ポカラには3泊4日滞在した。
観光する場所と言ってもヒマラヤの山並みとチベット仏教とヒンドゥー教の寺院くらいしか無く,それらは既に見飽きており敢えて出掛ける気にはなれなかった。
さりとて,街の中をうろついても土産物屋とレストランか茶店くらいしか行くところも無く時間を持て余した。
昼は少し早めに日本食屋に行き,カツ丼を食べ,餃子をつまみにビールを飲み,二時間近くも居座って,日本語の上手な店員の手が空いた時にネパールとポカラの話しを聞かせてもらって時間をつぶした。
それでも午後は手持ち無沙汰になり、ホテルの前の茶店や、近くの小さな雑貨屋の店番の男とどうでも良い世間話をして過ごした。
話しの内容は,ネパールのどうしようも無い貧困と政治への愚痴が主だった。
しかし,政治体制や貧困に対して不満は言うものの,他のアジアの国で見られる人のように自国に絶望はしていず,ネパール人である事の誇りも失っていないように伺えるのが面白かった。
茶店で見た新聞に日本語や英語を話せる人募集の記事が有った。
それは語学学校の教員の職だった。
茶店の主人にその事を問うと,出稼ぎに行くにも英語が話せないと職にありつけないとの事で,貧困からの脱出のための出稼ぎ者ですら,最初に幾許かの投資が必要になると言う矛盾が有った。
ナーランの事を思い出した。
ナーランは大学を中退していたが,それでも英語の読み書きが出来たのでマレーシアへの出稼ぎに行けた。
そして,8年間の出稼ぎで得た金で家を建て牛を飼い畑も手に入れたのだった。
茶店の主人が無造作に注ぐお替わりのロキシーを飲みながら、恵まれた日本国の事がちらりと脳裏をかすめる。
日本国しか知らないと恵まれた環境を活かす事もせずに流され、現状に不満を述べる。
先進国が故の病と,貧困国が故の問題は社会構造の問題と言うよりは人間の本質に根ざす事のように思えてならなかった。
注がれるままにロキシーをあおり話しをしていると,毎年訪れる金持ちの日本人の話しが出た。
その人は日本に会社を幾つも持つ金持ちで、ポカラの一流ホテルに一ヶ月も滞在するのだそうだ。
1日50ドルの高級ホテルに一ヶ月滞在するのだと彼は興奮気味に語るが,その程度なら日本のリタイアメントの小金持には雑作も無い金額で,特別な大金持ちでは無いと思ったが黙って聞いていた。
ポカラはネパールで一番洗練されたリゾートの街だが、しかし,世界標準のランク付けで行けば,かなり質素な部類に入る事を彼は知らないようだった。
ポカラに訪れる観光客の多くはアジアの秘境のヒマラヤに惹かれて来るのではあろうが、前提には,貧困国の物価の安さがあるのは否めないと思う。
ネパール人は会話が好きだ。
どんなつまらない事でも話題にし,そして熱っぽく語る。
自分の拙い英語の語彙は尽き,積極的に話す事も無くなり茶店を出た。
あまり暇だったのでホテルのカウンターで山と寺以外の名所は無いかと訊ねてみた。
すると,インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムなるものが有り,クライマーなら見ておくべきだろうと推された。
タクシーで300ルピーと言うので行ってみた。
インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムはネパールの登山史と山岳民族の歴史や風俗が展示された興味深い博物館だった。
特にヒマラヤ8000m峰攻略の歴史が山別に解説されているのは当時の登山の様子を伺い知るにも貴重な資料だった。
日本人としてはマナスル初登の装備や写真が見られたのは感動ものだった。
こんなショボイ装備で良くもまあ~と,根性と執念の初登頂だった事がひしひしと伝わって来た。
自分の予想と違っていたのは,三浦雄一郎に関するものが何も無かった事だ。
その他の日本人関連の展示では,田部井淳子とエベレストのゴミ掃除人野口健が有った。
特に野口健の扱いは大きな一角を占め,回収した登山隊のゴミとともに展示されていた。
そして,自分が尊敬する冒険家(本人は僧侶だと言うが実体は冒険家か探検家だと勝手に思っている)の河口慧海の紹介があったのが嬉しかった。
ポカラはとても良い観光地で、気候温暖にして風光明媚,時間が許すなら数日滞在しトレッキングの疲れを癒すべし,とガイドブックにあったのを真に受けて三泊四日の滞在を予定したのだが,無駄だった。
