いや、良く分かっていない宗教の事を書いていたんだが、突然Safariが落ちて消えちまった・・・イスラム教の事を書いて居たんだけれども、神の怒りに触れたのだろうか?
と、言うか、何時の頃からか、政治的な事とか、安倍晋三の悪口とか、宗教的な事を書いている時に限って突然落ちるようになったんだけれども・・・旧いPCの単なる気まぐれが偶々そう言う事に成っているだけなんだろうか?
いや、アマゾンでのお買い物とか、ヤッホーの画面を見ている時にはそんな事は無い訳で、ブログに書き込んでいる時にだけ起ると言う・・・不可解な現象であります。
アレです・・・中途でしたけれども、池田だったんですぜぇ~? もとい、大作だったんですぜぇ~。
ナンタって、宗教概論として日本人の宗教観と世界の宗教観とのズレから入った訳ですから・・・そりゃぁ、貴方、近来稀に見るインチキ臭いモノで有りましたよ。
で、二度書けと言われましても、根が思い付きなもんですから同じ事は出て来ない訳です・・・が、まっ、やってみますと・・・。
まっ、下敷きは小室直樹先生の「日本人のための宗教原論」からのパクリであります。
で、小室先生は日本人の生死感は独特で、他の何処の国の民族とも違うと言う訳です。
いや、同じ仏教国の輪廻転生をナニする国とも違う訳でして・・・国際情勢やら国際感覚の総ての勘違い、ズレはここから生ずると書いている訳です。
まず、暴力的表現では有りますが、日本人だけが「現世思考」で、他の民族、宗教は須らく「来世思考」なんであります。
現世思考とは・・・現世指向か、現世志幸か? ナンであれ、「今」「この世」が一番良いのだと言う感覚であります。
来世思考とは・・・そっくり言い換えられる訳で、来世指向であり来世志幸・・・今のこの世では無しに、死んでから後にこそ良い世界がある、と言う事でありましょう。
いや、言うなってば・・・それなら日本の浄土信仰と一緒だべってのはダメだ、ちゅうの。
ややこしくなるし、浄土信仰とキリスト教のアレやナニやソレを語らなくちゃ成っちまうから、今はダメだ、ってば。
まっ、浄土信仰があるべや、と言う御意見に1本釘を刺しておけば・・・誰も本気で信じていないでしょ? と。
だから、仏間に仏壇が有って、高い所には神棚が有って、なんてのは無いんですってば。
まっ、決定的な事を適当に言うと・・・他の国の宗教では、神仏に頼んで認めてもらって初めて次の良い世界に行ける訳で、日本の大乗と言うか浄土信仰のように、念仏申さんと欲する心のおこる時にはサッサと救われるなんて事は無くて、一生懸命に現世の時間の殆ど全てを神様へのお伺いやら、信心の証しを立てて生きると言う感じに成る訳であります。
アレです・・・他所の国の宗教と漠然と宣っている部分は「一神教」の類いと思ってもらって良い訳ですが・・・さて、ここからで有ります・・・今を時めくイスラム教の話しに行く訳でありますが・・・まず、肝に命じて欲しいのは、分かっているとは思いますが、真に受けないで下さい、ねっ!!!
