じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

神は お怒りでありますか?

2014-10-17 16:18:00 | 思想信条仏教宗教
いや、良く分かっていない宗教の事を書いていたんだが、突然Safariが落ちて消えちまった・・・イスラム教の事を書いて居たんだけれども、神の怒りに触れたのだろうか?

と、言うか、何時の頃からか、政治的な事とか、安倍晋三の悪口とか、宗教的な事を書いている時に限って突然落ちるようになったんだけれども・・・旧いPCの単なる気まぐれが偶々そう言う事に成っているだけなんだろうか?

いや、アマゾンでのお買い物とか、ヤッホーの画面を見ている時にはそんな事は無い訳で、ブログに書き込んでいる時にだけ起ると言う・・・不可解な現象であります。

アレです・・・中途でしたけれども、池田だったんですぜぇ~? もとい、大作だったんですぜぇ~。

ナンタって、宗教概論として日本人の宗教観と世界の宗教観とのズレから入った訳ですから・・・そりゃぁ、貴方、近来稀に見るインチキ臭いモノで有りましたよ。

で、二度書けと言われましても、根が思い付きなもんですから同じ事は出て来ない訳です・・・が、まっ、やってみますと・・・。

まっ、下敷きは小室直樹先生の「日本人のための宗教原論」からのパクリであります。

で、小室先生は日本人の生死感は独特で、他の何処の国の民族とも違うと言う訳です。
いや、同じ仏教国の輪廻転生をナニする国とも違う訳でして・・・国際情勢やら国際感覚の総ての勘違い、ズレはここから生ずると書いている訳です。

まず、暴力的表現では有りますが、日本人だけが「現世思考」で、他の民族、宗教は須らく「来世思考」なんであります。

現世思考とは・・・現世指向か、現世志幸か? ナンであれ、「今」「この世」が一番良いのだと言う感覚であります。

来世思考とは・・・そっくり言い換えられる訳で、来世指向であり来世志幸・・・今のこの世では無しに、死んでから後にこそ良い世界がある、と言う事でありましょう。

いや、言うなってば・・・それなら日本の浄土信仰と一緒だべってのはダメだ、ちゅうの。
ややこしくなるし、浄土信仰とキリスト教のアレやナニやソレを語らなくちゃ成っちまうから、今はダメだ、ってば。

まっ、浄土信仰があるべや、と言う御意見に1本釘を刺しておけば・・・誰も本気で信じていないでしょ? と。

だから、仏間に仏壇が有って、高い所には神棚が有って、なんてのは無いんですってば。

まっ、決定的な事を適当に言うと・・・他の国の宗教では、神仏に頼んで認めてもらって初めて次の良い世界に行ける訳で、日本の大乗と言うか浄土信仰のように、念仏申さんと欲する心のおこる時にはサッサと救われるなんて事は無くて、一生懸命に現世の時間の殆ど全てを神様へのお伺いやら、信心の証しを立てて生きると言う感じに成る訳であります。

アレです・・・他所の国の宗教と漠然と宣っている部分は「一神教」の類いと思ってもらって良い訳ですが・・・さて、ここからで有ります・・・今を時めくイスラム教の話しに行く訳でありますが・・・まず、肝に命じて欲しいのは、分かっているとは思いますが、真に受けないで下さい、ねっ!!!

啓典宗教・・・けいてんしゅうきょう、であります。
意味は、神様を敬う宗教とでも申しましようか、まず、俺の目を見ろナンにも言うな、と言う事から始まる訳でして・・・神様が居るのが大前提な訳であります。
そこには疑いの余地は無く、有りとあらゆる奇跡的、かつ超自然的な現象も含めて神様を信じる事から始まる訳です。

ここなんですよねぇ~・・・一つの山場であります。
神様を信じると言うと、疑うが対極にある訳ですが、疑ったり、考えたりして信仰に入るのでは無く、生まれた時から神様とともに在って、疑うなんてこれっぽっちも無く育って「信じている」訳であります。

また脱線ですけど・・・ここら辺ですよね・・・日本人が歳とってあの世とやらが気になるお年頃に成って仏様がぁ~とか言い出すのとは根本からして違う訳です。
ここら辺でも大多数の日本人にはホントの意味で一神教は理解出来ないんじゃないかと思う訳です。

いや、宗教を、しかもキリスト様関係などを学問している人だと「啓典」をどうするかの論争、や、「啓典」を損なわない「教典」の存在なんて事も頭をよぎるだろうと思う訳ですが・・・そう言う専門的な事は知りません、と、切り捨てたい訳であります。

さて、神様は疑う余地がない存在で、絶対な訳であります、と、決めつけないと話しは前に進みませんので些末な事は端折ります。

で、神様は疑う余地がない、絶対である、と言うのが一神教が厄介のもと、種、と、なるのであります・・・ドグマと言うんだそうであります・・・いや、ドグマをネットでgogりましてもAVとか変な物しか出て来ませんが・・・ギリシャ語の「教義」と思って良いんじゃないかと思います・・・と、Wikiは宣ってました。

で、いよいよイスラム教の教えに行く訳なんですが・・・ドグマ「教義」が総て・・・書いてある事、神の言葉が総てであり、疑う余地もなければ、考えたり、評価するべき物でも無い訳であります・・・ソレをやる時には己が死ぬ時でありましょうか?

