じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ネパールの旅 総集編

2014-12-17 13:27:40 | ネパール旅日記 2014
2014年ヒマラヤの旅は11月2日に仙台市青葉区の陸前落合駅から仙山線に乗って始まり、11月26日に陸前落合駅に着いて終わった。

初めての中国国際航空の各駅停車便で、上海・北京・成都等を周り二泊三日も掛けてネパールはカトマンズに着いたのだが、帰国便が一泊二日なので都合三泊四日も中国国内遊覧飛行を楽しめて得をした気分であった。

中国の印象で特筆すべきは、香辛菜とザーサイの美味さは絶品であり、秋田のいぶりがっこや九州の高菜漬けに勝るとも劣らぬ物であると知った事か?

面白かったのは、北京の空港は空調が利いているにも拘らず石炭ストーブの匂いがした事で、噂は本当であったかと感心した。

いや、中国の表玄関しか見ていなくては言うのも烏滸がましいが、本当に言いたい事は、中国人も仏教のアジアの民であるなと言う事である。
成都のボッタクリ白タクなど、クアラルンプールのインド系タクシーの極悪運転手に比べれば可愛いものであった。

さて、ヒマラヤの旅を締めくくってみたいと思うが、これが中々上手くまとまらないのだ。
なんと言うか、往きも帰りも歩くのが主体であり、これはと思った所でカメラを向けて撮っていてもメモなどの記録を取る時間が無いので何の目的でこれを撮ったのか?と、なってしまっている。
そして、一番は言葉の壁であった。
観光客と接する事の無い村人は英語はまるで通じないし、それどころか各部族の言葉が入り交じれば、それは津軽の人と九州の人の会話に似たような事になり、通訳のタマンさんでさえ手を焼くのだった。
だから興味の湧いた事に対して突っ込んだ話しが聞ける事は希で、一を聞いて十を想像するしか無い事が多く、ここに書く内容の信憑席も推して知るべしとなってしまう。

雑多な写真で恐縮ではあるが、私が見たエベレスト街道の印象的な所をまとめてみたいと思う。


閑散としたルクラのメインストリート

いや、観光客の往来が減ったのはシーズンの終わり、冬が来るからと言う事よりも数日間悪天候が続きカトマンズからの観光客が運ばれて来ていないからである。
しかし、この写真で言いたかったのはそんな事では無い。
道路にコンクリートの四角い蓋のようなものが見えるのだが、これは下水のマンホールでは無いのかと思うのだ。
ルクラにはかなりの数の宿があってどの宿も水洗トイレなのだが、流した水は何処へ行くのか心配だったが、少なくてもメイン通りの宿のそれは下水様の物があって流されているのかと思ったのだが・・・。
しかし、仮に下水が流れたとして、それの最終処理はどうなっているのか?
そこを詮索してしまうと良く無い方向へ転がりそうなので話しはここまでと言う事で。


白に青線のロープが雪壁に張るフィックスロープ

ロープの前のポリタンクはケロシン、灯油である。
北米やヨーロッパでのコンパクトストーブの燃料はホワイトガソリンであるが、ネパールでは高地でなくても燃料は灯油であった。
特にエベレスト街道は車やバイク等の乗り物が無いのでガソリンは入手出来ない。
だから登山隊のバーナーもガスか石油になるのだった。


何故か鍋釜は全てアルミだ

金物屋の店先なのか、石油コンロやアルミの鍋ややかんが売られていた。
右端の青いのが石油コンロだ。
その昔し、と言っても僅か50年前は日本でもプロパンガスよりも石油コンロが幅を利かせていたのだが、ネパールのはコンロと言うよりもバーナーである。
ネパールの石油バーナーは燃料タンクにポンプが着いていて加圧出来る。
圧力を掛けて灯油をガス状にして噴射し燃やすのだ。
この方式でないと空気の薄い高地では強い火力が得られない。

さて、何故に鍋釜は全てアルミなのか?だが、これは運搬時の軽さの問題では無いかと思う。
旧い宿に泊まるとダイニングの棚に磨き込まれた銅製の鍋や食器が飾られている。
アルミが手軽に手に入るようになって真鍮や銅製は重さの点で駆逐されたまでは無いかと推測してみたが。


