じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

宮古市 縄文の森ミュージアム

2021-11-06 19:45:23 | 縄文時代の話
あれはもう四日も前なので遥か昔の出来事ではありますが岩手県は宮古市の「崎山貝塚・縄文の森ミュージアム」を訪ねたわけであります。

入館料200円 見る価値大有りです!!!

いや、あまり大きく無い市営の施設なので展示物は比較的少なくこじんまりとした印象は否めないのですが縄文前期から後期の2500年も続いた崎山貝塚からの出土品は興味深いものでありました。

海の街らしい展示です

んっ? どこかで見た雰囲気が無きにしも非ず・・・ああ、あれは我が郷土の里浜貝塚の丸木舟の漁師だ、と思いましたが、まっ、いいでしょう。

あれです、縄文時代の疑問の1つに「縄文人の外洋航海」があるわけです。
いや、丸木舟がたくさん出土しているのは知っているし、それを操って沿岸で漁をしていたのは間違いないと自分も思うわけです。

しかし、丸木舟でどこまでの航海ができたのか、そこが疑問なんであります。
いや、多少船と航海の知識があるばかりにどーにも謎が多く分からないのであります。

あれです、外洋航海の話に必ず出てくるのが黒潮に乗って、なんですけれども、乗って流れてくるのは有りだとしても航海と言うからには戻る事もできたわけであります。

しかし、昭和の焼玉エンジンの船なら、潮と風向きによっては遡るのも難儀したほどの黒潮をどうやって遡ったかが自分には思いつかないのであります。

帆をあげたか人力で漕いだか・・・と言っても数夜を超える航海だと水や食料はどうした? 
丸木舟にそんな積載ができるとは思えないが、いや、丸木舟を連結して食料を積む船、水を積んだ船、そして漕ぎ手の交代要員が乗る船とやる方法も考えましたが、やっぱし自分の中では謎のままであります。

鹿角製疑似鉤

なんとぉ・・・鹿角製擬似鉤には興奮しました。
いや、縄文人がこれを「角」ツノと呼んでいたかどーか、多分違うと思いますが現在の日本ではツノと呼ぶ擬似鉤があるわけです。

まっ、ツノは今時としては古い道具ではありますが自分も使ったことがあるわけでして、元は縄文時代に遡ると思うと胸が熱くなります、なんちゃって。

で、ここで頂いたパンフレットに丸木舟製作の技術ってのがありまして縄文時代の丸木舟の解説が丁寧にされているわけです。

で、興味深いのは、丸木舟の底が焦げたものが出土し、それは船底を火で焼いて削ったから、とあるわけです。

いやいや、自分はフィリピンはミンダナオ島の海辺の寒村で丸太を焼いて削り出して作る丸木舟を見ていたので驚かないわけであります。

で、もう一つ・・・7500年前の日本最古の丸木舟が千葉県で発掘され、船尾には焦げ跡が確認されたとあるわけです。

私ゃこれについても一言あって、その焦げ跡はカマドだと思うのであります。
なんとなれば、フィリピンで夜通しの航海をする船は船尾にカマドを設え簡単な煮炊きをするのであります。

もしも、縄文人が夜を越えての長距離航海をしたとするなら船尾に木灰を使ったカマドを設え燠火を蓄えドングリなどを煮て食ったと思うのであります。

それの名残が船尾の焦げ跡と思うんですが、まっ、いいでしょう。

いや、魚は刺身で食えるので日干しか生で食ったと思いますが、なんちゃって。

あれです、自分が縄文時代にのめり込むのはどんな本を読んでも全てが仮説であり、実際は謎だらけでなんとでも言えるところであります。

私ゃ反論に対して既に切り札を思いついてあります・・・んじゃ、見て来たのか? と。

大きなヒスイの玉は糸魚川産だそうです

いや、日本海側の糸魚川原産のヒスイが太平洋側の宮古までどーやって運ばれたのか、ここが一番想像の楽しみであります。

で、直線距離で450キロ・・・陸路は難儀なので海路で運ばれたであろうとの解説でありますが、これにも異議ありです。

あれです、アマゾンと宅急便の関係のように注文者がいて出荷され、配送経路に乗って届くってなものでは無く、たぶん原石を持った人か一家がなんらかの理由で旅に出てたどり着いた先が宮古市であり、しかも一代で辿り着いたとは限らず、何代かの手を経てもたらされたとは考えられないのでありましょうか?