で、ありますから、教義が、異教徒は殺せとか、攫ってドレイにしてしまえとか、そう言う事が書いてあれば、信徒は何の疑いもせず、それどころか、嬉々として神の教えを守ったとして誇りさえ持つ訳であります。

ところで・・・そう言う事をするのはイスラム教だけでありましょうか?
現代のイスラム教を基地外呼ばわりしているキリスト教の国々は、ホントは胸に手を当ててアレを思い出さなくちゃなら無いのでは無いと思うんですけど・・・十字軍!!!
まっ、ローマ法王が十字軍による異教と殺戮は申し訳無い事であった、と、謝ってますんでソレで水に流すんでありましょうか?
だとすれば・・・日本国がたった一回の戦争に負けただけでいつまでもネチネチと、ホントは事実無根の虐殺などで咎めを受けるのも如何がなものかと言う話しはまた今度。

さて、そこで問題なのはイスラムの教えとはどんなモノなのか?と言う事になると思うんですけれども・・・それは、良く知りません。

ここで少し宗教を考え直す、見つめ直す? ソレをしないと話しが見えなくなるんでナニなんですが・・・その宗教は「個人救済型」なのか「全体救済型」なのかと言う事であります。
まっ、仏教は完全に個人救済型で、全体救済の最たるモノは、儒教でありましょうか?

これは大事な事でして、一心に身も心も神に捧げて精進しても、全体救済型では個人は救われない訳であります。
ソレに反して、個人救済型は、徳を積んでいれば救われて、来世で幸せになれる訳ですから、恐らく、大概の人は個人救済型が好みじゃないかと思う訳です。

で、イスラム教は個人救済型な訳です。
個人救済型で、救済されないと地獄へ行かなくてはなら無い掟が在る訳です。

おおっと・・・ここでも少し説明が必要ですな・・・イスラム教には最後の審判と言うのが有る訳です。
で、最後の審判の時には、死んだ人は新しい肉体を貰って、生きた人として審判を受けるんであります。

さて、多分、今私が言いたい事の味噌はここに有ると思うんですけれども・・・最後の審判ですから、後は無い訳で、もう死なないんだそうであります。
と、言う事は、例えば、コーランの教え、神の教えを十分に守らずに審判を受け地獄行きが決定してしまったら・・・もう死なない訳ですから、ずーーーっと地獄に居なくちゃなら無い訳です。

ドーですか? 神様が殺戮して来い、異教徒は皆殺しにしろと言うのであれば、教えを守らないと自分は地獄でズーッと苦しまなくてはなら無い・・・そう信じているんですから、イスラム教徒は。
因みにイスラム教の地獄は一つでして、灼熱地獄だそうであります。

で、思い出してくださいましな・・・生まれた時から疑う事すら無い絶対の神ですから、その教えに疑問など挟む余地は無いのでありまして、怖れるのは神の裁きによる来世の姿だけであります。

因みに極楽(緑園)はと申しますと・・・金銀財宝を身に纏い喰い放題飲み放題での酒池肉林・・・余談ですが、ナン回SEXしても処女と言う美女がお相手すると、コーランに書いてあるそうです。
いや、来世では美酒飲み放題の酒池肉林なんだから現世では禁酒しとくなんて屁でもないだろう? と、言う事のようですが。

さて、ここでいよいよ気になるのが、コーランの教えで在りましょう。
一体全体イスラム教の啓典とは、教義とは、どんなものでありましょうか?

いや、今時の時流から必要なのはただ一点「聖戦」でありましょうか?
聖戦とは、自ら仕掛ける物では無く、古くは十字軍との戦いのように、イスラム教の教義に基づいて行われる宗教上の戦いであります。

で、ここからは自分の推測でアレなんでキリスト教とへの偏見が入った見方かも知れないが・・・イスラム教徒はコーランによって礼拝の義務が決められているので何処の国に居ても、トボケる事は出来ない。
自分はイスラム教徒では無いとして隠れて暮らす事が殆ど不可能になる。
そこに持って来て、何処からどうして湧いて出たのか、イスラム教徒は好戦的で過激である、と言う事でいわれなき扱いや弾圧を受ける・・・そうすると、異教徒との戦いは正当な宗教上の行為であるから、戦わざれば教義に反して地獄へ行く事になる。

もう一つ・・・イスラム教は現代の資本主義社会の中では存在自体が邪魔じゃないか?と言う事。
神との契約が最優先のイスラムの人々は資本主義経済では邪魔なのだ・・・契約・約束をしても、イン シャー アラー で、神様の思し召しが無かったと平気で反古にする・・・まっ、今は少し違っているらしいが・・・そんな事を許す宗教は資本主義国の金儲けをしたいキリスト教とやユダヤ教徒は邪魔なのじゃないか? などと思って見た。