啓典宗教・・・けいてんしゅうきょう、であります。
意味は、神様を敬う宗教とでも申しましようか、まず、俺の目を見ろナンにも言うな、と言う事から始まる訳でして・・・神様が居るのが大前提な訳であります。
そこには疑いの余地は無く、有りとあらゆる奇跡的、かつ超自然的な現象も含めて神様を信じる事から始まる訳です。
ここなんですよねぇ~・・・一つの山場であります。
神様を信じると言うと、疑うが対極にある訳ですが、疑ったり、考えたりして信仰に入るのでは無く、生まれた時から神様とともに在って、疑うなんてこれっぽっちも無く育って「信じている」訳であります。
また脱線ですけど・・・ここら辺ですよね・・・日本人が歳とってあの世とやらが気になるお年頃に成って仏様がぁ~とか言い出すのとは根本からして違う訳です。
ここら辺でも大多数の日本人にはホントの意味で一神教は理解出来ないんじゃないかと思う訳です。
いや、宗教を、しかもキリスト様関係などを学問している人だと「啓典」をどうするかの論争、や、「啓典」を損なわない「教典」の存在なんて事も頭をよぎるだろうと思う訳ですが・・・そう言う専門的な事は知りません、と、切り捨てたい訳であります。
さて、神様は疑う余地がない存在で、絶対な訳であります、と、決めつけないと話しは前に進みませんので些末な事は端折ります。
で、神様は疑う余地がない、絶対である、と言うのが一神教が厄介のもと、種、と、なるのであります・・・ドグマと言うんだそうであります・・・いや、ドグマをネットでgogりましてもAVとか変な物しか出て来ませんが・・・ギリシャ語の「教義」と思って良いんじゃないかと思います・・・と、Wikiは宣ってました。
で、いよいよイスラム教の教えに行く訳なんですが・・・ドグマ「教義」が総て・・・書いてある事、神の言葉が総てであり、疑う余地もなければ、考えたり、評価するべき物でも無い訳であります・・・ソレをやる時には己が死ぬ時でありましょうか?
で、ありますから、教義が、異教徒は殺せとか、攫ってドレイにしてしまえとか、そう言う事が書いてあれば、信徒は何の疑いもせず、それどころか、嬉々として神の教えを守ったとして誇りさえ持つ訳であります。
ところで・・・そう言う事をするのはイスラム教だけでありましょうか?
現代のイスラム教を基地外呼ばわりしているキリスト教の国々は、ホントは胸に手を当ててアレを思い出さなくちゃなら無いのでは無いと思うんですけど・・・十字軍!!!
まっ、ローマ法王が十字軍による異教と殺戮は申し訳無い事であった、と、謝ってますんでソレで水に流すんでありましょうか?
だとすれば・・・日本国がたった一回の戦争に負けただけでいつまでもネチネチと、ホントは事実無根の虐殺などで咎めを受けるのも如何がなものかと言う話しはまた今度。
さて、そこで問題なのはイスラムの教えとはどんなモノなのか?と言う事になると思うんですけれども・・・それは、良く知りません。
ここで少し宗教を考え直す、見つめ直す? ソレをしないと話しが見えなくなるんでナニなんですが・・・その宗教は「個人救済型」なのか「全体救済型」なのかと言う事であります。
まっ、仏教は完全に個人救済型で、全体救済の最たるモノは、儒教でありましょうか?
これは大事な事でして、一心に身も心も神に捧げて精進しても、全体救済型では個人は救われない訳であります。
ソレに反して、個人救済型は、徳を積んでいれば救われて、来世で幸せになれる訳ですから、恐らく、大概の人は個人救済型が好みじゃないかと思う訳です。
で、イスラム教は個人救済型な訳です。
個人救済型で、救済されないと地獄へ行かなくてはなら無い掟が在る訳です。
おおっと・・・ここでも少し説明が必要ですな・・・イスラム教には最後の審判と言うのが有る訳です。
で、最後の審判の時には、死んだ人は新しい肉体を貰って、生きた人として審判を受けるんであります。
さて、多分、今私が言いたい事の味噌はここに有ると思うんですけれども・・・最後の審判ですから、後は無い訳で、もう死なないんだそうであります。
と、言う事は、例えば、コーランの教え、神の教えを十分に守らずに審判を受け地獄行きが決定してしまったら・・・もう死なない訳ですから、ずーーーっと地獄に居なくちゃなら無い訳です。
ドーですか? 神様が殺戮して来い、異教徒は皆殺しにしろと言うのであれば、教えを守らないと自分は地獄でズーッと苦しまなくてはなら無い・・・そう信じているんですから、イスラム教徒は。
因みにイスラム教の地獄は一つでして、灼熱地獄だそうであります。
で、思い出してくださいましな・・・生まれた時から疑う事すら無い絶対の神ですから、その教えに疑問など挟む余地は無いのでありまして、怖れるのは神の裁きによる来世の姿だけであります。
因みに極楽(緑園)はと申しますと・・・金銀財宝を身に纏い喰い放題飲み放題での酒池肉林・・・余談ですが、ナン回SEXしても処女と言う美女がお相手すると、コーランに書いてあるそうです。
いや、来世では美酒飲み放題の酒池肉林なんだから現世では禁酒しとくなんて屁でもないだろう? と、言う事のようですが。
さて、ここでいよいよ気になるのが、コーランの教えで在りましょう。
一体全体イスラム教の啓典とは、教義とは、どんなものでありましょうか?