カラフルで見た目は上等なブランド品の山道具

この辺りで売られているブランド物の衣料品は間違い無く偽物である。
様々な有名ブランドがまさかと言う価格で売られている。
それらのクォリティーは、本物より落ちるが価格で考えたら優秀だな、と思う。
ネパールの法律は知らないが、ブランドの保護に敏感な国の白人達も数日や数週間のトレッキングで使い倒すのにと難しい事を言わずに買っている。
ナムチェには本物を扱う店があるが、クライミング用品もウェアーも本物は日本で買う方が安い。


水牛の肉だと言われたが・・・

日本に「山くじら」と言うのが有ったをご存知だろうか?
私としては水牛なら食べても良いと言うネパール人の話しが日本の「山くじら」に結びついて仕方が無いのだ。
日本では、獣肉を食する事が禁じられた時代に、猪を山の鯨であると詭弁を弄して食べていた。
私は日本の山くじらがネパールの水牛に被ってしまうのだ。
そもそも水牛は牛では無いと言うのはヒンドゥー教の、水牛は悪魔の使い、悪魔の乗り物と言う所から来ているので仏教徒には関係がないのだ。
ヒンドゥーもポン教もラマ教も仏教もごちゃ混ぜ信仰を仰いで気にならない人達が年老いた牛を処分して食べない訳が無いと思うのだ。
だから、年老いたヤクやゾッキョは間違い無く山くじらになっていると思うのだが。


これが何かわかりますか?

昨年の30日と今年の21日を足して都合50日程ヒマラヤ近辺を歩きましたが、この様式のトイレは初めてでした。
なんと申しましようか、これはトイレなどと呼ぶのは失礼で「厠」と言うべきであるなと思いました。


トイレの中に新聞紙!!!

厠に入るとそこはかとない良い香りがする。
いや、冗談や比喩では無く、本当に清々しい香りが漂っているのだ。
それは、一面に敷き詰められたヒマラヤ杉の葉っぱから漂う物である事は間違い無い。
そして、恐る恐る穴の中を覗くと、異物の類いは何も無く全面に杉の葉っぱが敷き詰められているだ。
私は瞬時に閃いた・・・この厠は使用後に杉の葉っぱを落とし、全てを隠して処理するのだな、と。
私は、杉の葉っぱの最後の処理はどうするのかを尋ねたかったがその時間無く残念だった。


ゴミ箱だと思うのだが

昨年歩いたアンナプルナサーキットにはこの様なゴミ箱は無かった。
しかしエベレスト街道は要所に石造りのゴミ箱が有って、片方がペットボトル、もう一方が缶類となっていた。
アンナプルナもエベレスト街道も殆どゴミは落ちていずきれいだが、何かが落ちているとすると、トレッカーが捨てたり落としたゴミでは無く、地元の人の生活ゴミである事が多い。



仏教の子供達

陽当たりの良い岩陰に子供達が寝転んでいた。
学校帰りの三人は近所の子供らで兄弟では無かった。
写真を撮ろうとすると手で顔を覆って隠してしまう。
何か無いかと考えたらソイジョイを持って居たのでそれで吊って撮った。
1本のソイジョイをラムさんが三等分にして渡したが、誰一人としてありがとうの言葉は無かった。
成る程、この子等は喜捨の精神を知っているのだなと唸ってしまった。


荷は相当重そうで登りは小刻みに休んでいた

日本にでも山で強力を生業とする人が在ったが、今は恐らく絶えていると思う。
ボッカをする人は今でも見られるのだが、新田次郎の強力伝のような人は現代ではいないと思う。
しかし、ヒマラヤの山の中には今でも100キロを担いで山道を往く人は普通に居る。


この荷は100キロ有るだろうか?

ネパール人の体格はとても華奢で100キロもの重荷を背負って山道を行くなどとは思えない。
重荷と言うのが30キロや40キロなら自分も背負って山を歩いた経験はあるが一日が限界であった。
彼らは生まれ育った所がネパールだからと言ってしまえばそれまでだが、あの仕事ができるかと問われれば、自分には絶対に不可能だと言い切れる。
もしもネパールに生まれていたら自分もあの荷物を担げただろうか?
それしか喰って行く道が無ければやるしか無いのだが、日本人に生まれ育った自分の思考では想像する事も出来ない。


  唐突に・・・これにて 2014年ヒマラヤの旅は完結です。




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ルクラ にて

2014-12-16 10:13:12 | ネパール旅日記 2014

 11月21日~24日 飛行機待ちでルクラに停滞。

 11月20でトレッキングは終わったがヒマラヤの旅最後の詰め、ルクラからの脱出が予定通りに行かなかった。

 予定では11月21日の早朝の便でカトマンズに戻るはずだったのだが、21日の便は乗れなかった。

 21日の夕方、一日中空港に張り付いていたラムさんが宿に戻って来て、明日の11時のフライトの予約が入ったと言って、まあ一日の遅れなら良い休養だと、余裕で構えていた。