だからと言ってカトマンズに引き上げたところで普通に観光して歩く気など毛頭無い自分はどちらにしても所在は無いのだが。
トレッキングが終わったらさっさとタイに移動して南国のビーチでふやけていた方が良かったと後悔していた。
12月1日 日曜日
あの日本食屋でポカラ最後の夕食を食べた。
回鍋肉は単品だったので日本食セットと書かれたご飯と味噌汁と漬け物と冷や奴のセットを注文した。
ネパール人が作った回鍋肉の美味さに驚きながらすっかり馴染んだゴルカビールを呑み,わざと大きめの札で会計をし、釣り銭をチップにした。
日本語の上手い彼に,今夜が最後で明日の朝のバスでカトマンズへ行くと告げた。
彼はチップの礼とともに、楽しい旅を続けて下さい,そして,また来て下さいと言って店の外まで見送ってくれた。
12月2日 月曜日
朝7時半のツーリストバスでカトマンズに向かった。
バスは途中2時間おきに停車し休息したり食事をしたりして午後3時半にカトマンズに着いた。
僅か240キロ程度に8時間も掛かったのだが,その理由の多くは,カトマンズに入る前の最後の峠越えにあった。
後少しでカトマンズとなった山道で、故障し路上で修理している車が何台もあり通行に手間取って渋滞するのだった。
ほぼひと月ぶりに同じホテルにチェックインした。
一番良い部屋に通されたのだが道路に面した部屋は深夜まで煩く寝付けないので替えてもらった。
しかしその部屋は隣のビルの空調コンプレッサーの音が煩くもっと酷い部屋だった。
そう,これがネパールなんだなと諦めた。
12月3日 火曜日
ドルジが朝9時に迎えに来た。
今日はドルジの家でお昼をご馳走になるのだった。
タクシーで30分程走って着いたドルジの家は,小さなアパートの一室で,そこにはドルジの子供4人と5人暮らしだった。
昭和の時代,自分が子供の頃の日本でも6畳一間に家族5人が暮らしているなどそれ程珍しく無かったので驚きはしなかった。
それよりも狭い部屋を上手に使っている様子と清潔感に驚いた。
ドルジは簡単なつまみとウィスキーを用意していた。
自分がそれを飲んでいる間に彼は鶏を料理をし、あれこれとテーブルに並べてくれた。
この時,身銭を切って持て成すんなら俺から小銭をくすねる必要なんて無いじゃないか,と思ったと同時に,あの110ドルの伝票の一件は自分の勘違いで,本当に請求されるべき物だったのかとの思いが過った。
そして一番驚いたのは,ラクパ・ドルジ・シェルパを隊長としたエベレストへのエクスペディションクライミングの旗が飾られていた事だった。
何処かで疑っていたドルジはホンモノのエキスパートガイドだったのだと納得した。
ドルジのもてなしでほろ酔い加減になった頃,近くに有名な観光地「ボウダ」があるから行ってみようと誘われた。
ボウダが何かを知らなかったし観光には興味は無かったが歩いて行けると言うのが魅力的で,カトマンズの庶民の暮らしが見られると思い出掛ける事にした。
ボウダとは,仏舎利塔の大きな物のようで寺ではなかったが,ネパール一大きなボウダは参拝者と観光客でごった返していた。
仏舎利塔を取り囲むようにツーリスト向けの安宿や土産物屋が建ち並び活気があった。
土産物屋を冷やかし,路地裏の茶屋でチベット茶を飲みすっかり観光客になって夕方まで過ごした。
そろそろホテルに戻ろうと言う頃,ドルジが少し待っていろと言って走って行った。
戻って来た彼が手にしていたのは「カタ」と呼ばれる黄色い布だった。
それを自分の首に掛けてくれ、また来るんだよな,次はアイランドピークだよな,と言って両手で握手をした。
そうだな,次はアイランドピークだな,来年の秋にまた来るからと言って、表通りまで送ると言ったドルジと別れた。
ドルジって、良い奴だよな・・・彼奴が悪い奴だったらこんな事しないよな,と、自分はドルジの最後の演出にすっかりやられていた。
この夜,ホテルの部屋には何処からか聞こえて来るお祈りの声のようなものが静かに響いていた。
起きていれば気にならない程度の音なのだが目をつむって眠ろうとすると邪魔な物で気に触るのだった。
しかし,これがネパールなのだ,部屋を替えたところで何かしら新手の問題が起るのがこの国なのだと諦めたが、現実的には寝付かれず,TVで忍者ハットリ君の漫画を見ていた。
