じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

新しい歴史教科書 9

2017-02-20 16:44:39 | 新しい歴史教科書
第一章 2 自然の営みと縄文文化

貴方様は縄文文化について明るいですかぃ? 
私しゃアレです・・・縄目の土器が出たので縄文、で、竪穴式住居と土偶と勾玉でほぼ90点は確保していたと記憶しているんですけれども・・・何分にも50年以上も前の事なんで定かではありませぬが。

で、教科書を読んでいて成る程なぁ~と唸ったのが「氷河時代の終焉とともに海水面が上がり大陸から分離し、暖流が日本海に流れ込んで気温が上がり針葉樹が後退し広葉樹が増え大型動物が絶滅し猪や鹿や兎などの小動物が増えた・・・これらのすばしこい小動物をとらえるために弓矢が発明され、犬を猟犬としてつかうようになった」の記述であります。
いや、自然の変化のその辺は知ってていましたが、猪や兎を捕るのに弓矢が発明されたとは驚きと言いますか、考えりゃ当然とも思いますけれども、しかし、縄文人賢かったんだな、と、唸っちまった訳であります。
ナンとなれば昭和人の私がナンの前知識も無く兎を捕ろうとしたら弓矢の発想では無く落とし穴程度の事しか思いつかないと確信するからであります。

更に驚いたのは、縄文土器に拠る煮炊きがおこなわれ、あく抜きなどの技術を発達させた、と言う事であります。
あく抜きでスゼぃ・・・ドングリやらを拾って生で齧っていたら猿ですけれども流石に人類であります。
煮て食べようとしたらエグかったんであく抜きをしたんでスゼぃ・・・既に相当の味覚を持っていたと見て間違いないでしょう・・・和食の技術のは既に縄文時代まで遡る事が可能だと言って良いと思うのは私だけでありましょうか? 

しかし今イチ納得出来ないのが竪穴式住居であります。
穴を掘って屋根を掛けた住居・・・簡素であります、が、その理由であります。
ナンとなれば既に火を使い土器を焼き煮炊きが出来る文化を持っていたのに穴を掘って屋根を掛けた住居と言うのが解せないんであります。
で、無学な私が適当に考えたアレは・・・この時代の日本列島は雨が少なかったのかな?と、思う訳であります。
なんとなれば高台に作ったとしても穴を掘って床面を作れば水が溜まるのは必定・・・違いますかぃ? ナニっ? 狩猟採集の生活なんですぐに移動するから宜しい、とな? まっ、いいでしょう

ところが、青森の丸山三内遺跡では約5500年前の定住の跡が出て来ちまった訳であります。
しかも1500年もの長い間の定住である事が分かっているらしい・・・でストぉ。
で、既に農耕の痕跡や稲作(陸稲)も行なわれていたらしいけれども当時の日本列島は食料に恵まれていたので大規模な農耕や牧畜が始まるにはいたらなかった、そうであります。

なんか縄文時代が羨ましくなるのは私だけでありましょうか?
父ちゃんは弓矢を持って鹿狩りに行き母ちゃんは植物の採集に出掛け、竪穴式住居では年寄りが囲炉裏の番をしていた・・・でも乳幼児は母親と一緒でしょうね。
粉ミルクは無かったので母乳だったでしょうからね。
それにしても昭和頃の農村や漁村と大して違わない風景が展開していたのかと思うと胸熱じゃありませんかぃ? 日本人は昔から日本人なんでありますねぇ。

で、土偶やら漆塗りの装飾品なども出土していると言うのを鑑みますと生活にはゆとりがあり既に信仰もあったのかと伺える訳であります。
ちなみにこの時代の漆製品は世界最古だそうであります。

で、土偶なんですけれども、妊娠した女性をかたどった物だそうでして「縄文のビーナス」としてナニなんだそうであります。
いや、子供が国の宝であった事が伺え、そしてやっぱし「カカア天下」であったのかと私しゃ思うんですけれども・・・そこら辺もヤッパし日本的でありますねぇ。

いや、なんか縄文を少し齧っただけで気持ちがホンワカしちまったんですけれども・・・ナンと申しましょうか、太古の昔から「和」の文化なんでありますね。
それがずーーーーっと変らない日本人の気質なんでありましょう・・・だから争いの得意な国には意外とあっさりナニしちまうアレは否めない様な・・・。