で、聖戦なんだけれども・・・ジハードで死んだ場合は速攻で天国に行く訳です。
酒池肉林の天国であります・・・何回交わっても処女と言う絶世の美女が待つ天国へ、審判無しに直行なんだそうであります。

さあ、私の拙い言い回しでは通じていないかもしれませんけど・・・味噌はやっぱしここでありましょう。

現世はどうでも良くて、来世が本命のイスラム教徒は、異教徒との戦いは極楽へ行くプラチナ切符な訳であります。
で、あれば、何処とは言いませんが、キリスト教国らしい遠くの国がナンダカンダとイチャモン着けては攻撃をして来る・・・民主主義だの資本主義だのと言われても、俺らぁイスラム教徒だもん、と言う集団には迷惑千万でしか無い・・・だったら戦ってやろうじゃないか・・・死ぬのは本望です、と。

まっ、支離滅裂になるのはいつもの事ですが、最後に一つ・・・イスラム教は、キッチリ守れば守る程資本主義の近代国家とは相容れず乖離してしまう運命と言いますか、教義な訳です。
ナントなれば、アメリカ大統領との契約や約束ナンてのはコーランの教えに反していれば糞喰らえな訳です。
そんなような柔軟性と言いますか、発展性と言いますか・・・まっ、今風の解釈に替えて行ける変化ですね、ソレが不可能な宗教の為に近代国家を形成するには不利になっちまった訳であります。
なので、まとまった国家と言いますか、純粋なイスラム教徒の国は存在しなくなっちまったと言っても過言じゃないと思う訳です。

で、只今・・・アレらの人々はソレを目指して戦って居るんじゃないかと思う訳で、イスラム教の教義から行くと何一つ間違ってなくて、彼らこそが純粋なイスラム教徒なんだなと、私は見ている訳ですが・・・分かり難かったですか? ソーですよね、書いた本人も良く分かっていないんですから。








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鰯玉と人間玉

2014-05-05 17:49:58 | 思想信条仏教宗教


いや、このブログのCMで出て来た絵ナンですけど,オヤジの雰囲気が良いのでパクっちまいました。

しかし、パクるって、いつからこんな用法に転用されたんですかね?
私が御幼少の砌には、パクられる、って,お巡りさんに捕まる事だったんですけどね。
それが知らない間に盗む、とか,盗用とか、そっち方面の意味合いが強くなっちまいましたもんね。

パクる・・・捕縛の縛(バク)るから来たと思うんですが、如何でありましょうか?

鬼兵が・・・大人しく縛に就けぇぃ,とか言ってましたもんで、たぶん間違い無いと思うんですがねぇ・・・まっ、ドーでも良い事ですけど。

本日の午前中に「イワシ玉理論」と言うのを思考していた訳なんですが、モウ後一行で終わると言う所でSafariが凍っちまいまして強制終了して消えちまった訳です。
同じ事って書けないもんですよね・・・思考って、展開して広がるもんじゃありませんか?
断片を思い出しても繋が悪くて意味不明と言いますか、論調も違っちまうし・・・良い感じだったんだがなぁ~ホント、近来稀に見る正論だったと思うんですが・・・逃がした魚ですか?

やってみますかね・・・断片を思い出しつつ、軽く。

イワシ玉と言うのがある訳です。
何億匹と言うイワシが群れになって玉を作る物であります。

鰯は,読んで字の如く、弱い魚なんで群れている訳です。
どこか人間社会に似ているな、と,思うところから、鰯玉理論は思いつきました。

人間社会と言うのは、やっぱし群れを為さ無いと都合が悪いんで、社会と言う「人間玉」を形成すると思う訳です。

で、鰯玉は、理屈が在って出来る訳ではなく、本能と言いますか、遺伝子と言いますか、自然の摂理で纏まるんだろうと思う訳です。

で、人間玉と言う社会は、果たしてドーなのかな? と、思うと、自然に形成されていたのは遠い昔の事であって、今は、私の考えるところでは「ああすればこうなる理論」と言う、都市化の理論に則って人間玉は形成されていると思う訳です。

さて、ここなんであります。
人間は、社会を形成して人間玉として寄り集まらないと生きていけないんでありますが、しかし、玉の形成が作為的と言いますか、「ああすればこうなる理論」で作られちまっている・・・ここが味噌と言いますか、肝なんだろうと思う訳です。

人間玉は、人間本来が持っている自然の本能で集まるのではなく、玉に寄り添っていないと生きていけないから、そうしないと社会から弾き出されてしまうから、なので、集まる方は無意識なんでありますが、結果は、社会を形成してそこに人間玉が作られるように仕向けた力の作為だと思う訳です。