 しかし、結局は飛行機に乗れずに宿でブラックティーを飲んでいた。


サンルームに自分の椅子を見つけ終日占領する

 ルクラの飛行場(テンジン・ヒラリー空港)は一説には「世界一危険な飛行場」と言われている。
滑走路の長さは460mで幅が20m、有視界飛行で降りるしか無い。
しかも、空港は標高2800mの高地にあって気象条件は目まぐるしく変化する。
着陸する時は山側に向かって登りを利用して減速し、離陸の時は下りを使って加速し谷に向かって飛び降りるようにして飛び立つ。
まるで航空母艦のカタパルトのようだと評されているのだが、実際に飛行機が飛び立つのを見ていると、滑走路から飛び出した飛行機は速度不足なのか一瞬谷に沈んで見えなくなる。

 そう言う飛行場なので欠航が多かった。
元々14人乗り程度の小型機でピストン輸送をしていて、着陸したら直ぐに乗客を入れ替えて飛び立ち、カトマンズで下ろしたらまた飛んで来ると言う忙しい飛行機なのだ。

 カトマンズとルクラの飛行場の間には4000m近い峠があって飛行機はぎりぎりの高さでそこを超える。
その時は晴れていて雲一つ無い空でも結構揺れる。
山の斜面が温まると上昇気流が生まれ安定しないのだそうだ。

 悪条件を幾つも乗り越えてルクラにやって来る小型飛行機は以前は良く落ちた。
滑走路の拡張整備と、今は安全を優先して疑わしい天候のときは欠航となっているので落ちる事は少なくなったそうだ。
だが、落ちなくなった分だけ欠航が増えた。
元々ハイシーズンには予約の取り難い航空券で常に混んでいる。
それが欠航すればあっという間に乗客は溜まり益々混雑する。
そう言う事で正規の航空券を持って居ても順番待ちで当日に乗れないと言うのは普通にある事らしい。


空港のターミナルへ行く道

飛行機待ちと言われても状況が分からず、他にカトマンズに戻る手は無いのかなども含めラムさんに説明を求めるのだが、この手の状況になるとネパール人気質そのままで、納得のいく説明は貰えなかった。


金網越しに飛行機の来ない静かな空港を眺める

昨夜は明日の予約が入ったと言っていたのに今日になると何時乗れるか分からないと言う。
それでは昨夜の予約が取れたと言う話しはなんだったのかと問うのは無駄だった。
ラムさんの説明では乗る人が沢山居て順番が回って来なかったと言うのだ。
それだったら予約じゃないだろうと自分は思うのだが、確かに、航空会社のキャンセル待ちの受付ではラムさんの言う時刻の飛行機に我々の名前はあった。

空港で苛々しながら順番待ちをしている人の中に同じ宿で4日目のフライト待ちをしているオーストラリア人を見つけた。
彼の所へ行って様子を聞いてみた。
彼が苛々している理由は帰国便のフライトが明後日に迫っていてどうしても明日の便に乗らなければならないからだった。
私が賄賂とか通じないのと尋ねると、そんな金は持っていないと言う。
賄賂では無いのだが、新たにチケットを買えばキャンセル待ちでは無いので直ぐに乗れると言う情報を他のガイドから聞いていたのだが、それも定かでは無かった。

この日の夜、彼を宿のダイニングで見掛けなかったので午後の便に乗れたのだろう。


カトマンズからの飛行機は来ないがヘリなら飛べるらしい

お昼になって宿に戻るとフランス人の親子とガイドが言い争っていた。
ガイドはお金を出して別のチケットを買おうと提案していたのだが親子はそんな金は無いと言い、チケットを買ってあるののにおかしいだろうと言っている様子だった。
そして、親子の帰国の便も決まっているらしく、日程に余裕は無かった。

他にもう一組、こちらは父娘なのか、それとも老けて見える男性に若く見える女性の組み合わせなのか、イギリス人と思しき二人連れが居た。
こちらは飛行機待ちが3日目だそうだがトレッキングガイドがついていて、しかも日程は気にならない様子で暢気に構えていた。