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新しい歴史教科書 8

2017-02-11 21:09:05 | 新しい歴史教科書
コラム 「岩宿遺跡を発見した相澤忠洋」
無名の青年研究家による大発見で、日本の歴史は数万年もさかのぼった。

と、言う事で、日本には無かったとされていた旧石器時代を引っ張り出して日の目を見せた相沢忠洋の事が書かれたコラムであります。

私の微かな記憶でも小学校の社会科で習ったのは「日本の文化は縄文文化を最古とする」でありました・・・が、当時も今もあんまし頭は良く無いので定かではありませぬ。

で、何故に縄文から、と言う説明では・・・発掘調査で黒土を掘って行くと赤土の関東ローム層にブチ当たるんだそうであります。
で、その赤土は火山灰でありますので、1万数千年以上前に日本は火山灰が降り注ぎ動物も植物も生えない死の世界と考えられたんだそうであります。

で、家庭的に恵まれない幼少期を鎌倉で過ごした相澤少年は土器などを集めて遊んでいたそうであります。
で、ある時、集めた土器を大人に見せ何に使ったのかを尋ねたんだそうであります。
すると「大昔、お父さんが狩りをし、お母さんが土器など焼き、夜になるといろりの火をを囲んで一家団欒をした、その名残なのだ」と教わったとか。
で、一家が離散し家族と離れて暮らす相澤少年は「一家団欒」という言葉を一生忘れなかったそうであります。

で、11歳で東京の下町の履物問屋にに丁稚奉公に出た相澤少年は夜間の小学校に通って学んだんだそうであります。

で、休日には博物館に通い、小遣い銭を貯めては考古学の本を買ったんだそうであります。
で、心の底に潜んでいた日本人の一家団欒・・・それはいつ頃から始まったのだろうかと疑問に思い、それを知る事が相澤少年の夢になったんだそうであります。

さて、戦後、相澤は群馬県桐生市で納豆の行商をしながら本格的に遺跡の発掘に打ち込んだんだそうであります。

で、昭和21年、相澤は群馬県笠懸村の切り通しから地元では産出しない「黒曜石」の石片を発見したのだそうであります。
さらに昭和24年、ついに完全な形の石器を発見したのだそうであります。

しかし、小学校しか出ていない納豆売りの発見を大学の学者たちは認めなかったのだそうであります・・・ちなみにWikiで調べますとその大学は明治のようであります。

が、やがて相澤の案内で調査チームが組まれ旧石器が発見され、初めて日本にも旧石器時代があった事が証明されたのであります。
ところが、新聞にも大学の報告書にも相澤の名前は無く無視されたのだそうであります。

しかし、相澤はその後も発掘を続け多くの成果を上げ、ついに昭和42年、岩宿遺跡の発見とその功績により、第一回吉川英治賞を受賞したのであります。

と、まぁ、教科書を要約したらこんな感じなんですけれども、しかし、一家団欒を石器時代まで遡って調べようと言うのは凡人の私には狂気に感じます・・・なので後にとって付けた話しじゃないのか? ナンて邪推をしてしまうんですけれども・・・まっ、いいでしょう。

で、教科書は黒曜石のアレコレは無視なんですけれども・・・黒曜石の謎は歴史好きじゃなくても興味深い物であります。
と、言う事で、ナンと申しましょうか・・・歴史って、真実もナニなんですけれども推測から仮説を立て証拠を見つける感じで有りましょうか?
科学もそんな感じだと思うんですけれども・・・学問ってそう言うモンなんですかね? 




