだが,その度にこれが一番美味いと言うのだった。
ドルジの麺の食べ方にネパール人の気質を見たような気がした。
南の方の国の人、特にフィリピン人は顕著なのだが美味い物を味わって食べるのが苦手で,美味いと分るとガツガツとかき込んで食べてしまうのだ。
しかしドルジは野菜の小片一つでも噛み締めて食べ、そしてスープも試すように味わうのだった。

 ドルジの食べ方なんか日本人的だよなぁ,あの癖さえ無かったら最高に良い奴なんだがなぁ・・・クライミングの腕は超一級で申し分無いんだから小銭をくすねる癖さえ止めてくれればと残念でならなかった。

 昼飯の後はドルジと別れ土産物屋を冷やかして歩いた。
カトマンズで売っている物と殆ど同じで取り立ててポカラ名物は見つからなかった。
トレッキング用品の店が多く偽物のマムートやノースフェイスが大量に売られていた。
着替えのズボンが無かったのでマムートのズボンを1000ルピーで買った。
試着した時にバックを床に置きそのまま店を出てしまい宿に戻ってから気付いた。
大したものは入っていなかったが、それでも二台のデジカメと200ドルくらいは入っていたので大慌てで店に取って返した。
店に駆け込むと人の良さそうな店主が「これか?」とバックを渡してくれた。
初老の店主は「慌てて出て行くからこう言う事になる。紅茶を一杯飲んで行け」と、レモンティーを入れてくれた。
世間話をしていると,煩い中国人が増えたと言い,もの静かで値切らない日本人が多かった頃が懐かしいと語った。
紅茶の礼を言って立ち上がると,暇だったら何時でも茶飲みに来いと言ってくれた。

 缶ビールとツマミを買おうと小さな店に入ったが缶は高くビンのデポジットの方が安かったのでビンビールを二本買って部屋に戻った。

 たっぷりと出る熱い湯を大きめのバスタブに貯め,23日ぶりに湯船に浸ると身体が湯に溶けていくのじゃないかと思う錯覚に捕われた。
湯船に身体を伸ばし横になり今日までのアレコレを思い出しつつビールを飲んだ。
酔いが回り緊張の糸が完全に解けたからかいつの間にか湯に浸かったまま寝てしまっていた。
湯が冷め,寒くなって起きた時には既に日が暮れていた。

 晩飯は食べたくも無かったのだが夜の街を歩いてみようと昼間と同じ通りを逆向きに歩いてみた。
1キロ程も歩いたら道は暗くなって土産物屋も途切れた。
その間にはピザレストランやネパールカレーの店、中華料理店などのレストランがたくさん有ったがどこも中途半端に白人が席を占めていて入り難かった。
彼奴ら,どうして何時も入り口から座って行くのかな? 奥が空いていても入り難いだろう,と声にならない文句を言いながら結局は昼飯を食べた日本食屋の前に来ていた。

 日本食屋に昼間の彼は居なかった。
片言以下の日本語の店員がお茶とメニューを持って来た。
取り敢えずビールを頼み,メニューを熟読するべく隅から隅まで眺めた。
結局頼んだのはトンカツ定食だった。
二本目のビールをどうしようか迷っていると「ご来店ありがとうございます」と挨拶にやって来た。
「美味しいですか?また来てくれて嬉しいです」などと愛想を振りまかれ反射的にビールをもう一本と言ってしまった。
自分の予想ではメニューの半分は材料が無くて出来ないだろうと思い,訊ねると,殆どの物は出来ると言う。
サバ味噌があったので問うと,レトルトだがあると言う。
じゃぁ明日はサバ味噌を喰いに来るからなどと冗談を言って彼との会話で暇つぶしをしつつ呑んだ。

 店の中には白人の女性が一人居て昼間と同じように本を読みながらうどんを食べていた。
日本語が分るのか,時折顔を上げて小さく笑っていた。
しかしすぐに目線を落とす様子から話しに加わりたい雰囲気は無さそうだったので声は掛けなかった。

 明日,ドルジが5時に迎えに来てサランコットと言う観光名所に案内すると言っていたのを思い出した。
ホテルに戻りフロントで4時半に起こしてくれと頼み,8時過ぎに就寝。








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