色々聞いて回るうちに正確な実体が分かって来た。
自分達がルクラに着く数日前から天候が悪く飛行機が欠航していて相当な人数がキャンセル待ちをしていた。
しかも、悪天候は完全には解消していなくて、明日は飛べるだろうと言う予測でキャンセル待ちの順番を入れているのだった。
それが終日飛べなかったとなると、また翌日、似たような順番で待つ事になる。
成る程、一日経っても一向に順番が進まないと思ったら飛行機が飛んでいなかったのだ。

自分には予備日が4日あった。
ルクラの飛行機が不安定な事と、アイランドピーク登頂の天気待ちなどで4日の余裕を持ったのだが、少し不安になっていた。

宿が気楽で快適だったので停滞は苦にならなかった。
キッチンの若いコックと親しくなり日本語を教えて暇つぶしをした。
彼はとても真面目で聞いた言葉をメモし、直ぐに反復して使い方が正しいか確認する。
これだものなぁ、仕事で使うツールだから飯の種だもの真剣だよな、と恐れ入る。
そして彼は授業料としてブラックティーやミルクティーを御馳走してくれた。

夜は宴会だった。
20日の夜にビール代として3000RPを支払ってからは毎晩宿のご主人にご馳走になっていた。
初日に1本500RPだったロキシーも好きなだけ飲ませてくれたし、茹でたジャガイモや大根の漬け物を振る舞ってくれた。

ガイドがいてもいなくてもトレッキングは出来ると思うが、この歳になるとあまり度の過ぎたハプニングは楽しく無い。
金で便利さと気楽さを買うなら旅は止めた方が良いと言うのを何処かで読んだ。
しかし、ルクラでの飛行機の順番待ちやその後の手続きなど、やってやれない事は無いが、ラムさんがいたお陰で自分はミルクティーを飲んで暢気にしていられた。



11月20~22日と3泊し、23日の昼頃の便でカトマンズに戻った。




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ナムチェ~ルクラ

2014-12-15 19:30:57 | ネパール旅日記 2014

 11月20日 木曜日 曇り ナムチェ(3440m)~ルクラ(2800m)

 昨夜9時頃、サイレンの音が聴こえたと思ったら宿中が騒がしくなり、やがて通りでも人が走る足音や大きな声が聞こえ、訳は分からないが尋常では無い雰囲気が感じられた。
私は万が一の事を思い貴重品と少しの着替えをザックに入れ、飛び出す準備をした。

 恐らく火事だろうとは思ったが何処でどんな火事なのか、この宿に近いのか遠いのか、何も分からないので動きがとれなかった。
しかし、本当に危険が迫っていたらラムさんが知らせに来るだろうと思い部屋で待機していた。

 ナムチェの家は段々畑の棚に立てられているようなもので消防車はおろか、手押し車さえ動ける場所では無かった。
火事だとしたら消火はどうするのだろう?水だって豊富では無いのだから大変な事になるなと思った。

 そんな事を思っているうちに飛び出して行った宿の人達が雑談をしながら戻って来た。
その雰囲気に緊張感は無く騒動は納まった事が伺えたので靴を脱いで寝袋に潜り込んだ。
9時過ぎと言うと今の自分には深夜に当る時刻なので直ぐに寝入ったようだった。

 翌朝、ラムさんに騒動の事を尋ねるとやはり火事だった。
少し上の学校のそばの民家で小火があったが軍隊が出て直ぐに消し止めた、との事だった。

 7時30分 ナムチェ出発。
今日がこのトレッキング最後の歩きで、標高差700メートルを距離20キロで下る。
昨年の最後の日は結構感傷的になって歩いたのだが今日はそんな気持ちはあまり無かった。
これが最後かと思って来てみれば、来年は何処へ登ろうかに気持ちは変わっているし。


Kongde 来年はあれに登りたいと言ってみたが

つい一昨日までは氷と岩の世界に居たのだが、今は日本の農村と変わりない風景の中を歩いているのが少し不思議ではあった。
ヒマラヤの凄さは亜熱帯から極寒まで、高度さが造り出す気候の垂直分布であるな、などと独り言を言いながら全力で歩いた。
この時、自分の気持ちは既にトレッキングの歩きを楽しむ方向には無く、ルクラの宿で熱いシャワーを浴び髭を剃り、そして、15日間口にしていないビールの方へ飛んでいたのだった。


奥会津の只見の方の景色に似てる気がするが

田舎の景色と言ったら語弊があるが、しかし、急峻な山と深い谷があって、僅かな平地にへばりつくように開けた山村の風景は、アジアに限っては何処の国も似ていると思うのだが。