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新しい歴史教科書 7

2017-02-04 20:44:56 | 新しい歴史教科書
第一章 古代までの日本
旧石器・縄文・弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安時代

いや、今までは「序章」でありまして、ここからが本チャン、と申しますか、まっ、恐らく試験問題になるのはここからでありましょう・・・と、思う訳です。

もー初っ端から興味深い事が書かれてまして、扉の写真に平城京が写ってまして、序でに平城京の見取り図と、ソレの元となった唐の長安が、そっくりだと出で居る訳であります。

で、図を見ますと成る程、と、頷くんですけれども、しかし、2つの都には決定的な違いがあると書かれております。
ナントぉ~・・・唐の長安には城壁がありまして、平城京には無いのだそうであります。
その訳はP62、と書かれてまして詳しい説明があるんですけれども、そのネタは62Pになったら使う所存であります。

第1節 文明のあけぼの

1  日本人はどこから来たか
まっ、詳しい説明がありますがそんなものは端折ります。
でも簡単に、しかも自分の見立てで書きますと・・・アフリカから出たご先祖は、平地図で言うと、少し北に上って西へ曲がったのがヨーロッパ系で、東へ曲がったうちのヒマラヤ酸味役よりも北側を通ったのが中国や朝鮮に居着いたのと、ズーッとシベリヤからアラスカを経てアメリカ大陸にまで行っちまったのが居たようであります・・・日本人はコレの端くれのようであります。
で、ヒマラヤよりも南側を通ったのがマレー半島辺りまで出て、ついでに海に乗り出した南方系の人達なのかと・・・地図に書かれた矢印から想像したんですけれども・・・まっ、当たらずとも遠からずかと思います。

アレです・・・猿人が二足歩行をしてあいた手で道具を使うようになって脳味噌が発達して今日に至る、で宜しいと思う訳です。
しかし、毛皮を纏い火を使った原人でしたが、寒冷なヨーロッパやアジアに適応出来ずに絶滅したんだそうであります。

で、約20万年前に私らのご先祖と言える、新人(ホモサピエンス)が誕生したんだそうであります。
ちなみにホモサピエンスとは「知恵のある人」と言う意味だそうであります。

で、日本人なんですが、今よりも平均で10度も気温が低かった氷河期でも日本列島は氷に覆われて無くて草が生えていたらしいのであります。
なのでマンモスやナウマン象やオオツノジカなどが生息していた・・・故に、数万年前に定着した人が日本人のご先祖様だと、書かれている訳であります。

で、東北の寒い所に住む自分としては日本列島とは申しましても西の方とか九州とかで、白河以北には人は住まなかったろうと思う訳です・・・が、長野の野尻湖の湖畔でナウマン象やオオツノジカの角谷骨が見つかっているという事なんで東北地方にも寒さに強いのが住み着いたかも・・・と、思います。

で、上記は旧石器時代と呼ばれるようですけれども、60年前、日本に旧石器時代は無かったと言われていたそうでして、その事についての詳しいお話は、次のトピックとして「岩宿遺跡」の発見と言う事で書かれているのであります。

まっ、ソレは次回のネタという事で・・・本日はコレまで、であります。

それでは皆さん さよなら さよなら さよなら






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新しい歴史教科書 6

2017-02-02 19:27:43 | 新しい歴史教科書
第4節 地域の歴史を調べる

と、言う事で、前節で人物を調べる勉強をしたので次は、場所と言いますか、まっ、タイトルでは地域と言う事で、土地を調べるんでありましょう。

で、最初のトピックは「渋谷区を調べよう」となっております。
やっぱしこう言う時には日本人なら誰でも知っていそうな有名どころを指名するんですね。
仙台市青葉区を調べよう、と宣っても日本全国では知らない人の方が多いですもんね。

さて、渋谷を調べるとどうなるのか?

ええっ? 「渋谷城跡」ですとぉ~? 平安時代から渋谷氏一族の居城であったが、1524年の合戦で消失、ですとぉ・・・渋谷ってのは氏族の名前から来ていたんですね。

で、次に興味を引いたのは「富士塚」であります。
現在の鳩森八幡神社が「富士塚」なんだそうでありまして、東京都内には60カ所以上の富士塚があったんだそうであります。
そもそも富士塚とは・・・富士山信仰が盛んな折り、しかし、気軽に登れるもんでは無かったので小山を築いて参拝したものだそうであります。

