じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ポカラへ No.25

2014-01-27 10:53:51 | ネパール旅日記 2013

 11月29日 金曜日 快晴

 昨夜は楽しかった。
何杯飲んだのか分らないロキシーだったが二日酔いも無く,頭痛も無かった。
もう標高が低いので酒を呑んでもおかしな影響は無いのだろう。

 昨夜,部屋にもどっから,静かなはずの白人ご一行が騒ぎ出した。
ダイニングでは酒も呑まないベジタリアンと言っていたがそれは大嘘で,部屋では酒を飲みヒーリングミュージックを大音量で流し、かつ大声で騒ぐのだった。
風に乗って漂って来るのがガンジャ独特の香りだったのは錯覚では無い。
言葉の端はしにZENとかYOGAが出て来るのだが,ヨガも禅も形の問題ではない事が分っていない頓珍漢な会話だった。
乗り込んで行って日本の禅の心の講釈を垂れてやりたかったが、残念ながらそんな英語力も度胸も無かった。

 寝付かれずに愚図々していた。
トイレに行こうとヘッドランプを灯したら点かなかった。
今夜からは正真正銘のちゃんとしたホテルだからヘッドランプは要らないのだが予備電池はまだ1個あったから替えた。
40時間持つはずの電池を2個使ったと言う事は80時間も点灯させていたのかと驚いた。

 11時を過ぎても白人団体のヒーリング談義は止まなかった。
これがトレッキングの最後の夜でなかったらとっくに怒鳴り込んでいるところだが,明日は緩い下りを5キロも歩けば良いだけなので黙って寝袋に潜り込んでいたらいつの間にか眠った。

 チベットパンとゆで卵とミルクティーの朝食を食べ,宿の娘との固い約束を胸に出発した。
宿には娘が二人居て、どちらも美人だった。
まだ高校生の娘は外国人と結婚してネパール国外に住みたいと願っていた。
もっとも通りすがりのトレッカーでごま塩頭の自分がその対象でない事は承知していたが,冗談でも娘の笑顔は嬉しかった。

 ヒレの宿からの道は日本の昭和の昔の山村風景と良く似ていると思った。
氷河の山に端を発した急流も随分大人しくなり水温も上がって魚が捕れるのだろう。
日本の山間部の渓流に似た川に投網を打つ人の姿が見られた。

 標高が下がるにつれ亜熱帯を意識させられる気温と陽射しになり、常に見えていたヒマラヤの白い峰々が見えなくなった。
ドルジやナーランと離れ、一人最後のトレッキングを噛み締めるように歩いた。
この時,帰りたい気分が3割,もっと歩きたい気持ちが7割になっていた。
そして,あれ程嫌っていたドルジの小狡いごまかしもなんとなく許せてしまう気になって、来年,資金が許せばアイランドピークを彼らと登ろう、ドルジと登りたいと思うようになっていた。

 1時間半も歩いて賑やかなビレタンテイーの町に出た。
予定ではナヤプルまで歩くはずだったがビレタンティーの町にはタクシーが数台スタンバイしていて、ドルジは早速交渉を開始した。
ドルジ曰く,ナヤプルからもここからも料金は一緒だから乗ってしまおうと言う事だった。
しかし,タトパニ行きのバスの一件で揉めた事を忘れていないドルジは、知っている単語を全部並べ、この先の道がどれほど無駄でつまらないかを得々と語る事を怠らなかった。
ドルジの熱弁をよそにナーラーンが交渉を決めたようでスズキの小さな車に荷物を押し込んでいた。
もっともタクシーでは贅沢だと言う人はナヤプルまで歩かないとバスは無い。
ナヤプルまでは2キロ程度、しかも未舗装とは言えトラックまで走る道とあっては埃の凄さは推して知るべし,歩く気は毛頭無かった。

 ナヤプルからは穴だらけの舗装道路を快適に走り、眺めの良い峠を一つ越え一時間程でポカラに着いた。

 ポカラでは久しぶりに普通のホテルにチェックインした。
落ち着いてホッとする間もなくナーランのボーナスのためにATMを探さなければならなかった。
ネパール第二の都市であり一番人気の観光都市と称されるポカラは自分の感覚ではあまり豊かでは無いアジアの観光地ににありがちな田舎の街にしか見えなかった。

 土産物屋が建ち並ぶメイン通りを適当に歩いて行くとATMの看板があった。
そこでキャッシュカードを入れ現金を引き出そうとしたのだが自分のカードは相性が悪いのか取り扱いできないと表示された。
ナーランは今日の夜のバスでカトマンズへ帰るのでなんとかしなくては成ら無い。
仕方が無いので緊急用に温存していたUSドルを両替してナーランに渡した。
日本円の手持ちが有ればそれの両替でも良かったのだが数千円しか持っていなかった。