いや、今時の時流から必要なのはただ一点「聖戦」でありましょうか?
聖戦とは、自ら仕掛ける物では無く、古くは十字軍との戦いのように、イスラム教の教義に基づいて行われる宗教上の戦いであります。
で、ここからは自分の推測でアレなんでキリスト教とへの偏見が入った見方かも知れないが・・・イスラム教徒はコーランによって礼拝の義務が決められているので何処の国に居ても、トボケる事は出来ない。
自分はイスラム教徒では無いとして隠れて暮らす事が殆ど不可能になる。
そこに持って来て、何処からどうして湧いて出たのか、イスラム教徒は好戦的で過激である、と言う事でいわれなき扱いや弾圧を受ける・・・そうすると、異教徒との戦いは正当な宗教上の行為であるから、戦わざれば教義に反して地獄へ行く事になる。
もう一つ・・・イスラム教は現代の資本主義社会の中では存在自体が邪魔じゃないか?と言う事。
神との契約が最優先のイスラムの人々は資本主義経済では邪魔なのだ・・・契約・約束をしても、イン シャー アラー で、神様の思し召しが無かったと平気で反古にする・・・まっ、今は少し違っているらしいが・・・そんな事を許す宗教は資本主義国の金儲けをしたいキリスト教とやユダヤ教徒は邪魔なのじゃないか? などと思って見た。
で、聖戦なんだけれども・・・ジハードで死んだ場合は速攻で天国に行く訳です。
酒池肉林の天国であります・・・何回交わっても処女と言う絶世の美女が待つ天国へ、審判無しに直行なんだそうであります。
さあ、私の拙い言い回しでは通じていないかもしれませんけど・・・味噌はやっぱしここでありましょう。
現世はどうでも良くて、来世が本命のイスラム教徒は、異教徒との戦いは極楽へ行くプラチナ切符な訳であります。
で、あれば、何処とは言いませんが、キリスト教国らしい遠くの国がナンダカンダとイチャモン着けては攻撃をして来る・・・民主主義だの資本主義だのと言われても、俺らぁイスラム教徒だもん、と言う集団には迷惑千万でしか無い・・・だったら戦ってやろうじゃないか・・・死ぬのは本望です、と。
まっ、支離滅裂になるのはいつもの事ですが、最後に一つ・・・イスラム教は、キッチリ守れば守る程資本主義の近代国家とは相容れず乖離してしまう運命と言いますか、教義な訳です。
ナントなれば、アメリカ大統領との契約や約束ナンてのはコーランの教えに反していれば糞喰らえな訳です。
そんなような柔軟性と言いますか、発展性と言いますか・・・まっ、今風の解釈に替えて行ける変化ですね、ソレが不可能な宗教の為に近代国家を形成するには不利になっちまった訳であります。
なので、まとまった国家と言いますか、純粋なイスラム教徒の国は存在しなくなっちまったと言っても過言じゃないと思う訳です。
で、只今・・・アレらの人々はソレを目指して戦って居るんじゃないかと思う訳で、イスラム教の教義から行くと何一つ間違ってなくて、彼らこそが純粋なイスラム教徒なんだなと、私は見ている訳ですが・・・分かり難かったですか? ソーですよね、書いた本人も良く分かっていないんですから。
と、言うか、何時の頃からか、政治的な事とか、安倍晋三の悪口とか、宗教的な事を書いている時に限って突然落ちるようになったんだけれども・・・旧いPCの単なる気まぐれが偶々そう言う事に成っているだけなんだろうか?