で「一枚の絵画から地域の歴史を読み解く」と言うトピックでは葛飾北斎の「富嶽三十六景隠田乃水車」の絵から当時の歴史を知ろうと言う試みが為されている訳であります。
で、北斎の絵の評としては渋谷区内の何処かであるが定かでは無い、と、なっているのを明治時代の古地図などを頼りに特定して行く話しが書かれている訳であります。
そして、遂には古地図からオンデンなる地名を見つけ、水車が回っているのは渋谷川である、と、断定したのであります。
まっ、しかし、穏田商店街、なんてのが渋谷区にはある訳でして、現実として地名は隠れて残っていると言える訳であります。

ところで、隠田を調べて分かった事で一番興味深かったのは、家康が江戸城を攻められた時、甲州街道を逃げ道にする為に伊賀者を配置し、服部半蔵の守る半蔵門から直接甲州街道に出られるようにしてあった、と、言う行であります。
そして、裏原宿が迷路のように入り組み、時に行き止まりになるのも守備の為であるのだそうであります。
で、そんな小道は仙台でも沢山在る訳でして、その謂れは正に攻められた時のアレコレ、と、伝わっている訳であります。
しかし、自分が子供の頃ソレを歴史として捉えた事も無く、興味を引くどころか、伊達政宗も面倒くせえ道を作ったもんだ、くらいにしか思わなかった訳であります。

と、言う事で本日の第6話はナントなく取り留めも無くナニでありましたが、まっ、私の不徳の致す所という事で・・・あっ、春の小川はさらさら行くよ、の歌のモデルも渋谷川だそうであります。

では また さよなら さよなら さよなら

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新しい歴史教科書 5

2017-02-01 20:38:43 | 新しい歴史教科書
第3節 人物を通して時代を捉える

と、言う事で、歴史とは人である・・・人の生き様の記録である、という事なのでありましょうか?
歴史上の人物を浮き彫りにする為のアレコレがこの節では書かれているようであります。

で、人物カードを作ろう、と言うトピックでは、鑑真に焦点を当てましてミニ伝記を書く練習などしている訳であります。

いや、鑑真丸と言う船がありまして、その昔よく神戸に出張していた時にポートターミナルで鑑真丸が入港するのに出会した事がありました・・・が、あんまし流行っている風には見えなかったんですけど、まっ、いいでしょう。

で、人物ーカードの書き方という項目での6番目・・・書き出しと段落の始まりの1字は下げる、とある訳です。
いや、私もこの部分とても引っかかっている訳です。

ナンと申しましようか、ブログを書き始めた当初はお約束に則って1文字下げていたんですけれども、何処のブログを見ましても個人はやっていないんですよね。
なのでネットではソレがお作法なのかと、自分も右に倣っちまいましたが・・・。

で、鑑真は200文字のミニ伝記なんですが、次は津田梅子女史が題材でありまして、800文字の伝記になる訳であります。

いや、例として作られた800文字の伝記、津田梅子を読んだんですけれども・・・スゲェ~と、驚いたのは「7歳の誕生日を目前に控えた津田梅子の姿がありました」と、ある訳です。

いや、津田梅子の粗筋として日本最初の女子の留学生の一員だったとは知っていましたが、年端も行かない7歳足らずでの留学だったんですね・・・未だお母ちゃんのお乳が恋しくても許されるかも知れない年頃で官費の留学でありますかぁ~・・・感服であります。

さて、次は、本格的な人物研究、と言う事で「からくり儀右衛門」が取り上げられている訳であります。

で、人物の伝記の書き方は「起承転結」で書くのだと・・・なんか当たり前だろうという己もしますが、まっ、いいでしょう。

からくり儀右衛門・・・本名は田中久重と言うんでありますね。
で、お茶運び人形などは私でも知っているんで相当に有名なんでありましょう。
その他には「万年時鳴鐘」と言うのが写真で載っているんですけれども、和時計の最高傑作だそうであります。
いや、気になったのはアレです・・・東芝未来科学館蔵、と、言う所でありまして・・・今を時めく東芝さん、文化的なアレに資金を割いている余裕など無いだろうなぁ~・・・ドーなっちまうんだろう? と、危惧した訳であります。
が、しかし、小さな但し書きに「複製」とあったんで、まっ、ンじゃぁ大丈夫だな、と。
んっ? 複製とな? 本物は何処にあるんでしょうね? まさか盗まれて半島に渡ったとか? 冗談ですけど。

と、言う事で本日はコレまで さよなら さよなら さよなら




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