 日本食屋の看板を見つけていたので三人で昼飯を食べようと言ったのだがナーランは床屋に行きたいから時間がないと言うので10000ルピーを渡し,また来年の11月な,と握手して別れた。


 

 

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ヒレへ No.24

2014-01-22 14:25:06 | ネパール旅日記 2013

 11月28日木曜日 快晴

 今朝は4時過ぎに起きプーンヒルまで登り御来光を拝んで来た。
しかし,大して感激するものでもなく,一応ネパール観光の目玉と言われているので行っては見たが,トレッキングの道々、間近に巨大な山々を見て来た後では迫力に欠ける。

 チベットパンとフライドエッグの朝食を食べ、9時頃,ナヤプルを目指し歩き出す。
トレッキングは今日が最後だ。
もう歩か無くて良いと思うと寂しいやらほっとするやら複雑な心境になった。
しかし感傷に浸っている暇も無く最後の一日の行程は下り一方なのにハードだった。
2860mゴレパニから1070mのナヤプルまでを10キロ強で降りるのだから道の急さは推して知るべしである。
しかも,バンタンティの村から先は石の階段が延々と続き歩幅が限定される上に道はロバや牛の糞だらけで,それらを躱しながら歩くのに難儀した。
しかし,いくら酷い下りとは言え登るよりは何倍も楽なのは確かで,すれ違う登りのトレッカーに「あとどれくらい?」と聞かれる度に云われの無い優越感に浸りつつ、決まって「あと1時間くらい」といい加減な事を言っていた。

 このトレッキングで驚いた事はたくさん有るが,殆どの人が地図も持たずに歩いているのには心底驚いた。
だから,自分が茶店やレストランで地図を広げていると誰か彼かに見せてくれと言われた。
他の人達は自分がどこを歩いているのか気にならないのか不思議だったが,しかし,ガイド付きのトレッキングなのだからどこに居るかなど知らなくても困る事も無いのは確かだが。

 歩幅の合わない石の階段にうんざりしながら下って行くとウレリの村に展望の良いレストランがあった。
陽当たりと眺めが抜群なので昼飯をとる事にした。
看板に「ウレリの村の名物ピザ」と書かれていたのでソーセージのピザを頼む事にした。
この村には電気は来ていたがジープロードは通っていず荷物はロバで運んでいる。
車の終点のナヤプルからは一日で来られる距離だが,今までの経験から推測すればピザの具に期待は出来ないと思って注文してみた。
しかし,恐らく品切れだろうと思ったソーセージのピザのオーダーは受理され,程なくしてチーズたっぷりの美味そうなピザが現れた。

 ピザを食べながら眺める景色がどこか日本の山間のそれと似ており、心が和むと同時に郷愁の念に駆られた。
家を離れて一月なんて事は今までに何度もあったが今回は何故かやたらと里心がつくのだった。
トレッキングが終われば家に帰るのだが,それは嬉しく楽しみである反面,馴染んでしまったヒマラヤの空気から離れるのは寂しかった。

 標高2000mを切ってからはますます日本の風景に似てきた。
しかしそれは今の日本の山間地の景色ではなく,自分の記憶の中の40年以上も前の風景だった。
のどかな風景に旅人は憧れるが,現実のこの地の民の暮らしは自分らが思う程安閑としたものであるはずも無く厳しい事は容易に想像がつく。
しかし,分っていも憧れてしまうのは何故だろう。
ずっと昔に何処かで無くした大事なものがここにはあるように思えてならなかった。

 もう少し歳を取り足下が怪しくなったらこの辺まででも登ってきて日がな一日ここで景色を眺めるのも悪く無い。
そうだ、次は女房を誘ってここに来てみようか,などと、既に次の事を思い始めていた。

 ピザを食べ終えたタイミングを見計らってドルジがやってきて「今日はヒレ泊まりで良いか?」と訊ねた。
そうなのだ、タトパニで一日詰めてしまったのでポカラの宿の予約は明日からなのだ。
と,言う事は,降りてしまえば今日中にポカラに着けるのだが,無理をしてでももう一泊何処かに泊まらなくては成ら無いのだ。

 ウレリから下の方に幾つかの建物が見えていた。
その内のいくつかは大きく見える事から恐らく宿だろうと見当をつけ「あそこに見える青い屋根の宿に泊まろう」と言うと「おお,手前じゃ無くて先の青い屋根か?あそこは馴染みなんだ,あそこにしよう」とドルジが喜んで言った。
「ああ,お前の馴染みだと俺が不愉快な思いをしそうだから止めよう」と言うと,黙って立ち去った。

 急な石の階段はその後も容赦なく続き,ロバの糞や牛の糞を避けながらのんびりと下った。
最後の宿まで,急いで行く必要も無く,また、ゆっくり噛み締めながら行きたかったから余計にのんびり歩いた。
それでもヒレの宿には2時前には着いてしまった。