さて、鰯玉の特徴として、中心部で玉を引っ張る鰯程強い鰯で、玉の辺縁になると、泳力の弱い鰯がやっと着いていると言う感じな訳であります。

で、鰯玉の周りには、カツオだのギンガメアジだのツムブリだの、と,捕食魚が狙っている訳でして、群れから外れたやつを拾って喰う訳であります。

また、元気の良いカツオなどは鰯玉に突撃して群れを食い散らしていく訳ですが、そんな時、鰯玉の中心は辺縁の鰯が食われている間に向きを変え、難を逃れて生き延びる訳であります。

自然の摂理と言いますか、掟も厳しいもんであります。
弱い物から喰われていく、であります。

しかし、それは必然なんで、強い子孫を残すためには、弱い物から喰われる淘汰の先に強い種が残る訳であります。

こうして見ると生存競争は鰯玉も人間玉も同じに見えるんですけれども、しかし、それは見掛だけの事じゃないかと思う訳です。

鰯玉は、自然の掟が役割を決める公平な社会だと思う訳です。
そうする事によって鰯と言う種が生き伸びるのでありますから。

さて、人間社会の人間玉はどうでありましょうか?

鰯玉は海と言う社会で生きている訳であります。
海を支配するのは自然の摂理なんでありますが、人間玉が泳ぐ海の社会は、自然の摂理に支配された公平なところでありましょうか?

人間社会の,しかも,人間玉が大きく形成される都市は、何処かの都市計画やら未来の設計なんて事を考える、同じ人間の頭脳から生まれた産物な訳であります。

と、言う事は、誰かの能の中の創造の海でその他大勢の人は人間玉を形成している訳であります。

世界中には相容れないで対立する宗教が数多ある訳です。
それほど人に因って思考の方向も質も違うのに、特定の人達が考えだした「ああすればこうなる」と言う思いで、社会は組み立てられ、そこに人間玉は形成させられる訳であります。

始めの方で書きましたが、人間玉が出来るのは、生物としての生存の条件をより良く、と,選択していったら,やっぱし群れた方が良いな、と、自然に出来上がった本能的な物だと思うのであります。

なので、群れる性質を持つ人間は、与えられた社会が自然と掛け離れた作為的な海であったとしても、他では群れが作れないので仕方なく「ああすればこうなる理論」にしたがって作られた海で生息する訳です。

で、この事は踏み込むと止めどないんで軽く流しますが、社会を作る「ああすればこうなる理論」の原理は、全く持って一般的な人間がより良い人間玉が形成出来るように、などとは仕組まれていない訳です。

人間玉も見掛けは鰯玉と同様の競争に晒されているように見えるんですが、その原理は自然の摂理ではなく、甚だしく作為的な物で、人間玉の中での個人の位置も、作為的に決まってしまう物だと思う訳です。

さて、「ああすればこうなる理論」で擬似的海の社会を作って人間玉を形成させる目的は何かと考えると、簡単に言えば「富」でありまして、もっとハッキリ言えば「銭」であります。

逃げられない社会と言う人口の海に人間玉を形成させ、それを作った側は、人間玉から溢れて来る弱った人間を補食するのであります。

鰯玉もそうでありますが、群れは新陳代謝が激しく、中心の鰯がいつまでもそこに居る訳ではなく、常に入れ替わっており、少し前まで群れを引っ張っていた鰯も何れは補食されるのであります。
その事は、擬似的海の社会で形成された人間玉も同様であります。

擬似的な海に人間玉を作らせるのも人間なんですが、その人達は、人間玉を喰って、肥えるのであります。

美味しく喰うためには人間玉にも、ある程度育ってもらわなければなら無いので「餌」は巻かれる訳であります。
それが社会にある、仕事であります。
ありとあらゆる仕事は、そこから上がる利益の多価の大小に関わらず、擬似的海に撒かれた「餌」なのであります。

餌はふんだんに巻かれる事も在るし、人間玉が増え過ぎたと思えば制御されたりもする訳ですが、それは全て「ああすればこうなる理論」の延長線上でありまして、擬似的海の社会を作る人達の意のままな訳であります。

さて、ここまで私は鰯玉と人間玉を使って、自然の社会と不自然な社会を語ったつもりなんですが、これは,社会の構造を批判しているのでは在りません。

簡単に言えば、為政者達が社会と言う擬似的な海を作り、そこに人間が集まるように仕向け、労働から生まれる価値を搾取している構図を述べ居るのでは在りません。

ンじゃぁ、ナニを宣いたかったのかと申しますれば、私個人に限って言いますと、私は本能が強いのか野生が残っているのか、社会と言う、擬似的な海、不自然な海に違和感を感じると言う事なんであのます。

社会に違和感を感じるのは何故なのかと考えていた訳ですが、それは,擬似的な海は自分の精神的な部分と相容れないと言う事な訳であります。

それは、自然の摂理を無視した「ああすればこうなる理論」と言う、誰か他の人の脳味噌の中で生まれた不自然さを感じてしまうからなのだと思う訳です。

と、言う事で、他人様が作った記事で気な海と言う社会は、私に取っては偽物でしかないわけで、泳いでいても息苦しいだけ,と言う事であります。

序でに言えば、私は人間玉から逸脱して生きる事を選んだ訳で、ですから,もう餌は貰えない訳であります。

しかし、自分の精神的な部分を真っ当に保ちたいと思うと、社会から距離を置き、本物の自然に少しでも多く触れて生きる・・・それが基地外になら無い最良の方策か、なんて事を言いたかった訳です、が、支離滅裂過ぎて判りませんか?