いや、アマゾンでのお買い物とか、ヤッホーの画面を見ている時にはそんな事は無い訳で、ブログに書き込んでいる時にだけ起ると言う・・・不可解な現象であります。
アレです・・・中途でしたけれども、池田だったんですぜぇ~? もとい、大作だったんですぜぇ~。
ナンタって、宗教概論として日本人の宗教観と世界の宗教観とのズレから入った訳ですから・・・そりゃぁ、貴方、近来稀に見るインチキ臭いモノで有りましたよ。
で、二度書けと言われましても、根が思い付きなもんですから同じ事は出て来ない訳です・・・が、まっ、やってみますと・・・。
まっ、下敷きは小室直樹先生の「日本人のための宗教原論」からのパクリであります。
で、小室先生は日本人の生死感は独特で、他の何処の国の民族とも違うと言う訳です。
いや、同じ仏教国の輪廻転生をナニする国とも違う訳でして・・・国際情勢やら国際感覚の総ての勘違い、ズレはここから生ずると書いている訳です。
まず、暴力的表現では有りますが、日本人だけが「現世思考」で、他の民族、宗教は須らく「来世思考」なんであります。
現世思考とは・・・現世指向か、現世志幸か? ナンであれ、「今」「この世」が一番良いのだと言う感覚であります。
来世思考とは・・・そっくり言い換えられる訳で、来世指向であり来世志幸・・・今のこの世では無しに、死んでから後にこそ良い世界がある、と言う事でありましょう。
いや、言うなってば・・・それなら日本の浄土信仰と一緒だべってのはダメだ、ちゅうの。
ややこしくなるし、浄土信仰とキリスト教のアレやナニやソレを語らなくちゃ成っちまうから、今はダメだ、ってば。
まっ、浄土信仰があるべや、と言う御意見に1本釘を刺しておけば・・・誰も本気で信じていないでしょ? と。
だから、仏間に仏壇が有って、高い所には神棚が有って、なんてのは無いんですってば。
まっ、決定的な事を適当に言うと・・・他の国の宗教では、神仏に頼んで認めてもらって初めて次の良い世界に行ける訳で、日本の大乗と言うか浄土信仰のように、念仏申さんと欲する心のおこる時にはサッサと救われるなんて事は無くて、一生懸命に現世の時間の殆ど全てを神様へのお伺いやら、信心の証しを立てて生きると言う感じに成る訳であります。
アレです・・・他所の国の宗教と漠然と宣っている部分は「一神教」の類いと思ってもらって良い訳ですが・・・さて、ここからで有ります・・・今を時めくイスラム教の話しに行く訳でありますが・・・まず、肝に命じて欲しいのは、分かっているとは思いますが、真に受けないで下さい、ねっ!!!