 宿に入ると,一番乗りの特権で部屋は選り取り見取だった。
二階のテラスの角で,一番眺めの良い部屋を選んで荷物を置いた。
ここからの眺めは自分が子供の頃の田舎とそっくりで,トレッキング最終日の宿として申し分無かったが,しかし,この宿が例の青い屋根の宿である事はとっくに知っていた。
まあ良い,ドルジがロキシーを煽って酔いつぶれようとも,明日は一時間か二時間も下ればタクシーを拾ってポカラのホテルだと、騒がない事にした。

 温水シャワーの出が良かったので序でに洗濯をしようとありったけの衣類を持って下に降りると,水場で洗濯をしていたドルジが洗ってやるから置いて行け,と言ったので気持ち良く頼む事にした。
ドルジは慣れた手つきで大きなゴミ袋に一つ分の洗濯物を手際良く洗ってバナナの前のロープに干してくれた。
風がないので乾かないかも知れないと言いつつ,自分の服も全部洗っていた。

 シャワーを浴びさっぱりしてテラスでビールを飲んでいると洗濯を終えたドルジとナーランが上がってきて座った。
もう何を言いたいのかは顔を見れば察しが付くのでナーランにビールをあと二本頼み三人で呑んだ。
ナーランとは明日で最後だからボーナスをやらなければならなかったが手持ちのルピーは少なく1万ルピーは持っていなかった。
相場は25日掛ける300ルピーで7500らしいが,やはり切りの良いところで1万渡したい。
ドルジが居たがどうせ分る事だからと,明日ポカラに着いたらATMに行くから一緒に来いとナーランに言った。
ナーランは戯けて「OKサー」と言って大げさに敬礼をした。

 今夜の客は自分一人かと思い始めた頃,白人の一行、6名の団体が宿に入った。
その姿格好はどう見てもトレッキングでは無く,普通に街中を歩いている服装だった。
翌日宿を出て分った事だが,ここから10分も下るとジープロードが来ていて一行はジープで来て少し歩いただけだったのだ。
更に,あの一行はポカラの旅行業者がやっている、東洋の神秘「ヨガ」をネパールの霊検灼かなる山間地で体験するツアーだったのだ。
彼らと彼女らは早速自分の物干し場の前にストレッチマットを敷きヨガを始めたが,あれはどう見てもただのストレッチ体操にしか見えなかったが,皆は真剣にインストラクターの真似をしていた。

 夕食は豪勢に羊の肉のガーリックステーキとジャガイモの丸揚げ,野菜サラダを食べた。
ロキシーを呑みながらドルジやナーランとふざけていると宿の主人も笑いに誘われて顔を出す。
彼はタカリー族である事を誇りにしているらしく時折怪しい日本語を織り交ぜてネパールの歴史とタカリー族の歴史を語ってくれた。
しかし,話しの序でに興に乗って日本語らしい歌を歌うのだが,所々の単語は分るとしても全体としては意味が通じない歌に間の手を入れ褒めなくては成ら無いのは辛かった。
しかし今日がトレッキングの最後の夜だと言うとロキシーはサービスだからいくらでも呑んでくれと気前が良かった。

 自分はいつに無く酔っぱらいロキシーを立て続けにあおっては騒いでいた。
後のテーブルのヨガのグループは今までトレッキング中に出会った白人のグループとは違いとても静かだった。
時折自分が言うでたらめな英語にクスリと小さな笑い声が上がっていた。
若い娘が2人居たので一緒に呑まないかと誘ってみたが断わられてしまった。
ベジタリアンで酒も呑まないのグループなのだそうだ。

 宿の下働きの少年が水汲みや洗い物と、良く働いていた。
感心な子供だな,住み込みで働かなくてはならない事情があるんだろうな,と思った時に,まだ非常食のチョコレートや塩飴が残っていた事を思い出した。
部屋に戻って食べ掛けのアーモンドチョコと塩飴と、どう言う訳か食べ損ねてマルファから担いできたリンゴもあげた。

 その夜,ドルジとナーランと強か呑んだ。
そして,来年の計画を練った。
行く先はアイランドピークだった。
ドルジ曰く,アイランドピークはフィックスロープも張ってあるしテクニック的にも楽だし,何よりも登りがきつく無いのが良いと言った。
もう一度行きたいかも知れないと自分が言ったピサンピークは登りが辛いから止めてくれとドルジが懇願し、アンナプルナサーキットを二周するんならエベレスト街道へ行くべきだ,とナーランが言った。
それじゃぁエベレスト街道を行ってカラタパールに登ってアイランドピークをやっつけて,何日必要で何時頃が良いのだと問うと,今回と同じ一ヶ月で,同じ頃,11月から12月が人が少なくて良いと言う。
よし分った,約束する,「たぶん」また来年来るからな,と言ってまたロキシーをあおった。