そうダベねぇ~・・・書いた本人も面倒で嫌になって止めるんですもん。

やっぱし全然違う方向に逝っちまった・・・最後、無理くり気持ちの問題にすり替えましたが、過程の話しは経済話しと言いますか、いつも宣っている「国家とは何か」の焼き直しですもんね。

いや、もしも最後まで読んでくれた人が今したら・・・お疲れさまでした,と。




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風前の灯 !!!

2013-09-30 15:46:09 | 思想信条仏教宗教
おっさんの存在が風前の灯なのか? うん、それはそうだろうねぇ~・・・社会的には風前の灯と言うよりも既に消えていますかねぇ~。

まっ、生き物としての、命の火的にはまだ消えないと自分では思っているんで、こっちはまだ揺らいでいると言う程のモノでは無いと・・・分からないけどね・・・消費税だって国民の大半が反対だと思っても上がっちまいそうな雰囲気の世の中ですから。

風吹くと桶屋が儲かる・・・この理屈はご存知ですか? ほほぉ~、知らないですか?
まっ、この先の話しとは無関係なんで説明は省きます。

禅の方に・・・禅は急げ、と言うのは・・・無いか?

いや、禅の方に、「八風」と言うのがある訳です・・・きちんと書くと「八風吹不動」と言うんだそうでありますが・・・字面からすると、何が有っても動じるな、と言う事のように見受けられるんですけれども・・・如何に?

で、ちゃんとしたモノの本に由れば・・・八風吹けども動ぜず、と、読むらしく、八つの風はそれぞれ決まりがあるんだそうであります。

利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽・・・の八つだそうであります。

一つずつ意味があるんですけれども、学者じゃないんで細かい意味はドーでも良いと思うんでアレなんですが・・・纏めて行っちまえば、風とは「風評」と言いますか、噂・・・要するに世間の声とでも申しましょうか・・・実体の無い声に惑わされるなよ、と、言う事だと思う訳であります。

で、こう言う言葉と言うのはアレです・・・ビールと一緒と言ったら語弊が多過ぎでしょうか?
飲んだ時には気分が良いが、醒めれば何事も無くもとに戻る、であります。

仏教的な説教系の本など読んでますと、もう、隅から隅までお説ごもっとも、私が悪うございました・・・その通りです、明日からは心を入れ替えて、と、大体の人は思う訳です。

明日から、と言うのが味噌であります・・・よしっ、この大盛り喰ったらダイエットするわ・・・と、ほとんど同じじゃないかと思うんですけど。

世間にはいろんな風が吹く訳ですが、同じ風向きで風を受けていても、受け手によってその影響はまちまちであります。

例えば為替なんてのは、上がっても下がっても損する人の裏に儲かる人が居る訳で、また逆も真なり、で、儲かる人の裏で損する人が居る訳であります・・・ウーム、喩えがマニアックで意味不明だったか?

いや、「八風吹不動」の意味は大した話しでは無く、動じるな、平常心を保て、と言うだけの事なんですけれども、おっさんは、もうひと捻り加えてみたいと思う訳です。

アレです・・・風向きが悪くて蹴つまずいたとしますと、禅の方では、気にして事態が良くなるのなら別だが、気に病んでも変わらないなら悩むだけ無駄だろうと、教えているんですけれども、おっさんは逆だと思う訳です。

万感の思いを込めて愚痴ったり悔やんだり嘆いたりするべきだと思う訳です。
そして、泣き続けて悔やみ続けて、立ち直るも良し、そのまま風前の灯に晒され、消え行くのも良し、と、思う訳であります。

何故にこんな事を宣うのかと言いますと・・・人は、100人居れば100通りの感受性やら考え方やらがある訳で、耳障りの良い言葉を頭に置いてその通りにして見ようとしても、所詮は出来ないからこんな世の中が出来上がっちまっているんだと思う訳です。

この世の中は、誰かが悪くてこんな社会なんじゃないんです・・・また、安倍総理が素晴らしいから、とか、ジョージワシントンが居たからこんな世の中なんじゃないんです・・・こうにしか成ら無い、成る可くしてなっている社会・・・世界ですか? そう言うもんじゃないかと思う訳です。

だったら・・・まっ、ナニがだったらなのか少しアレですけれども、こうにしか成ら無い世の中であれば、下手に知恵なんか付けて分かった様な顔をして我慢するよりも、泣きたいと思ったら泣いて、怒りたいと思ったら怒って、喰いたいと思ったら喰えば良いと思う訳です。