啓典宗教・・・けいてんしゅうきょう、であります。
意味は、神様を敬う宗教とでも申しましようか、まず、俺の目を見ろナンにも言うな、と言う事から始まる訳でして・・・神様が居るのが大前提な訳であります。
そこには疑いの余地は無く、有りとあらゆる奇跡的、かつ超自然的な現象も含めて神様を信じる事から始まる訳です。
ここなんですよねぇ~・・・一つの山場であります。
神様を信じると言うと、疑うが対極にある訳ですが、疑ったり、考えたりして信仰に入るのでは無く、生まれた時から神様とともに在って、疑うなんてこれっぽっちも無く育って「信じている」訳であります。
また脱線ですけど・・・ここら辺ですよね・・・日本人が歳とってあの世とやらが気になるお年頃に成って仏様がぁ~とか言い出すのとは根本からして違う訳です。
ここら辺でも大多数の日本人にはホントの意味で一神教は理解出来ないんじゃないかと思う訳です。
いや、宗教を、しかもキリスト様関係などを学問している人だと「啓典」をどうするかの論争、や、「啓典」を損なわない「教典」の存在なんて事も頭をよぎるだろうと思う訳ですが・・・そう言う専門的な事は知りません、と、切り捨てたい訳であります。
さて、神様は疑う余地がない存在で、絶対な訳であります、と、決めつけないと話しは前に進みませんので些末な事は端折ります。
で、神様は疑う余地がない、絶対である、と言うのが一神教が厄介のもと、種、と、なるのであります・・・ドグマと言うんだそうであります・・・いや、ドグマをネットでgogりましてもAVとか変な物しか出て来ませんが・・・ギリシャ語の「教義」と思って良いんじゃないかと思います・・・と、Wikiは宣ってました。
で、いよいよイスラム教の教えに行く訳なんですが・・・ドグマ「教義」が総て・・・書いてある事、神の言葉が総てであり、疑う余地もなければ、考えたり、評価するべき物でも無い訳であります・・・ソレをやる時には己が死ぬ時でありましょうか?
で、ありますから、教義が、異教徒は殺せとか、攫ってドレイにしてしまえとか、そう言う事が書いてあれば、信徒は何の疑いもせず、それどころか、嬉々として神の教えを守ったとして誇りさえ持つ訳であります。
ところで・・・そう言う事をするのはイスラム教だけでありましょうか?
現代のイスラム教を基地外呼ばわりしているキリスト教の国々は、ホントは胸に手を当ててアレを思い出さなくちゃなら無いのでは無いと思うんですけど・・・十字軍!!!
まっ、ローマ法王が十字軍による異教と殺戮は申し訳無い事であった、と、謝ってますんでソレで水に流すんでありましょうか?
だとすれば・・・日本国がたった一回の戦争に負けただけでいつまでもネチネチと、ホントは事実無根の虐殺などで咎めを受けるのも如何がなものかと言う話しはまた今度。
さて、そこで問題なのはイスラムの教えとはどんなモノなのか?と言う事になると思うんですけれども・・・それは、良く知りません。
ここで少し宗教を考え直す、見つめ直す? ソレをしないと話しが見えなくなるんでナニなんですが・・・その宗教は「個人救済型」なのか「全体救済型」なのかと言う事であります。
まっ、仏教は完全に個人救済型で、全体救済の最たるモノは、儒教でありましょうか?
これは大事な事でして、一心に身も心も神に捧げて精進しても、全体救済型では個人は救われない訳であります。
ソレに反して、個人救済型は、徳を積んでいれば救われて、来世で幸せになれる訳ですから、恐らく、大概の人は個人救済型が好みじゃないかと思う訳です。
で、イスラム教は個人救済型な訳です。
個人救済型で、救済されないと地獄へ行かなくてはなら無い掟が在る訳です。
おおっと・・・ここでも少し説明が必要ですな・・・イスラム教には最後の審判と言うのが有る訳です。
で、最後の審判の時には、死んだ人は新しい肉体を貰って、生きた人として審判を受けるんであります。
さて、多分、今私が言いたい事の味噌はここに有ると思うんですけれども・・・最後の審判ですから、後は無い訳で、もう死なないんだそうであります。
と、言う事は、例えば、コーランの教え、神の教えを十分に守らずに審判を受け地獄行きが決定してしまったら・・・もう死なない訳ですから、ずーーーっと地獄に居なくちゃなら無い訳です。
ドーですか? 神様が殺戮して来い、異教徒は皆殺しにしろと言うのであれば、教えを守らないと自分は地獄でズーッと苦しまなくてはなら無い・・・そう信じているんですから、イスラム教徒は。
因みにイスラム教の地獄は一つでして、灼熱地獄だそうであります。
で、思い出してくださいましな・・・生まれた時から疑う事すら無い絶対の神ですから、その教えに疑問など挟む余地は無いのでありまして、怖れるのは神の裁きによる来世の姿だけであります。
因みに極楽(緑園)はと申しますと・・・金銀財宝を身に纏い喰い放題飲み放題での酒池肉林・・・余談ですが、ナン回SEXしても処女と言う美女がお相手すると、コーランに書いてあるそうです。
いや、来世では美酒飲み放題の酒池肉林なんだから現世では禁酒しとくなんて屁でもないだろう? と、言う事のようですが。
さて、ここでいよいよ気になるのが、コーランの教えで在りましょう。
一体全体イスラム教の啓典とは、教義とは、どんなものでありましょうか?