 酔いつぶれる感じで9時半就寝。

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プーンヒルに登って

2014-01-21 11:18:01 | ネパール旅日記 2013
 
 11月28日 木曜日 快晴

 周囲が騒がしくなり4時半には起きてしまっていた。
プーンヒルと呼ばれる展望台まで400mを登るらしいのだが,今の自分は体力気力ともに充実し切っており,その程度の標高差は苦には成ら無い。

 何も食べない出歩き出すなど考えられない自分は準備しておいたチベットパンを食べ,テルモスに入れたミルクコーヒーで軽く腹ごしらえをした。

 ピサンピークのアタックの時、氷点下25度の中でもしっかり保温していたテルモスは象印製の30年物である。
娘が生まれ経済的に厳しかった頃,外食の昼飯をおにぎりとお茶で済ませるのに買った物だった。
これとも長い付き合いだよなぁ・・・とうとうヒマラヤに来ちまったな,と少し感傷的になりながらチベットパンを食べた。

 感傷ついでに赤布を持っていた事を思い出した。
ピサンピークのアタックの時「IGAC」とマジックで書かれた小さな赤い旗をザックのポケットに入れていた。
それには割り箸が付いていて,旗として立てる予定だったのだがそんな余裕は無く,持っている事さえ忘れ持ち帰ってしまった。
赤い小さな旗は「アカフ」と呼ぶ布切れで,雪山で迷子にならないように目印として使う物だった。
40年前,高校の山岳部で使った物の残リで,山とは縁が切れていた時でも捨て切れずに持っていた古いアイゼンのケースに一枚だけ入っていた物だった。

 テルモスの事を考えていて赤布を思い出し,ピサンは外してしまったがプーンヒルの頂きに置いて来ようか,と思ったが、いくらネパールの山とは言え3200mの頂では捨てて来るような物だと、止めた。

 階下に降りるとドルジは既に待っていた。
じゃぁ行くか?と、ヘッドランプを灯し石の階段を上った。
自分らが登る道には誰もいなかったが少し離れた木々の隙間からヘッドランプの光が見え隠れしていた。
ドルジに「道が違うんじゃないのか」と言うと「こっちが近道だ」と偉そうに言った。
ふうーん、間違いじゃない事を祈るわ,と思いつつぐんぐんと登って行くと「あっ,間違えた」とドルジの小さな声が聞こえた。
「馬鹿野郎,だから言わないこっちゃ無い」と言うと「ノープロブレム」と言って少しだけ戻って民家の庭先をかすめて牛追いの道のような薮を登った。

 薮を漕ぎ,石の階段の道に出ると程なくして料金所があった。
50ルピーだか100ルピーだったか忘れたが料金を取られるのは御来光を拝もうと暗いうちから登る人だけで7時過ぎに下った時には料金所には誰もいなかった。

 先行している人のライトが見えると猛然と追いかけ抜き去る事を楽しみにガンガンと登った。
普段なら標高3000mで400mも登ると言うと結構きついはずだったが,自分は空気の薄い事には慣れてしまっていたので快調だった。

 40分足らずで登り切り6時前に展望台に立ってしまった。
日本で11月28日に3200mの標高に居たとしたら氷点下10度くらいは覚悟しなくては成ら無いがここでは氷も張っていなかった。
しかし,股引もはかず、山シャツ一枚に薄いダウンジャケットで登って来てしまった自分には十分寒かったが。
毛糸の帽子と手袋を忘れなかったのが幸いだった。

 昨晩のシンガポール組のガイドのブリーフィングが正しければ御来光は6時半だから50分近くは待たなければならなかった。
自分らが立っている鉄塔の展望台では既にカメラを構える場所取りが始まっていた。
自分は一番乗りかと思ったが残念ながら二番手だった。
一番は若いアメリカ人の二人連れで本格的な三脚を二つ立て,片方には中盤のカメラが,もう一方には高級一眼レフのデジカメが据えられていた。
彼らは東に向けて構えていたが自分はマチャプチャレと相対する位置を取った。
自分が首から下げているカメラはソニーの小さな「ネオデジイチ」と呼ばれる素人用のカメラで彼らはそれを見て鼻で笑った,ような気がした。
しかし,山での御来光を何十回と狙って満足のいく写真を撮れていない経験から,太陽をまともに撮ったら負けと確信しているので今回はマチャプチャレやアンナプルナが朝日で焼けて赤くなるのを狙ってみた。
しかし,結果を述べれば,満足の行く写真は撮れなかった。
理由はプーンヒルの位置の問題だった。
展望台から見る山の面はどれも南に向いているのだった。
朝陽が昇っても高い山のごく一部が燃えるだけで南の斜面全体が紅くなる事は無いのだ。
それでも,夜明けから少しずつ赤みを帯びて来るアンナプルナをしつこく撮りまくったのだが。
6997mのマチャプチャレは位置が近い事もあって迫力があるがそれでも7000mに欠ける事実は否めず頂きに陽が当たる頃には周囲が明るくなり過ぎ写真にならなかった。
ヒマラヤの高峰は行き当たりばったり、トレッキングの片手間に撮れる程甘い相手ではないとしみじみ思い,これまで気にしなかった白幡史郎の写真を思い出し唸ってしまった。