急ぎルクラを目指す私はゾッキョを無視して橋を渡った

橋の向うから荷物を運ぶゾッキョ(牛)が隊列を組んで渡った来る。
昨日までの私は安全策を採ってゾッキョが渡り切るまで待っていたのだが今日は無視して突っ込んで行った。
その理由は、気が急いていたと言う事も少しはあるが、ルクラとナムチェと言う二大都市間は物流も多く荷を運ぶゾッキョが引きも切らずにやって来るので待っていたら先に進まないのだ。

 11時00 パクディン着 昼食
パクディンの宿は往きに泊まったのだが、ラムさんが懇意にしているようで居心地が良かった。

ここまで来る間にかなり豊かに育った野菜類を見て来た。
標高は2600mもあるのだが、さすがに亜熱帯のネパールで葉物の野菜や芋類、そしてトマトも実っていた。
なので昼食はトマトソースのスパゲッティーにした。
案の定、小さなトマトをボールにひとつ程もソースに使ったスパゲッティーは美味かった。
日本で言うと超特盛り・・・味噌ラーメン丼一杯分くらいのスパゲッティーを平らげた。

 11時45分 パクディン出発
出掛ける時に道は一本道である事と、宿は空港のそばで、往きに昼飯を食べた所で良いのかを確認した。
この日の私は絶好調を通り越して神懸かり的に速く歩けていた。
だから常にラムさんとカンニさんを待っていたのだが、それが勿体無い。
此所まで来たらもう残り10キロと少し・・・ルクラまでは400mの登りだったが標高は3000mを切って自分のいつもの守備範囲に入っている。
2時間で行けると読んでいたのでラムさん達を待っているわけにはいかないのだ。


ルクラの街はトレッカーも少なく閑散としていた

 1時45分 ルクラ着
最後の200mの石段まじりの急登は一気に駆け上った。
とても苦しかったのだが、それは高所でもがく苦しさとは別の物で、言ってみれば馴染みの苦しさとでも言う感じだった。

ルクラの街の一番奥の空港近くの宿にたどり着き二階のダイニングに上がった。
しかし結局はラムさんが来てチェックインするまで部屋も決まらず、お茶も飲めずに待つ事になった。

ラムさんとカンニさんが10分後れでやって来た。
宿は空いている様子でダイニングに近い陽当たりの良い部屋が貰えた。
私は荷物を部屋に置くと、この時の為に温存してあった着替えやひげ剃りを持ってシャワールームに飛び込んだ。

プロパンガスの湯沸かし器からは熱いお湯がそこそこの湯量で出た。
これなら寒さを感じずに使える、優秀なシャワーであった。

頭も身体も汚れ過ぎているのか、シャンプーも一回では泡が立たず、タオルにはいくら石けんを擦り付けても泡は立たなかった。
タオルに至っては泡が立つどころか下ろしたての白いタオルが茶色に染まっていた。

厄介だったのはひげ剃りだ。
15日間伸ばしたヒゲに4枚刃のT字カミソリは役不足で、まずバリカンで刈ってからでないと剃れない感じであった。
しかしシャワーの使用に時間制限を言われ無かったのを良い事に、小一時間も使い続け、納得のいくまで洗った。

シャワーを浴び、日本の洗剤の匂いが微かに残る衣服を身に着けたとき、清潔って気持ちが良いなとしみじみ思った。

この宿はラムさんの遠い親戚だとかで待遇がとても良かった。
スマホの充電が無料で、WiFiも無料でパスワードを教えてくれた。

この夜、ラムさんが登頂祝いのささやかなパーティーをと言って鳥の唐揚げやモモ(ネパール餃子)をご馳走してくれた。
私はビールを解禁してラムさんとカンニさんと乾杯した。
ビールが好きだと言うカンニさんと、ネパールラム酒が好きだと言うラムさんにはそれぞれ好きなものを飲んでもらって自分はネパール焼酎のロキシーを燗して飲んだ。
その後、ラムさんの友達のガイドや宿のご主人も加わりいつの間にか盛大な酒盛りになり、私は久し振りに酔った。

カンニさんは明日歩いて二日程の家に向かって出発すると言うので夜のうちにボーナスを渡した。
序でに、このトレッキング中使い続けたダウンジャケットと軍手、毛糸の帽子なども貰ってもらった・・・日本にもって帰って洗って着られる代物ではなくなっているのだ。