ハットリ君の英訳は日本語の微妙なニュアンスに欠けていてつまらなかった。
土産にと買っておいたネパールウィスキーの小瓶の封を切って呑み,酔っぱらっていつの間にか眠った。
12月4日 水曜日
まるっきり一日空いてしまった。
ガイドブックを片手に観光地を歩くなどは真っ平だ、と見栄を張ってもどこにも行くところは無く,する事も無かった。
ホテルのTVは英語が少なく,またNHKプレミアムの放送も無く見てもおもしろく無かった。
結局はタメルのホテルと土産物屋が密集する路地を歩き回り,適当な店に入ってビールを呑み,見飽きてしまった窓からの景色を眺めていたら夕方になった。
土産を買おうかと思ったが大きな物が入る余地は無く,小さくても重量物も持てないので何も買えなかった。
何度も同じ店を冷やかしていたら終いには相手にされなくなった。
晩飯は少し歩けば数件も見つかる日本食屋で食べる事にしていた。
相変わらずのカツ丼なのだが、カトマンズでもトンカツ定食とカツ丼と焼き肉定食は十分美味くて満足していた。
つまらない街だと思ったカトマンズだったが,今夜が最後だとなると幾分か名残惜しさも感じ,それでは、最後の思い出作りに一杯やりに行くか,と、趣向の変わった呑み屋を捜した。
やはり自分の嗅覚は優れているのか,とても怪しいバーを探り当てた。
しかしその手のややこしい事に手を出すには自分はもう若く無かったので雰囲気だけを楽しみ,馬鹿高いビール代を支払って退散した。
12月5日 木曜日
午後の便でバンコクに行くべく空港に行った。
空港でトレッキング中に知り合ったオーストラリアの少年に出会った。
彼は自分とドルジにしたたかロキシーを呑まされた事を根に持っているのか,愛想が良く無かった。
美人のお母さんに,オーストラリアに来たら電話をちょうだい、と、メモを渡されたが,少年の目は来るんじゃないぞと訴えていた。
バンコクでの長い待ち時間を無料の待合所のソファーで寝て過ごし,深夜の仙台行きの便に乗って帰国。
12月6日 金曜日
仙台の税関は成田より数段煩く,胡散臭そうで汚い自分はしっかりと時間を取られ通過。
これにてネパール旅行記は 完
観光する場所と言ってもヒマラヤの山並みとチベット仏教とヒンドゥー教の寺院くらいしか無く,それらは既に見飽きており敢えて出掛ける気にはなれなかった。
さりとて,街の中をうろついても土産物屋とレストランか茶店くらいしか行くところも無く時間を持て余した。
昼は少し早めに日本食屋に行き,カツ丼を食べ,餃子をつまみにビールを飲み,二時間近くも居座って,日本語の上手な店員の手が空いた時にネパールとポカラの話しを聞かせてもらって時間をつぶした。
それでも午後は手持ち無沙汰になり、ホテルの前の茶店や、近くの小さな雑貨屋の店番の男とどうでも良い世間話をして過ごした。
話しの内容は,ネパールのどうしようも無い貧困と政治への愚痴が主だった。
しかし,政治体制や貧困に対して不満は言うものの,他のアジアの国で見られる人のように自国に絶望はしていず,ネパール人である事の誇りも失っていないように伺えるのが面白かった。
茶店で見た新聞に日本語や英語を話せる人募集の記事が有った。
それは語学学校の教員の職だった。
茶店の主人にその事を問うと,出稼ぎに行くにも英語が話せないと職にありつけないとの事で,貧困からの脱出のための出稼ぎ者ですら,最初に幾許かの投資が必要になると言う矛盾が有った。
ナーランの事を思い出した。
ナーランは大学を中退していたが,それでも英語の読み書きが出来たのでマレーシアへの出稼ぎに行けた。
そして,8年間の出稼ぎで得た金で家を建て牛を飼い畑も手に入れたのだった。
茶店の主人が無造作に注ぐお替わりのロキシーを飲みながら、恵まれた日本国の事がちらりと脳裏をかすめる。
日本国しか知らないと恵まれた環境を活かす事もせずに流され、現状に不満を述べる。
先進国が故の病と,貧困国が故の問題は社会構造の問題と言うよりは人間の本質に根ざす事のように思えてならなかった。
注がれるままにロキシーをあおり話しをしていると,毎年訪れる金持ちの日本人の話しが出た。
その人は日本に会社を幾つも持つ金持ちで、ポカラの一流ホテルに一ヶ月も滞在するのだそうだ。