 夜が空けて驚いたのはプーンヒルの観光客の多さだった。
狭い高台に何百人居たのだろうと吃驚するとともに,あんな静だったゴレパニの村にこれだけの人が泊まっていたのかと更に驚いた。

 展望台には入れ替わり立ち替わり観光客が登って来るのだが,白人ばかりではなく中国,台湾,日本,韓国,タイ,シンガポールと、言葉から推測しても様々な国の人が居た事が伺える。(中国と台湾の違いは正直良く分からないが)
プーンヒルの人気恐るべしと言うよりは、ネパール観光で一番人気のポカラに来て,更に見所はどこだとなると,二泊三日程度のトレッキングでやって来られるゴレパニのプーンヒルしか無いと言うのが現実だと思う。

 プーンヒルは確かにアンナプルナ山群の展望台としてはよく見えるが,しかし,所詮は展望台だよな,と言うのが偽らざる感想だった。
有名な山が沢山見えると言う事はプーンヒルがそこそこ高い場所と言うのもあるが,山に対して距離が遠いと言う事で,写真を撮るのが目的では間の空気が多過ぎる。
それでも,日本人はもちろん,外国人の多くもキャノンやニコンの高級一眼デジカメを手にヒマラヤを撮っていた。
いや,コンパクトデジカメもほとんどが日本メーカーであって、流石に世界を見渡してもカメラは日本の勝ちか?と自分とは全く無関係なのに少し嬉しかった。

 すっかり夜が空け景色にも飽きたので帰ろうとドルジを促すと,茶を一杯飲んで行こうと一軒だけあった茶店に入った。
一杯50ルピーの紅茶を飲み,まだ登って来る人が続くプーンヒルを降りた。

 宿に戻るとナーランが朝飯を食べていた。
40分で登ったぜ,と言うと驚きながら,下りの道でとても展望の良い場所があるのは気が付いたか、と言った。
確かに,プーンヒルのてっぺんよりもとても自然に山が見える位置があった。
そこでも結構な枚数を撮っているのだが,しかし,トレッキングルートで見た強烈なヒマラヤとは掛け離れており薄味だった。

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ゴレパニ へ No.23

2014-01-19 13:27:12 | ネパール旅日記 2013
 
 11月27日 水曜日 曇りのち晴れ

 昨夜の寝不足を抱えたまま6時30分に朝食。
チベットパンにフライドエッグを頼んであったのだが、どう言う訳か山羊肉のステーキがテーブルに置かれた。
誰かのを間違えて持って来たのかと思い暫し手をつけずに待ったのだが、山羊肉はパチパチと音を立てて油が跳ね美味そうだったので我慢できずに喰ってしまった。
その後何も言われる事も無く、美味しいミルクティーも頂いて宿を出た。

 7時30分出発。
朝、ドルジがむすっとして口を利かなくなっていた。
心当たりは有った。
何処かのガイドにドルジのガイドの塩梅を問われ、最悪ではないが良くも無いと言ったのがドルジの耳に入ったらしい。
あの野郎最低だと自分が言ったと、後でドルジに聞かされたので自分の英語が上手く伝わらなかったのだが、しかし、良いガイドだとは一言も言っていないので当らずとも遠からずで釈明もしなかった。

 
 この日は久しぶりにドルジに5mルールを言い渡した。
自分を追い越すな、5メートル後ろを歩け、休憩は俺が決める、と宣言した。

 タトパニからゴレパニまでは地図で読むと距離が10キロ、標高差で1700m有った。
これは南アルプスの北岳に広河原から登るのと同じくらいで、ゴレパニの標高が八ヶ岳の赤岳と同じなのも自分の守備範囲でドルジを尻目に登り切る自信があった。

 振り返ってみれば、この登り道が一番味が有ったかも知れない。
亜熱帯のバナナが実る街から、ミカンの収穫が盛んな村を抜け、ゴレパニではまた冬の寒さに逆戻りし、亜熱帯から亜寒帯への季節の垂直分布が見られるのだ。