で、その時に、ホントーは怒りたいんだけれども、損得を考えると怒らない方が良いな、とか、理性と言うヤツが働く人は呑込めば良いと思う訳です。

で、法治国家では、激昂して人に危害など加えれば、社会と言うのが許さずに制裁を受ける事になっている訳ですから、制裁と、自分の憂さ晴らしとを計りに掛けて、勝った方を選んで、気侭に生きるべきなんであります・・・と、思う訳です。

なんと申しましょうか・・・ズーーーット宗教的な色のついた説教本を沢山読んでいると、それを真に受けてそのように生きてしまったら、ナンだかとても抹香臭くて人間味が無いと言いますか、泣いて叫んでぶつかり合って生まれる熱の様なものの無い社会と言いますか、つまらない世の中になるよなぁ~と、思えてならないわけであります。

この世の中は、どうしてもコーしか成らないと言う風が吹いてこー成っていると、思うわけです。

お釈迦様は言いました・・・ただ非難されるだけの人、ただ賞賛されるだけの人は、過去にも、未来にも、また現在にも居ない、と。

と、言う事で、おさんとしては、生きると言う事は、ナンでも有りだと思うわけです。

100人居れば100個の人生・・・そんなに画一的にいくはず無いじゃン、と。

おっさんの言いたい事・・・解りませんか? そうですよね。

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仕官の日を探す ?

2013-09-19 13:52:39 | 思想信条仏教宗教
侍の生き方と言うのがおっさんには良く分からなくて、時々、ホントかぃなぁ~? と、疑っちまうわけです。

御家の為とか言って理不尽な腹切りなど迫られても、武士の名誉を重んじれば、喜んで腹を切るとか言うのは、ナンボ理解しようとしてアレコレ書物など紐解いても無理であります。

葉隠れなど読むと、読んでる最中とか、読んですぐ直後・・・雰囲気が脳味噌に漂っている間は何となく同調できた気分で居ますが、しかし、まっ、時間が経てば忘れちまいます。

で、葉隠れなど読んでますと・・・まっ、鈴木大拙の受け売りそのままですが、ほとんど禅の道に行っちまうわけであります。

まっ、そこら辺にとても矛盾を感じるんですけれども・・・いや、仏の道は活かす道で、侍の道は殺す道、と、おっさんは思っちまうわけで、そこには、ナンボ屁理屈を捏ねてみても、相容れない違いを感じるしか無いと思うわけです。

読み齧りの浅知恵ですけれども、武士道・・・葉隠れが言わんとする所は決して人を切る為の極意などではない、と、言うんですけれども・・・人を切らない剣道なら刀を捨てて茶の湯でもやったらぁ~? と、思っちまうわけですが。

いや、おっさんのこの手の情報源と言いますか、指導書は、今の所ほとんど全部鈴木大拙なんでアレ、偏っているんですけれども、大拙先生は、茶の道も禅である、と、おっしゃって居られるわけです。

まっ、禅ってナンですかぁ~との問いには、高名な禅僧が、飯を食う事であり、屁をひる事である・・・と、宣っているわけで、そう言う事なら生きてる事総てが禅であっても良いわけで、だっら、剣の道とか、茶の湯の道とか、そう言う、一般凡夫と言いますか、貧乏大衆が馴染めそうも無い道など引っ張り出されても、結局は、お説ごもっとも、しかし・・・と、現実の暮らしを見つめざるを得ない所へ堂々巡りと、なっちまうんじゃないかと思うわけですが。

うん・・・頭の良い人って言いますか、現実の社会のアレコレを自分の中で消化して乗り越えられる人達は、禅とか、武士道とか、まっ、美術でも芸術でも良いんですけれども、そう言うのを極めたとのたまわれて、道は同じです、なんて言うわけですが、凡夫には道はどれも違うわけでして、茶の湯をやっていて飯が喰えるんならそれでも良いんですけれども、そうはいかないわけでして、まず、凡夫の葉隠れとしましては「凡人とは喰う為に生きる民とみつけたり」と、言う感じなんじゃないかと思うわけです。

で、おっさん、行儀作法とか、テーブルマナーとか、そう言うのはなぜに生まれたのかな?と、ズーッと不思議に思って来たわけです。

いや、貧乏人の家と言いますか、あまり余裕の無い家庭程、礼儀作法に煩く無いと子供心に感じていたわけで、その差はナンだろうか? と、疑問だったわけです。

で、自分が社会に出て仕事などして行くうちに、仕事の質が変化する過程で、それなりの席に同席させられるようになり、さりげなく修行と経験を積まされたわけです。

そして、一通りのアレコレの作法などを身につけつつ、一番覚えた事は、その作法を知らないものは、部外者と見なされる・・・例え仕事の実務に粗相は無かったとしても、それらの作法に通じていないものはその席に居る事がまかり成ら無い世界なのである、と、言うのを学び、型破り、掟破りは排除されるのであるな、と、察知したわけであります。

と、言う事で、作法や型と言うのは、一つの約束事を理解しているものの合鍵と言いますか、割り符みたいなもので、部外者を疎外する為の手段なんである、と、おっさんは思うわけであります。