1日50ドルの高級ホテルに一ヶ月滞在するのだと彼は興奮気味に語るが,その程度なら日本のリタイアメントの小金持には雑作も無い金額で,特別な大金持ちでは無いと思ったが黙って聞いていた。
ポカラはネパールで一番洗練されたリゾートの街だが、しかし,世界標準のランク付けで行けば,かなり質素な部類に入る事を彼は知らないようだった。
ポカラに訪れる観光客の多くはアジアの秘境のヒマラヤに惹かれて来るのではあろうが、前提には,貧困国の物価の安さがあるのは否めないと思う。
ネパール人は会話が好きだ。
どんなつまらない事でも話題にし,そして熱っぽく語る。
自分の拙い英語の語彙は尽き,積極的に話す事も無くなり茶店を出た。
あまり暇だったのでホテルのカウンターで山と寺以外の名所は無いかと訊ねてみた。
すると,インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムなるものが有り,クライマーなら見ておくべきだろうと推された。
タクシーで300ルピーと言うので行ってみた。
インターナショナル・マウンテン・ミュージーアムはネパールの登山史と山岳民族の歴史や風俗が展示された興味深い博物館だった。
特にヒマラヤ8000m峰攻略の歴史が山別に解説されているのは当時の登山の様子を伺い知るにも貴重な資料だった。
日本人としてはマナスル初登の装備や写真が見られたのは感動ものだった。
こんなショボイ装備で良くもまあ~と,根性と執念の初登頂だった事がひしひしと伝わって来た。
自分の予想と違っていたのは,三浦雄一郎に関するものが何も無かった事だ。
その他の日本人関連の展示では,田部井淳子とエベレストのゴミ掃除人野口健が有った。
特に野口健の扱いは大きな一角を占め,回収した登山隊のゴミとともに展示されていた。
そして,自分が尊敬する冒険家(本人は僧侶だと言うが実体は冒険家か探検家だと勝手に思っている)の河口慧海の紹介があったのが嬉しかった。
ポカラはとても良い観光地で、気候温暖にして風光明媚,時間が許すなら数日滞在しトレッキングの疲れを癒すべし,とガイドブックにあったのを真に受けて三泊四日の滞在を予定したのだが,無駄だった。
だからと言ってカトマンズに引き上げたところで普通に観光して歩く気など毛頭無い自分はどちらにしても所在は無いのだが。
トレッキングが終わったらさっさとタイに移動して南国のビーチでふやけていた方が良かったと後悔していた。
12月1日 日曜日
あの日本食屋でポカラ最後の夕食を食べた。
回鍋肉は単品だったので日本食セットと書かれたご飯と味噌汁と漬け物と冷や奴のセットを注文した。
ネパール人が作った回鍋肉の美味さに驚きながらすっかり馴染んだゴルカビールを呑み,わざと大きめの札で会計をし、釣り銭をチップにした。
日本語の上手い彼に,今夜が最後で明日の朝のバスでカトマンズへ行くと告げた。
彼はチップの礼とともに、楽しい旅を続けて下さい,そして,また来て下さいと言って店の外まで見送ってくれた。
12月2日 月曜日
朝7時半のツーリストバスでカトマンズに向かった。
バスは途中2時間おきに停車し休息したり食事をしたりして午後3時半にカトマンズに着いた。
僅か240キロ程度に8時間も掛かったのだが,その理由の多くは,カトマンズに入る前の最後の峠越えにあった。
後少しでカトマンズとなった山道で、故障し路上で修理している車が何台もあり通行に手間取って渋滞するのだった。
ほぼひと月ぶりに同じホテルにチェックインした。
一番良い部屋に通されたのだが道路に面した部屋は深夜まで煩く寝付けないので替えてもらった。
しかしその部屋は隣のビルの空調コンプレッサーの音が煩くもっと酷い部屋だった。
そう,これがネパールなんだなと諦めた。
12月3日 火曜日
ドルジが朝9時に迎えに来た。
今日はドルジの家でお昼をご馳走になるのだった。
タクシーで30分程走って着いたドルジの家は,小さなアパートの一室で,そこにはドルジの子供4人と5人暮らしだった。
昭和の時代,自分が子供の頃の日本でも6畳一間に家族5人が暮らしているなどそれ程珍しく無かったので驚きはしなかった。
それよりも狭い部屋を上手に使っている様子と清潔感に驚いた。
ドルジは簡単なつまみとウィスキーを用意していた。