 登りはジープロードが途中まで走っていて山道と言う雰囲気ではなかったが、標高2000mを越す頃には歩くしかないトレッキングルートになっていた。

 途中の道々でミカンを売り歩きながら登校する子供に遇った。
家で採れたミカンを売って現金を得、学用品などを買うらしい。
初めは面白いやら気の毒やらで買っていたのだが、行く先々で次々と新手が現れるので辟易し、仕舞いには追い払っていた。
喜捨の心も忘れた偽ブッディストは村々のゴンパに手を合わせマニを回し、オーマニペネホンと、真言を唱えつつ、ネパールの桃源郷に浸るのだった。

 ミカンは日本でのデコポンに似ていてとても美味い。
皮に傷を付けると大量の油が滲み出て手が濡れるが、日本のミカンではこれほどの事は無く、鮮度が為す技なのだろうかと驚いた。

 ナーランが調子が悪いのか遅れて来た。
シッカの村で早い昼飯をとる事にしてナーランを待った。
考えてみれば、ピサンピークアタック以後、クライミング道具を持たなくなったドルジのザックは随分軽くなった。
自分に至っては重い物は殆どナーランに背負わせているのだから、一人終始重荷を背負う彼が遅れるのは当たり前だった。
自分もリンゴやミカンや乾かない洗濯物と無駄な物を持っていて、10キロは背負っていたのだがナーランに比べれば格段に軽かった。

 段々の田圃や畑が美しく、時には桜が咲いている。
畑を耕し水牛を追う農夫は日本の民謡にも似た歌を歌い、女子供がそれを助けて働く姿に心が溶けて行く。
ネパールの柔らかな風景と静かに流れる時間に浸り、やっと、この旅を歩いて良かったと心底思った。
辛いばかりのピサンピークや、外国人の多さに居場所を無くしたトロンハイキャンプなど、いつもの自分の旅とは一線を画する馴染めない何かを感じていたのだが、ここに来て、ドルジの臍曲げも気にならなくなり、完全に自分の旅が出来るようになった。
しかし、やっと馴染んだ旅は、後一週間で終わりなのだが。

 トレッキーグルートは時折石段の急坂が続いてきつかったが、左程苦しくも無く、何時に無い早いペースで登れた。
それは高度順化がなされ、言わば高所トレーニングの効果があるからだろうと思う。
ナーランを待ちながら歩くドルジを置いてさっさと前に進んだが、村外れには放牧の牛が歩く道が入り乱れ、結局はドルジを待つ事になった。
 
 3時少し前、ゴレパニの宿に到着。
登り返しを入れれば累積で2000mは登ったかと思う道だったが疲労感は無く楽しかった。
今日も一番乗りだったが何時ものように三階の陽当たりの良い部屋ではなく、二階の薄暗い部屋だった。
もっとも陽が陰りつつあったので暗かったのだろうが、どこの宿でも一番乗りして最上階の部屋を取る事を旨として歩いて来ただけに少し納得がいかなかった。
後で分った事だが、三階の部屋は白人の団体が押さえていたらしい。

 部屋に荷物を置き、生渇きの洗濯物をダイニングのストーブの回りに干し、ビールを貰って飲んでいた。
するとタトパニからの登りで追い抜いて来たトレッカーが続々とチェックインして来て、日没頃には宿は満員になっていた。

 ストーブに当たりながらビールを飲んでいるとネパール人のガイドが、ピサンピークアタックに成功したんだって、と、話しかけて来た。
どこから登ったと聞くので岩の尾根沿いではなく東側の雪面から直登したのだと思うと言った。
それを聞いて彼は、ドルジなら登れるだろうと言った。
自分もドルジのクライミングの技量は認めているがネパール人ガイドにも一目置かれているのかと改めて驚いた。
  
 ストーブ回りに人が集まり場は流暢な英語が飛び交うようになって自分は部屋に引き上げた。

 夕食時、自分の向い側に座ったシンガポールからの親子と話しをした。
これまでも数組、数人のシンガポール人トレッカーに出会っていたので、シンガポールは暑いから雪と氷を見に来るのか?と言うと、その通りだ、と、あっさり答えられてしまった。
ガイドが居たので遠慮してトレッキングの料金は聞かずにカトマンズまでの航空券を尋ねると、往復で4万円程度との事だった。
成る程な、飛行機が安いなら熱帯の人が雪と氷を見るのに一番手軽なのはヒマラヤだよな、と納得した。