 PM8:00 酔っぱらって寝袋に倒れ込む。

 11月20日 酸素濃度 データー

 ルクラ(2800m)94% 心拍数65 (PM3:30 )




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パンボチェ~ナムチェへ

2014-12-14 15:16:52 | ネパール旅日記 2014

 11月19日 水曜日 曇り

今日はパンボチェ(3930m)からナムチェ(3440m)まで、凡そ12キロを下る行程だった。
昨日の高低差1500m、距離20キロに比べれば相当楽に見えるのだが、どっこいそうは問屋が卸さないと言う事で、嫌な登り返しが幾つか待っていた。

6:00起床。
雲の中に居るのか全く陽射しのない朝だった。
しかし曇って放射冷却が無いからか温かく感じる。
素人の勝手な推測だが、4000mを境に急に緑が濃くなるのは気温のせいばかりでは無く雲が関係するのかと思った。
雨にはならないまでも雲が湧く事で湿気を帯び乾燥も免れるのでは無いかと思うのだ。

今朝は起きて直ぐにノートを開いて昨日の事を書き綴った。
此所まで下って来る前はノートが冷たくて触る気にならなかったのだ。
かと言って手袋をして書けばただでさえ汚い文字が自分でも読めないものになるし。

 7:00朝食。
「標高が下がると食べ物が美味くなる」は間違い無いと確信した。
此所の宿は古くて小さく食事は期待で来そうも無いと思ったのだが、ツナサンドが美味いと思っていたディンボチェの宿よりも一段と美味くなっていた。

ネパールに限らずアジアの国のツナ缶は日本と違ってカツオである。
カツオの血合いも一緒に入っているのでけっこう生臭い。
なのでツナサンドには黒胡椒などを多めに使うのだが、この宿では生タマネギをたっぷりとマヨネーズで味付けされていて美味かった。

8:00 パンボチェ出発


行きに大勢のトレッカーが居たティンボチェは閑散としていた

11月も半場を過ぎるとトレッキングシーズンは終わりになるのだろう、あれ程賑わっていたディンボチェのお寺に殆ど人影が無く静かだった。
とても良い声の読経が響いていた。


ラムさんとカンニさんの荷物も何故か殆ど軽くならない

昨日まで同じ目線の高さに在った山の頂を見上げるようになって標高が下がった事を実感する。

カンニさんはあと二泊で自宅へ帰るので奥さんと連絡しているのだろうか、頻繁に電話をするようになった。

食料やガスカートリッジが無くなったら軽くなるはずの荷物が、三人ともほとんど減っていなかった。
自分はフリーズドライと非常食で6キロ持って来ていたものがゼロになって、常に予備で持っていた1ℓの水も今は持っていない。
なのに登りの時より重い、推定10キロを背負っていた。
どうもテントやガスバーナーなどの装備がディンボチェの宿に置いてあって、シーズンオフなので持って帰っているのかと思うのだ。
自分の装備は基本的にはカンニさんが背負ってくれる事になっているのだが、ラムさんが背負い切れないテントなどのキャンプ道具をカンニさんが背負っていてあまりの荷物の多さに気が退けて自分の荷物の相当量を背負っていたのだった。


コンデが大きく見えればナムチェは近い

 10:30 プンケテンガ着
まだ早い時間だったが昼食にした。
次の村に行く前に標高差300mの登りがあって此所で休むのが正しいようだった。
お昼にはトマトソースのスパゲッティーにを食べた。
この標高まで下るとトマトが栽培されていて新鮮なトマトで美味いスパゲッティーが食べられるのだ。

11:30 プンケテンガ出発
歩き出してすぐ、ほとんど目の前から急な登りが始まっていた。
石段の道は登りも降りも嫌いだ。
小柄なネパール人には段差が大き過ぎるだろうと思うのだが、容赦無い歩幅で石段は続いていた。


岩場にヤギの群れが居た(メスと子供か?)