だとすると海路よりも断然陸路の方が線が濃いと思うし、自然だと思うんでありますが、まっ、いいでしょう。

おおっと、ほんとーはヒスイの穴の話で締めようと思っていたんですが時間になってしまいました。

では、皆様と自分の明日がそこそこ良い日でありますように願いまして、おやすみなさい、と。









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三内丸山遺跡へ行った

2021-11-04 14:19:57 | 縄文時代の話
  三内丸山遺跡といえば、知る人ぞ知り、知らない人でも名前くらいは聞いていると言う日本人の心の故郷であります。

で、私は2度目の訪問なんですが、ここが自分の縄文時代への入口でして、あれから少し縄文知識を蓄えたのでもう少し奥深くが見えやしないかとの思いで訪れた次第であります。

そんなわけで、仙台から東北自動車道で青森市のまでまっしぐら!!!
で、高速を降りたらナビが小牧の遺跡の「小牧の館」が近いと教えるので先にそちらを見学して三内丸山遺跡に回った次第であります。


縄文後期の集落の集会場と火の見櫓(多分違う)

いや、南太平洋の島国の国会議事堂にこのような建物があったと記憶しているんですが、木造モルタルのチンケな我が家とは比較にならない重厚な建物であります。

で、火の見櫓と思しき櫓は直径1メートルの栗の巨木を6本柱に立てたものでして、私の勘では祭壇であったと思うんですが、大概皆もそう申しているようなので多分そうでありましょう。

人型になる前の板状の土偶

土偶の細部はそれぞれ違いますが、概念としては共通なので形には意味があったものと想像するわけです。
そこで土偶に念を送って得た答えは、これは位牌であった、と言うことなんですが、まっ、いいでしょう。

人の顔が付くようになった土偶

で、顔がないのは死者の証で位牌と思ったわけですが、これには顔があり目も開いているので元気な雰囲気であります。
そこで土偶に念を送り尋ねると、これは身代わりのお守りであった、と言うことなんですが、まっ、いいでしょう。

作者は縄文のモンクと言われた巨匠です(嘘)

目・口・耳・鼻・乳・出臍・・・そして縫い目のあるシャツを着てパンツまで履いている土偶であります。

顔が持つ異界の雰囲気と首から下の遊び心が縄文人の知性を感じさせる一品であります。

正確には「大型十字形土偶」と呼ばれ、頭が皿状になっていることから北陸地方の「河童土偶」の影響を受けたかもしれないと言われる逸品であります。

大は栗10個 小は栗6個と交換していた(嘘)

いや、どーみても作者は一緒で、三内丸縄文村には人形師がいたとしか思えないわけであります。
と、なると、人形師は漁ろうや畑仕事には行かず、作った人形と栗や芋や魚と交換していたと思うので付加価値の創造という職業があったと思うわけですが、まっ、いいでしょう。

この土偶には見るべき点がもう1つ・・・目が開いている、であります。

子供の手形と足型を焼いた 誕生記念品

縄文時代の後期は人口26万人ほどであり、狩猟採集型としては世界一人口密度が高かったと言われています。
まっ、この後寒冷化などで八万人まで減少し、日本人絶滅の危機第一回目を迎えるわけですが、26万人いたとしても出産や子供が育つのは大変なことであったことは間違い無いわけであります。

子供は国の宝、村の宝、そして当然一家の宝でありまして、何はさて置き子供大事の生活であったことは容易に察せられます。
その証が手形足形を焼き込んだ土版でして今で言う七五三的節目を祝ったものと思いますが、まっ、いでしょう。

笑顔的ですが目を閉じでいる 土製仮面

遮光機土偶の代表的な顔

三内丸山遺跡は2000年間も続いたそうで、だから多様な土偶の出土があり縄文時代の変化がシロートにも見えるわけであります。

で、各地の出土品から出でくる遮光器土偶が三内丸山遺跡からも出ているわけであります。
が、此処では遮光器土偶と似た雰囲気なのに目玉を見開いた土偶も見られるわけであります。
そこで私は土偶に念を送り何故目を瞑っているのかを問うたわけであります。
すると土偶は言いました「死んでしまったので目を閉じているのだ」と。
さらに土偶答えて曰く「女性しかいないのは出産に伴う死者を弔ったのだ」と言うのでありましたが、まっ、いいでしょう。

虫眼鏡の下にはニワトコの種子が大量に

皆様はニワトコをご存知ですか?
赤い実がブドウのように実る低木樹でして、実は発酵しやすいので縄文人はこれで酒を造ったとされています。

粋ですなぁ・・・果実を発酵させた酒を囲炉裏の前で飲む。
傍らには子供をあやす女房がいてゆらゆらと燃える炎が暖かく子供はすやすや。

蛇足ですが、狩猟採集の民であった縄文人の労働時間は実働3時間ほどあったとする説があります。
いや、それが持続可能な生活の元になるってことを知っていて欲張った狩猟はしていなかったそうでありますが・・・なんなんだ縄文人よ!!! 羨ましすぎるぜ、なんちゃって。

縄文人よ!!!お前も日本人なんだな

いや、長い石の棒の先に丹念に彫り込まれた文様は紛れも無い男根でありまして、日本各地の神社にあるそれそのものでありました。
しかも、ご丁寧に棒のあっちとこっちの両方に掘る凝りようですが、祭祀用では無いような気がし、石の棒に念を送って聞いて見ました。
すると石の棒答えて曰く「シャレだよシャレ、男は獲物とってなんぼ」と。