 シンガポール人のガイドはとてもフレンドリーで自分にも明日のプーンヒルの見所などを教えてくれた。
我がガイドのドルジは既にロキシーをやって酔っぱらっい明日の観光のブリーフィングなどは無かった。
明日はこのトレッキングではそれなりの目玉となるプーンヒル観光があるのだが、ドルジの説明は、明日の朝は5時半に出発し、朝食は戻って来てから食べ、のんびりパッキングをして出発と言う簡単な物だった。
シンガポール組のガイドのブリーフィングによれば、宿からプーンヒルまでの標高差は400mで、早い人で1時間、遅い人だと1時間半の登りになり、ヘッドランプ必帯との事だった。
そして,3200mの高台は時に風が強く寒いので防寒対策を怠らず,足下はしっかりした靴で望むべしと言った。
ガイドはシンガポール組のお母さんに、一時間で登れそうかと尋ねていたが,彼女は2時間欲しいと答えていた。
ガイドは日の出の6時半に合わせて登ろうと思ったのだが諦めたと言った。

 ドルジがダイニングにやって来て「モァ ティー?」と酒臭い息で言った。
おいおい、ドルジ、お前説明不足なんじゃないか、と言いたかったが,暗い朝の五時半の出発と言えばヘッドランプは持っていて当然だし,3200mに登るとなればどんな服装なのかも今更知らない事も無いだろうとの、エキスパートガイドの深慮なのだ,と、飲み込んだ。

 宿の待遇は標高に比例して悪くなるのは既に心得ていた。
標高2800mでジープロードの通っていないゴレパニは昨日のタトパニとは比べるべくも無い質素な宿だった。
ドルジにロキシーの大盛りを頼み,それを持って部屋に戻り、チビリチビリとやりながら日記を記し,7時半に就寝。


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タトパニ へ No.22

2014-01-18 14:40:43 | ネパール旅日記 2013
 
 11月26日 火曜日 コラパニからタトパニへ

 宿そのものはとても快適なのだが如何せん道路に面した部屋は時たま通り過ぎるジープの音や馬鈴を低く響かせて行くロバの群れの音に悩まされ快眠とはいかなかった.
しかも昨夜は深夜にヘリコプターがジョムソン方向へ飛んで行く音が聞こえたが、レスキューだったのかと、気になった.
やはりジョムソンからポカラへ向かう街道は既に秘境でもなんでも無く、単なるネパールの田舎なのだなと痛感した.

 昨夜の白人男性二人連れの晩飯は特筆ものだった。
オーダーはライスだけで、皿に大盛りの白米にケチャップを掛けて食べたのだ。
トロン・ラ・パスより向こう側の高地の美味く無い食べ物を欧米人がケチャップで凌いでいたのは見ていたが、彼らは仕方なく食べていた訳ではなく、これが好きだったのかと唸ってしまった。

 今日の予定は未定だった。
ナーランとドルジの提案は途中からバスに乗ろうと言う事だったが、自分はトレッカーとして出来る限り自分の脚で前に進みたかった。
それで無くても往年のアンナプルナサーキットの色は随分と褪せ気味で、相当に楽な行程になっているのだから。

 コレパニ 7時半出発 ガサ 9時半着

 コレパニからガサまで2時間歩いたのだが、ウンザリだった。
ジープロードには既に小型のバスまで走っていて、それらが巻き上げる土埃の凄さは下るにしたがって酷くなる一方だった。
バンダナとタオルで口を覆っているのだが、それでもじゃりじゃりする程に微粒子の土埃は酷かった。
当然衣服も埃で真っ白で、ガサよりもっとずっと手前のレテやダイクででもバスがあれば乗りたかった。
しかし、皮肉なもので、バスに乗るぞと決めた途端に乗れるバスが見当たらなくなるのだ。
結局はコレパニから10キロ以上も歩き、タトパニまで下り一方で3時間もあれば行けるところまで来てしまった。
 
 ガサは大して大きな町でもなかったが軍隊の駐屯地が有って独特な雰囲気だった。
自分は茶店で紅茶を飲んでのんびりしていると、10時発のバスのチケットが買えたと言ってドルジが喜んでやって来た。
先週の選挙の警戒でカトマンズから彼方此方の村に派遣されていた兵士がガサに集まり、今日、ポカラ経由でカトマンズへ戻ると言う事で、バスターミナルは兵士でごった返していた。
自分らの他にも白人のトレッカーが3組程居たが彼らは午前中のバスのチケットは手に入らなかったらしい。
こう言うところは我がガイドのドルジは極めて有能で、大抵の場合は一番良い席も確保してくれる。
実際に自分は20人乗り程度の小型マイクロバスの一番後の角の席を確保されていた。
しかし、ここは後輪の上でバスが走り出すと地獄を見る事になるのだったが。

 インドのタタ自動車製のマイクロバスは、座席定員20名程度のところへ40人程も詰め込み発車した。
ツーリストは自分だけで、残は兵士と地元民が数人だった。

 歩いているとあまり感じない道路のデコボコだったが、車で走ってみると凄まじい悪路で、瞬く間に尻が痛くなった。
開け放した窓からは前輪が巻き上げた土埃が容赦なく入り込み、最後部の自分は常に土埃の煙幕の中に居た。
マイクロバスは時にギャーをエクストラローに入れ、これは無理だろうと思う急坂をジワジワと登って行った。