それが出来ると、心も出来る・・・なんて事を言うわけですが、そりやぁ~そうであります・・・だって、同じ方向を向く人間だけを選別する為の作法や仕来りな訳ですから、型にはまりたく無い人間は存在しないわけですから、その方面で良しとされる心持ちになるに決まっているわけです。

話しは飛躍しますが・・・会社のカラーと言いますか、臭い・・・公務員様でも良いんですけれども、やっぱし同じ臭いがしますよね・・・それは上記の理由と同じ事な訳で、それに馴染める人の集団になるのだから当たり前、と、言う事だと思うわけです。

と、言う事で・・・この書き込みの表題の「仕官の口を探す」でありますが、おっさんは多分、誰の色にも染まらないと言いますか、染まれない人種ではないのか? と、思うわけです。

なので仕官の口は端から無理筋でありまして、自分の食い扶持は自分で稼ぐしか無いわけであります。
いや、禄を食んで食い扶持を得ると言うのは、確かに仕事はしているんですけれども、意味は違うわけです。

さて、そうなると自営業しか無いわけですが、そこで、ふと、思っちまうわけであります・・・最低限喰えれば良いんじゃないのか? だったら、そんなに目の色変えて仕事なんかしなくても、借金も無いし・・・喰うくらいは何とかなるだろう、と、言う事で、仕官の口は、無理だろうと言う事では無く・・・要らないだろう、と、なったわけであります。

いや、それじゃぁ暇過ぎるとか、社会に対しての立場がとか、有るわけですが、そう言う、社会と言いますか、世間と対比して自分を確認する作業はもう要らないと思うおっさんには、社会に存在を認めてもらわないと自分の存在を見失う、なんて事は無いと、思うのであります。

で、侍が仕官して、主君の為に腹を切れたのは、やっぱし、名を残すことが生きる証しであったから・・・恥をかいて生を伸ばすくらいなら、名を残して早く逝く・・・それこそが自分の存在した証明であったからなのだろう・・・と、思うわけです。

と、言う事で、禅だの、武士道だの・・・そう言うものに正しい人としての道を求めてみたわけですけれども、社会を否定までしないけれども、積極的な関わりはなくても良いと思うと、何の縛りも無くなると、言いますか・・・要するに、相対的な比較から自分の存在意義を浮かび上がらせないと・・・なんと申しましょうか、横文字は使わない主義なんですけれども、手っ取り早い表現なんで使っちまいますと・・・アイデンティティーと言うヤツですね・・・自尊心とでも訳したらダメですか?
社会と言いますか、世の中との相対で自尊心を保つ・・・それさえ無くても良いと成れば、強いんだろうと思うわけです。

あっ・・・それ、ホームレス級の考えか? 

ダメだなぁ・・・上手く書けないなぁ~。

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哲学でも宗教でも ?

2013-09-16 10:59:55 | 思想信条仏教宗教
世の中には頭の良い人は確かに居て、普通の凡人には気が付かない事をアレコレと考え出しては提示して来るわけです・・・なので、世の中は頭の良い奴らが動かす、と、おっさんは思っています。

政治でも経済でも、そのまま変化しなければ何も起きなかったと思われるアレコレに、新しいとか、工夫とか、発明とか発案とか・・・なんでアレ、変化を加えたが為に、頭の良い人にはそれで良いかも知れないけれども、凡人は理解で来ていないから、だだ、新しい現象とか時代ですとか言うのに取込まれ、或は流され・・・アップアップする。

宗教でも哲学でも、そんな事言い出さなければ凡人には問題とさえ思わなかったのに・・・気付かずに平穏にやり過ごしたのに、と、思う事が多々あります。

社会と言うのは・・・頭の良い人向きに出来ているんですね、きっと。

いや、多々あると言うよりも、全部かも知れないなんて思うわけで・・・この世の中は知らぬが仏が一番じゃないか? なんて思う今日この頃、ベントーを買って来ていないのに外は嵐の様相であります・・・ずぶ濡れ覚悟で飯を買いに行くか? それとも、少しくらい喰わなくても死にゃしないんで我慢するか?

最良の手は・・・当店の若頭補佐が小賢しくも既に買い求めてあるベントーを、職務権限により取り上げて喰っちまうか?
ヤツは元ボクサーなので減量には慣れている・・・一食くらい喰わなくても平気だろ?