いや、今時の時流から必要なのはただ一点「聖戦」でありましょうか?
聖戦とは、自ら仕掛ける物では無く、古くは十字軍との戦いのように、イスラム教の教義に基づいて行われる宗教上の戦いであります。
で、ここからは自分の推測でアレなんでキリスト教とへの偏見が入った見方かも知れないが・・・イスラム教徒はコーランによって礼拝の義務が決められているので何処の国に居ても、トボケる事は出来ない。
自分はイスラム教徒では無いとして隠れて暮らす事が殆ど不可能になる。
そこに持って来て、何処からどうして湧いて出たのか、イスラム教徒は好戦的で過激である、と言う事でいわれなき扱いや弾圧を受ける・・・そうすると、異教徒との戦いは正当な宗教上の行為であるから、戦わざれば教義に反して地獄へ行く事になる。
もう一つ・・・イスラム教は現代の資本主義社会の中では存在自体が邪魔じゃないか?と言う事。
神との契約が最優先のイスラムの人々は資本主義経済では邪魔なのだ・・・契約・約束をしても、イン シャー アラー で、神様の思し召しが無かったと平気で反古にする・・・まっ、今は少し違っているらしいが・・・そんな事を許す宗教は資本主義国の金儲けをしたいキリスト教とやユダヤ教徒は邪魔なのじゃないか? などと思って見た。
で、聖戦なんだけれども・・・ジハードで死んだ場合は速攻で天国に行く訳です。
酒池肉林の天国であります・・・何回交わっても処女と言う絶世の美女が待つ天国へ、審判無しに直行なんだそうであります。
さあ、私の拙い言い回しでは通じていないかもしれませんけど・・・味噌はやっぱしここでありましょう。
現世はどうでも良くて、来世が本命のイスラム教徒は、異教徒との戦いは極楽へ行くプラチナ切符な訳であります。
で、あれば、何処とは言いませんが、キリスト教国らしい遠くの国がナンダカンダとイチャモン着けては攻撃をして来る・・・民主主義だの資本主義だのと言われても、俺らぁイスラム教徒だもん、と言う集団には迷惑千万でしか無い・・・だったら戦ってやろうじゃないか・・・死ぬのは本望です、と。
まっ、支離滅裂になるのはいつもの事ですが、最後に一つ・・・イスラム教は、キッチリ守れば守る程資本主義の近代国家とは相容れず乖離してしまう運命と言いますか、教義な訳です。
ナントなれば、アメリカ大統領との契約や約束ナンてのはコーランの教えに反していれば糞喰らえな訳です。
そんなような柔軟性と言いますか、発展性と言いますか・・・まっ、今風の解釈に替えて行ける変化ですね、ソレが不可能な宗教の為に近代国家を形成するには不利になっちまった訳であります。
なので、まとまった国家と言いますか、純粋なイスラム教徒の国は存在しなくなっちまったと言っても過言じゃないと思う訳です。
で、只今・・・アレらの人々はソレを目指して戦って居るんじゃないかと思う訳で、イスラム教の教義から行くと何一つ間違ってなくて、彼らこそが純粋なイスラム教徒なんだなと、私は見ている訳ですが・・・分かり難かったですか? ソーですよね、書いた本人も良く分かっていないんですから。