 道が幾分開け川沿いになると風が通って気持ちが良かったが、その分、心許ない路肩が崩れてバスが落ちたらお終いだなと、肝が冷えるので痛し痒しだった。

 バス料金は1人650円だったが本当の料金は分らない。
例によってドルジがピンハネしている可能性は大きかった。
これは勘なんだが、恐らく一人200円もしなかったろうと踏んで居るのだが。

 途中でバスが止まったが乗って来たのは人では無く、ガソリンのポリ缶が二つだった。
既に人の座るスペースは無い詰め込み状態で出発しているのでポリ缶はどうなるのかと見ていたら、幾人かの手を渡っているうちに何処かで落ち着いたらしく手渡しは無くなった。
油臭いポリ缶に騒ぐ人も無く、なんだか不思議な光景だった。
このバスが戻る時にガソリンが満タンになって村に届くのだろう。

 バスで走っている間に見掛けたトレッカーは皆無だった。
やはりこの区間は歩かないのが当たり前になっているのかも知れない。

 歩いて3時間の距離をバスは2時間で走り切って12時にタトパニに着いた。
地図で読む推定距離は15キロ程度だから平均時速は7キロ位と言う事になる。

 タトパニはネパールでは有名な温泉地だった。
しかもポカラからバスやタクシーでも来られるのでトレッカーばかりではなく、普通の旅行者が多く、今までの村や街と雰囲気が違い、すっかり観光地だった。
自分はこの雰囲気には馴染めないと思ったが、こんな街が好きな人は多いのだろう、西洋人も日本人も恐らく長期滞在なのだろうと思わせる人を随分見掛けた。
既に3週間を着倒した衣服は相当草臥れ、禿げた額が日焼けで黒光りし、トレッカーとしての風貌は整っていたが、しかしここは観光客の街なので汚いトレッカーは肩身が狭かった。

 宿の「洗濯請け負います」の張り紙がやけに目についた。

 昼飯に「ヤクステーキ」を食べた。
4000mのムキナートで1000円だったヤクステーキは標高が下がるにつれ値を下げ、1100mのタトパニでは500円になっていた。
しかし、標高と味は反比例の法則に則って、タトパニのステーキはまた味を上げていた。

 昼飯を食べ部屋で寛いでいるとドルジが風呂へ行こうと誘いに来た。
タトパニの温泉はどのガイドブックでも一押しで、観光嫌いの自分でも外すわけにはいかない名所だった。
しかし、温泉大国日本で湯巡りを趣味にして来た自分としては、正直に言って、こんなもんか? と言うのが感想だった。

 コンクリート製の幼児プール程度の大きさの湯船は源泉掛け流しで湯量も多く、温度も適正と、悪くは無いのだが、総ての作りや配置が粗雑と言うか、今一と言うか、残念なのである。
湯船の脇には清流が流れロケーションも抜群だし、ビールやツマミを売る売店も有って何も不足はないのだが、長湯をしてのんびりする気にはならなかった。
流れ出る湯で身体を洗い洗濯を終えたら白人の団体がぞろぞろとやって来た。
男女とも、湯船に入ったら大量のお湯が溢れ出す体格で、興味も湧かなかったのでさっさと退散した。

 ドルジが押さえた部屋は屋上のペントハウス的な眺めの良い部屋だった。
すぐ前のテラスからニルギリが見え、自分はビールを持ってテーブルに陣取りそれを眺めていた。
すると、二組のカップル四人組が相席を良いかと言って来た。
椅子は四人分しか無いので三人を座らせても1人が立っていて落ち着かない。
あぁ~ぁ、またこれかよ、と思いつつ、急いで飲んだって美味くも無いビールを飲み干して席を譲った。

 カメラを持って散歩に出た。
宿が連なる目抜き通りから少し外れた茶店を見つけて入ると、ドルジとナーランが飲んでいた。
二人は既にだいぶ飲んでいたようで機嫌が良かった。
自分もロキシーを貰って呑んだ。
ドルジとナーランはネパール語で話しに夢中で自分は入れなかったが、それが選挙の結果だと言うのは何となく解った。
一月近くも毎日聞いているとなんとなく単語の一つや二つは覚えてしまうもので、耳が慣れたたのでこれから急速にネパール語を吸収できると思ったが、後一週間で旅は終わりだった。

 この夜、夜中の12時を過ぎてもテラスで騒いでいる奴らが居て寝付けなかった。
声からすると若い白人のグループらしかったが、酔っぱらいの若者に文句を言いに行く度胸は無かったので寝袋を頭から被って堪えた。




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