ラムさんがカモシカがいます、と言って指差した。
見るとヤギの群れが居た。
ラムさんは日本の剣岳の早月小屋でアルバイトをした経験があったが、そこでカモシカを見たのだろうか?
自分にはカモシカと言うよりはヤギに見たのだが。


ボス山羊は威厳が有る

ボスと思しき、立派なたてがみの大きなヤギが一段高い岩に立って当たりを見張っているように見えた。
薮の中にはメスと一緒の小さなヤギが数頭みられた。



ナムチェが近くなると道が広くなる

ナムチェが近付くと気温が上がり広葉樹が見られるようになった。
草木が茂れば昆虫や動物も見られるようにり、林の中にジャコウジカを見たり、道にキジが飛び出して来たりした。


滝の水場でゾッキョが水を飲んでいた

 13:30 ナムチェ着
登り返しはきつかったが空気が濃いので息切れして喘ぐ事は無かった。
ナムチェでも3440mあるのだが今の自分にはこの標高は高地とは感じなかった。

ナムチェの宿も空いていた。
行きには満員で通路にまで人が寝ていたのに今日は静かだった。
だが、それでも一人客の自分は前と同じ天窓しか無い部屋だった。

少し休憩した後にラムさんがSPCCのオフィスにゴミを持って行った。
さして大きく無いポリ袋二つ分のゴミ処理量として900RPを支払った。
そして、デポジットの250ドルが戻って来た。

夕食前に散歩に出た。
土産物屋の通りも人通りは少なく閑散としていた。
私は雑貨屋でスプライトの小瓶(250ml)130RPとビスケットを1つ30RPで買って部屋に戻った。
久し振りの炭酸飲料は喉に滲みて美味かった。

日が落ちて寒くなりダイニングに行ってみると既にストーブには火が入っていた温かかった。
ダイニングの客は5~6名で静かだった。

 19時00頃 就寝

 11月19日 酸素濃度 データー

 ナムチェ(3440m)93% 心拍数65 (PM1:30 )



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HIキャンプ~パンボチェへ

2014-12-13 10:37:40 | ネパール旅日記 2014

 11月18日 月曜日 快晴 パンボチェ(3930m)へ下る

 5時には目を覚ましていたのだが6時まで誰も起きず。
目を覚ましていたのだが皆して陽が昇るのを待っていたようだ。
今朝は冷え込んでいた。
今までで一番寒いのでは無いかと思う朝で、寝袋の顔の周りは自分の吐く息が凍って真っ白だった。
テントの内側も真っ白く凍って少しでも触れば霜が振って来る有様だった。
しかしこの状況は日本の冬山程厄介な事にはなら無い。
もうすぐ陽が当たり全てのものはあっという間に乾くのだ。


コッフェルの中は完全な氷で融かすのも厄介だ

6時、ラムさんが氷を溶かしてお湯を沸かし紅茶を入れてくれた。
水が出来るとカンニさんがラーメンを作ったのだが二人とも食欲が無いのかラーメンを残していた。
ネパール人が食べ物を残すのを初めて見た。
私はソイジョイを齧っていたのだが、喰わないなら貰うよと言ってラーメンを食べたが、二食分は食べ切れなくて残りはカラスとライチョウに分けてあげた・・・要するに捨てたのだが。


ジャガイモの喰い過ぎだろうか?食欲が無いと言う

食事後、のそのそとそれぞれがパッキングをするが、その手は遅く捗らない。
昨日まであった緊張感が消えて何処と無く「終わった感」が漂っていた。

カンニさんとラムさんがゴミを分別してポリ袋に入れていた。
なんでそんな事をするのかと尋ねるとナムチェまで持って帰ってSPCC(サガルマータ国立公園管理局?)の事務所に提出するのだと言う。

サガルマータ国立公園内の山に登るにはそれぞれの山のパーミットの他にサガルマータ国立公園管理事務所にも登山届けを提出しなくてはなら無い。
その際には、登山隊が持ち込む様々な消耗品のリストの提出と、ゴミのデボジットとして250ドルを預けなければなら無い。
そして、下山後にSPCCにゴミを持ち込み報告が了承されるとデポジットの250ドルが返される仕組みになっている。
特に気に掛けるのがガスカートリッジとバッテリーなどのようだった。


振り返るとテントとアイランドピークの山頂が小さく見えた

7時30分、テントを乾かして後から行くと言うラムさんらを残し出発。
たった二晩のキャンプだが、岩だらけの荒涼とした風景にも馴染み立ち去り難い思いに駆られた。

下りは楽である。
ましてや高所順応が出来た身体で下って行くと何処からとも無く力が湧いて来て歩くのが楽しくて、登りに1時間半掛かったベースキャンプまで30分で降りてしまった。


ベースキャンプが嘘のように閑散としていた

一昨日、三つあるテントサイトはほぼ一杯だったが、今日は一番上のサイトはテントはゼロで、その下もまばらだった。
今朝、早朝にアイランドピークを目指したクライマーもそれ程多くは無かったようだった。