そんなわけで子供が宝の縄文社会では子を産む女こそが偉いわけれで、だから亡くなると土偶も作られたのでは無いか、なんてことを思うわけですが、まっ、いいでしょう。

そして、土偶でもなんでも男に関する出土が少ないことを鑑みれば価値が低かったからとしか思えないのであります。

あれです、日本列島に人口20〜30万人というと種を繋ぐのに苦労する密度という説もあるわけで、そー言うことだと男の嫁探しも大変だったろうな、なんてことを思うわけであります。

そして、それは翡翠の勾玉なんかに繋がるかも知れないと思うんですが、それは次のお話に、なんちゃって。


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小牧野遺跡へ行った

2021-11-03 15:38:51 | 縄文時代の話
2021年11月1日 月曜日

世界遺産である北海道・北東北縄文遺跡群の一角を占める小牧野遺跡の「青森市小牧の遺跡保護センター」小牧野館に行ってみた。

仙台からは距離にして380キロほどと少し遠いが東北自動車道を利用すれば4時間30分ほどで行ける。
時間距離としては然程の事では無かった。

と、言う感じで真面目に縄文施設を訪ねたわけですが、私ゃ縄文の学び舎・小牧野館を拝観し、これまでの縄文時代に関する認識を大きく変えた次第であります。

その感覚は、縄文人とは友達になれる、でありました。




平成24年閉校の野沢小学校を利用している

なんと申しましょうか、縄文時代の施設の多くは入館料無料というのが多く、料金があったとしても200円とか300円と安いのが常だと思うのであります。

まっ、金を取ったら誰も見に来ないと思しき施設も無きにしも非ずなのでそー言うことなのかとも思いますが、まっ、いいでしょう。

自分の小学校より近代的であります

閉校になったとは言え外観も内部もまだ綺麗で明日にでも再開できる雰囲気が漂っていました。

尋常小学校の卒業証書には 「平民 」の文字が

さて、小牧野遺跡とは縄文後期前半(4000年前)の環状列石を主体とする遺跡であります。
大規模な環状列石は土地造成がなされており、縄文人の土木工事の実態を知る上で重要な遺跡であります・・・と、パンフレットに書かれています。

環状列石は祭祀に関連するらしく貝塚遺跡とは違った出土品が見られます。

縄文人のウンコの化石 糞石

なぜにウンコが溶けて流れず化石になったのかは分かりませんし、どうしてそれがタヌキなどの動物の物で無く縄文人だと分かるのかも謎ですが、まっ、いいでしょう。

しかし、私は糞石に付随する説明を読み目からウロコが落ちたのでありました。

縄文人は野糞が常であったらしく用足しの後は生えている葉っぱで始末したそうであります。
自分は野山で経験済みなのでどのような葉っぱが適しているかは経験で知っていますが、それは縄文人と共通でありました。

適応する葉っぱはヤマブドウ・ヨモギ、そしてフキでありますが、此処に驚愕の事実があるわけです。

フキの語源は、尻拭きだったと言うことで一人きりの館内で腹を抱えて笑いました。

手の平サイズに精密な文様

縄文中期の板状の土偶

奥の遮光機土偶は晩期 手前は縄文後期

縄文時代と一口に言ってしまうのは乱暴だと思うようになった理由が土器や土偶の制作精度の違いであります。
それもその筈、中期と晩期の間には2000年もの時間があるのですから粘土細工も上手になって当たり前です。

しかし、同じ晩期の土器や土偶にはとても稚拙なものがある一方、遮光機土偶の名品に見られる精巧な作りと仕上げもあるわけです。

そこで、名品はお使い物であり、雑なものは家庭用なのかと思うのであります。

お使いものというのは祭祀用であったり贈り物かと思うんですが、まっ、いいでしょう。

写真の中に縄文晩期の「注口土器」がありますが、これの重厚な質感や精密な文様は素晴らしいものですが、考えさせられたのは用途であります。

祭祀用との見方が大方のようですが、私は異を唱えます!!!
これは尿瓶です・・・と言うのは小さすぎてダメなので、病人や年寄り用の「吸い飲み」であったと思うのでありますが、如何でありましょうか?

ええっ? 展示の際にそうとも書いてある、ですか?
いや、自分は見てないのでオリジナルです!!!

なんと申しましょうか、これが吸飲みだとすると病人や年寄りを慰り大切にしたから精巧な作りの土器をあてたと思ったわけであります。

と、そんなわけで、ここには2時間弱滞在してじっくり見学させていただきました。
まっ、他に見学者がいなかったので好きなように見られたと言うのもありまして、土器や土偶を見ながらなぜその形なのだ、と考えさせられる展示と言いますか、自分としては好きな施設の上位に入りました。

と、言うことで、次は大御所「三内丸山遺跡」であります。






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