自分がそれを飲んでいる間に彼は鶏を料理をし、あれこれとテーブルに並べてくれた。
この時,身銭を切って持て成すんなら俺から小銭をくすねる必要なんて無いじゃないか,と思ったと同時に,あの110ドルの伝票の一件は自分の勘違いで,本当に請求されるべき物だったのかとの思いが過った。
そして一番驚いたのは,ラクパ・ドルジ・シェルパを隊長としたエベレストへのエクスペディションクライミングの旗が飾られていた事だった。
何処かで疑っていたドルジはホンモノのエキスパートガイドだったのだと納得した。
ドルジのもてなしでほろ酔い加減になった頃,近くに有名な観光地「ボウダ」があるから行ってみようと誘われた。
ボウダが何かを知らなかったし観光には興味は無かったが歩いて行けると言うのが魅力的で,カトマンズの庶民の暮らしが見られると思い出掛ける事にした。
ボウダとは,仏舎利塔の大きな物のようで寺ではなかったが,ネパール一大きなボウダは参拝者と観光客でごった返していた。
仏舎利塔を取り囲むようにツーリスト向けの安宿や土産物屋が建ち並び活気があった。
土産物屋を冷やかし,路地裏の茶屋でチベット茶を飲みすっかり観光客になって夕方まで過ごした。
そろそろホテルに戻ろうと言う頃,ドルジが少し待っていろと言って走って行った。
戻って来た彼が手にしていたのは「カタ」と呼ばれる黄色い布だった。
それを自分の首に掛けてくれ、また来るんだよな,次はアイランドピークだよな,と言って両手で握手をした。
そうだな,次はアイランドピークだな,来年の秋にまた来るからと言って、表通りまで送ると言ったドルジと別れた。
ドルジって、良い奴だよな・・・彼奴が悪い奴だったらこんな事しないよな,と、自分はドルジの最後の演出にすっかりやられていた。
この夜,ホテルの部屋には何処からか聞こえて来るお祈りの声のようなものが静かに響いていた。
起きていれば気にならない程度の音なのだが目をつむって眠ろうとすると邪魔な物で気に触るのだった。
しかし,これがネパールなのだ,部屋を替えたところで何かしら新手の問題が起るのがこの国なのだと諦めたが、現実的には寝付かれず,TVで忍者ハットリ君の漫画を見ていた。
ハットリ君の英訳は日本語の微妙なニュアンスに欠けていてつまらなかった。
土産にと買っておいたネパールウィスキーの小瓶の封を切って呑み,酔っぱらっていつの間にか眠った。
12月4日 水曜日
まるっきり一日空いてしまった。
ガイドブックを片手に観光地を歩くなどは真っ平だ、と見栄を張ってもどこにも行くところは無く,する事も無かった。
ホテルのTVは英語が少なく,またNHKプレミアムの放送も無く見てもおもしろく無かった。
結局はタメルのホテルと土産物屋が密集する路地を歩き回り,適当な店に入ってビールを呑み,見飽きてしまった窓からの景色を眺めていたら夕方になった。
土産を買おうかと思ったが大きな物が入る余地は無く,小さくても重量物も持てないので何も買えなかった。
何度も同じ店を冷やかしていたら終いには相手にされなくなった。
晩飯は少し歩けば数件も見つかる日本食屋で食べる事にしていた。
相変わらずのカツ丼なのだが、カトマンズでもトンカツ定食とカツ丼と焼き肉定食は十分美味くて満足していた。
つまらない街だと思ったカトマンズだったが,今夜が最後だとなると幾分か名残惜しさも感じ,それでは、最後の思い出作りに一杯やりに行くか,と、趣向の変わった呑み屋を捜した。
やはり自分の嗅覚は優れているのか,とても怪しいバーを探り当てた。
しかしその手のややこしい事に手を出すには自分はもう若く無かったので雰囲気だけを楽しみ,馬鹿高いビール代を支払って退散した。
12月5日 木曜日
午後の便でバンコクに行くべく空港に行った。
空港でトレッキング中に知り合ったオーストラリアの少年に出会った。
彼は自分とドルジにしたたかロキシーを呑まされた事を根に持っているのか,愛想が良く無かった。
美人のお母さんに,オーストラリアに来たら電話をちょうだい、と、メモを渡されたが,少年の目は来るんじゃないぞと訴えていた。
バンコクでの長い待ち時間を無料の待合所のソファーで寝て過ごし,深夜の仙台行きの便に乗って帰国。
12月6日 金曜日
仙台の税関は成田より数段煩く,胡散臭そうで汚い自分はしっかりと時間を取られ通過。
これにてネパール旅行記は 完