昨年のアンナプルナサーキットでも感じた事だったが、11月も後半に入ると一気にトレッカーの姿は減るのだった。
今年のシーズンは終わりなのかも知れないと思った。


勝手にトーフ岩と名付けた存在感の有る岩

往きにもトーフ岩を見て此所で休んだのだが、クライミングの事しか頭に無くこんな面白い岩に何も感じる事無く通り過ぎた。
しかし、今は余裕が在るので何を見ても面白く、そして新鮮だった。
何度も見たはずの山の姿に再度感激してシャッターを切っていた。

トーフ岩でラムさん達を待ったのだが中々来ないのでゆっくり歩き出した。
チュクンで休んでいるとラムさんが追いついたがカンニさんは来ていなかった。
どうも調子が良く無いらしい。
ラムさんはカンニさんを待つと言うので自分はディンボチェまで一人でいく事にした。

途中の小さなカルカに家が一軒有った。
そこで大型の三脚を立てて写真を撮っている日本人を見掛けた。
被写体はネパール人の生活の姿なのか、子供らが遊び大人が何やら作業をしている風景にカメラは向けられていた。
自分はどう言う訳かカメラの前は横切れなくて道を外して迂回した。

ディンボチェからトレッキングに来ているのか、それとも先に進んでチュクンまで行くのか分からないが日本人のグループを二組見掛けた。

下るにつれ風の中から冷たさが消え丸くなった。
少し風が吹くと凍えていた高所とは一線を画する空気になった。

12時丁度にディンボチェの宿に着いた。
少し遅れてラムさんとカンニさんも到着して預けてある荷物を受け取った。

ディンボチェの昼飯を楽しみにしていた。
3日ぶりにジャガイモとラーメンとフリーズドライから解放されるのだ。
此所の食べ物は大概美味いので迷ったが、昼飯らしくツナサンドとミルクティーを頼んだ。

昼飯が出来る間にパッキングをし直したのだが、食料などが減って簡単に納まると思った荷物が入り切らない。
仕方が無いので適当に自分のザックに仕舞い込んで良しとした。
しかし、ザックの重さは推定で10キロを軽く超えてしまった。
此所から先ルクラまで、基本的には下りだからと自分に言い聞かせるが、どうしていつもこんなに荷物が重いのか腑に落ちなかった。
トレッキングだけの人と違ってクライミングの道具が重いのは分かっているが、それにしてもポーターが居るのにこんな大きなザックを背負っている人は見掛けない。
これ以上削れるものは無いと思うのだが・・・そうか、ダッフルバッグを大きくすれば良いのだ!!! この次はもっと大きいのを買うと決めた。

13時15分 ディンボチェ出発。

この宿には三泊し、そして今日も昼飯を食べ荷造りをし世話になった。
ここでも立ち去り難い思いがして、2~3日日向ぼっこなどしながら過ごしてみたいな、などと思った。
いや、ここは食事が美味くて、本当は水牛だと言われるがメニューではヤクステーキのデミグラスソースは普通にレストランの味だし、トマトソースのスパゲッティーも美味いのだ。
因みにチュクンのカングリリゾートのオーナーは従兄弟だそうで、だからどちらも食事が美味いのかも知れない。


標高4000mからは雲の下になる

15時00頃パンボチェ着。
下り基調の道とは言え距離は20キロ程になり、しかも小さな登り返しも度々有って楽な行程では無かった。
だが、降りるに従って濃くなる空気は身体に活力を与え続けるのか、膝に来ているなとは思ったが、体力的に参った感は無かった。
だからラムさんもカンニさんも振り切って先に歩いた。

ラムさんがパンボチェには馴染みの宿は無いので好きな所を選べと言った。
私は新しい感じの宿を指差したが、ラムさんは違う宿に入って行き今夜の宿を決めて来た。
部屋に行く時にラムさんが、此所の宿には美人の日本人が泊まっています、と言ったが、何時そんな人を見ていたんだ?と、驚きつつ、俺は日本人の女性なんか敬遠なんだけどな、と思っていた。

美人の日本人女性は確かに居たのだが、イギリス人のご主人と二人連れのトレッカーだった。
その日の夕食のダイニングは日本人のチームが二組だったがそこで交わされる言葉はイギリス英語で、自分だけがいつものように無口であった。

 19時00 就寝

 11月18日 酸素濃度 データー

 パンボチェ(3950m)93% 心拍数71 (PM3:00 )


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