いや、思い付きでアレなんだけれども・・・例えば、親鸞は偉いか? とか、思っちまうわけであります。
と、言うのは・・・貴方様は親鸞の歎異抄を読んで納得できますか? 浄土信仰をすんなり受け入れて、お浄土目指して日々の安寧を得られますか?
要するに、有り難いお念仏を唱えて、心安らかに日々を送れますか? と、言う事なんであります。

いや、平穏な日々に手を合わせて、これも仏様の御陰であり難い事です・・・と、言うのは誰でも出来るわけです。

余談ですけれども・・・まっ、大したアレじゃなかったんですけれども、こんなおっさんにも少しは羽振りの良い時期と言うのがありました。
うん・・・世の中の幸せと言うのは俺の周りに寄って来る事になっているんだな・・・くらいに世の中を舐めていた時期がありました。
で、そんな時と言うのは、精神的に追い込まれる理由がほとんど無い・・・だって、仕事やったって上手く行くし、そうすると金回りも良いから人付き合いも円滑だし、余裕があるからいつも笑顔なんでまさかと思う程もてるし・・・世の中って良いもんだわぁ~とか、思っていた時期があるわけです。

で、余談の核心は・・・そう言う余裕のあるとき程、神仏に対して素直になれて、だから、お布施とか喜捨とか・・・要するにそう言うモノに対して金を出す事にも喜びを覚えると言うのを実感しているわけです。

で、余談の余談なんですけれども・・・おっさん程度の鼻糞的なナニではなく、周りの誰もが認める大成功・・・要するに金持ちになった人って、どう言う訳か大仏を作ってみたり、神仏関係の団体に多大な寄付をしたり・・・まっ、税金対策というのはこの際アッチへ置いといて・・・なんか神仏へ近寄る方向へ行くと思うのはおっさんの勘違いでありましょうか?

と、言う事で、社会的な評価と言いますか、その手の価値観でどん底という社会で生きていたとしたら、仏様に手を合わせて心やすらかとか、生きていて有り難いとか、なれるもんだろうか? と、言う疑問を持っちまうわけです。

まっ、おっさんの心根が徹底的に貧しいからだ、と、言われちまえばそれでお終いなんですけれども、しかし、哲学者のように悩む事は凡人には不可能だし・・・と、言うよりも、哲学者が抱える問題に普通の人は気が付かないし、と、思うわけです。

で、宗教なんですけれども・・・仏様と言いますか、お釈迦様でも良いんですが、偉い、と言われましても、南無阿弥陀仏を唱えて目の前の不安が消し飛んだ経験も無いし、逆さに振っても鼻血も出ないと追い込まれて金策に走っている時に、やはり、南無阿弥陀仏と唱えて借金取りから済われた事も無いわけであります。

まっ、おっさんは仏様関係を旨としているんでキリスト様の方は良く分からないんでありますが、多分、神も仏も、現世利益を具体的に与えて凡夫を済ったと言う事は無いと思うんであります。

いや、昔話で信心深いお爺さんとお婆さんが仏様にアレコレ授かるのはありますけれども、年末の年の暮れに餅が喰いたいと言っても、貧乏人には冷たい現実しか無いのが現実であります。

で、そろそろ話しの筋が見えなくなる距離まで走って来たんでアレなんですけれども・・・要するに、頭の良い人達が、自分達の中でだけ理解できるアレコレを、一般凡夫の娑婆に蒔き散らかしちまうから、ホントは知らなくて良い事を知っちまって、より一層の不安を抱いちまう・・・いや、信じれば済われる、とか言われたもんだから、一生懸命信じてみようと素直に努力して居るのに・・・オラぁ~やっぱし貧乏だし、食うや食わずだし・・・隣りン家は結構金回り良さそうなのに、オラの方が信心深いと思うのに、と、現実を突きつけられたとき、納得できる強い人間って、多いもんですかね?と、問いたいわけです。

金持ちが極楽に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい・・・とか、言うわけで、貧乏人の方が金持ちよりも済われるんだよ、と言う教訓なんでしょうけれども・・・喉が渇いて死にそうな時には、やっぱし、有り難いお説教よりも一杯の水を得る方を望んじまうのが凡夫であります。

と、言う事で、聖書でも歎異抄でも、まっ、その他の哲学書やら人生の教訓みたいな本でも良いんですけれども・・・絵に描いた餅は喰えない、死ぬ程喉が渇いた時には、説教よりも水が欲しいと・・・そこを超越して初めて悟るとしたら・・・一般的な凡夫には無理でしょう?

なんで、無理なことを言うのかなぁ~・・・と、思っちまうわけです。

それが証拠に、未だにまだ宗教関係の本はナンボでも出て来るし、神様の言葉の解釈も多岐に渡るし・・・でね、何よりもですね・・・神や仏がこれだけ説教垂れていると言うのに、戦争も貧困も何一つ解決して行かない上に、資本主義社会なんて言うのが蔓延っちまった現代では、仏様でさえも想定しなかったであろう、キリスト様も読み切れなかったであろう、新手の不幸が生まれちまいまして、社会は益々複雑になっちまっているわけです。

だから・・・頭の良い人達だけに分かる理屈で、社会は動くわけですが、それを屁理屈とは言いませんけれども、また、詭弁だなんて言ったらバチが当たりそうですけれども・・・更に頭の良い人が、現実回避の言葉を蒔き散らかして、より分からなくしているのが今時の社会じゃないか? 
なんて思うわけです・・・結論ですか? 単純にですよ!!!

あるが侭に、為すが侭にを受け入れて・・・あれっ? それが禅か? 可笑しいなぁ?

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