じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

マナンのパン 

2013-12-28 16:31:52 | ネパール旅日記 2013
 
 11月19日 マナンにて。

 マナンにはパン屋が多い。
パンは途中の村でも売っていたが、パン屋とはっきりしたものを認めたのはフムデの街からだった。
そして、ムジュの小さな村にもパン屋があった。
それ以前の村や街では、ベシサハールでパン売りの屋台を二台見掛けたきりだ。
何故にこんな山奥に入ってからの方が本格的なパンと巡り会ったのか?考えてみた。

 答えは、小麦ではないかと推測するが・・・。
標高が低いと稲作が可能だが、それより上はたぶん麦などを作って居るのではないかと思うのだ。
米が出来ずに麦が有り、外国人のトレッカーが大勢立ち寄るとなれば、ピザやパスタと同様にパンが作られるのは必然ではないかと思うのだ。

 これはかなり当っているとは思うのだが、しかし、標高の低い村でも麦畑はあったし、醗酵させないチベットパン(ホットケーキ様のものとお好み焼き様のものとあり)や、パンケーキと称するものは有ったのだから技術的な事になるのか?との考えも捨て難い。

 第二の考察としては、マナンの村は色々な事情が有ってとても豊かなのだ。(豊かな理由はムキナートの村を例に後ほど説明したい)
マナンの村からは海外へ留学している子供も多く、それらが本格的なパンの製造方法や、ひょっとするとイースト菌なども持ち帰った事からパン焼きが始まったのかもしれない。
そして、マナンの街で興ったパン焼きが近隣の村にも伝わった。
だから、あまり離れた村へは伝播していないとも考えられる。
ちなみに、マナンのパン屋の品揃えはどの店も殆ど同じで、アンパンやジャムパンやコロッケパンなどは無かった。

 じつは、宿で食べたパンは精白していない小麦だったと思うのだが、下の方で食べたチベットパンやパンケーキは大麦ではないかと思うのだ。
小麦はパンや麺にして粘りが出るが大麦でパンを焼くと固くパサパサになってしまい美味く無い。
ひょっとすると、標高の違いで栽培される麦が大麦と小麦に別れやしないかなどと思うのだが、麦を見ただけで見分けることは自分には出来ず、分からない。

 アンナプルナサーキットを歩いた事をネタに何かを書こうなどと意気込んでいたのだから、この手の話しの裏付けを探りに街へ出て聞き込みをしてくれば良いとは思ったのだが、しかし、日が暮れると急激に寒くなるし、一度覗いたパン屋では自分の英語が良く通じなくて話しが聞けなかったと言う事も有り、興味は有ったのだが追いかける迄には至らなかった。
こんな事では「目指せ物書き」の道は遠く危ういと分かってはいるのだが。

 マナンには大地主が多く、街道沿いでホテルなどを経営して富を蓄えているものが多い。
それは、先祖伝来の土地を守ってきたからだろうと思う。
そして、人が集まる所には道が開け、それがやがてアンナプルナサーキットとして世界中のトレッカーに広まり、宿や茶店で収入を得られるようになったのだろう。

 チベット文化の影響を受けた地方は、ネパールでも「一婦多夫」制であった。
この制度は一族が土地を維持するのに必要な制度として今でもネパールのムスタン地方やチベットでは維持されているらしい。
理屈は簡単で、兄弟がそれぞれに嫁を娶って独立すれば、その度に財産の分与が行われ土地は小さく分割され続けて行く。
何代かを経たらヤクも山羊も満足に飼えない狭い土地になってしまい一族の勢力は衰退する。
「一婦多夫」の第一目的は農地の維持なのだ。

 そして、第二の目的は、子孫繁栄であった。
男は広大な農地で放牧をして暮らす為に数ヶ月も家を留守にする。
その間にも嫁は家に残る夫と過ごし、子孫繁栄に努めるのだ。
昔の事とて気候風土の厳しい土地で放牧などしていると命を落とす事も珍しく無い。
そんな時にも複数の夫がいれば家は安泰に保たれる、と言う事らしい。

 夫が複数いて生まれた子供はどうするのかと言うと、日本のように家長制度が有る訳ではないのでどの子が家督と言う事も無い。
従って、誰の子かを特定する意味も薄く、母系社会で子供は家の子になるようだ。

 日本の家長制度も田畑を細かくせずに維持する為の制度であったが、長男最優遇でややもすると次男以下は日陰者的扱いを受けた日本の制度よりもとても公平で良いとも思える。

 余談だが、チベット旅行記を記した河口慧海はこの制度を忌み嫌い、鬼畜の如き因習と書いていた。
しかし、河口慧海ほどの人があの荒涼たるチベットやネパールの高地で牧畜や放牧で生きて行く為には悪く無い制度であったと思い及ばなかったのか、少し残念な気がした。

 










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マナン へ No.15

2013-12-28 10:36:19 | ネパール旅日記 2013
 
 11月19日 火曜日 快晴

 ローピサン~マナンへ

 昨夜は最悪の夜になった。
ドルジの御陰で曲がりなりにも登頂が出来た事は感謝していた。
しかし、そんな気分をすっかり吹き飛ばすだけのインチキを奴は仕掛けて来たのだ。

 寝袋に入ってすぐ、ドルジが部屋のドアをノックした。
面倒だったが話しがあると言うので部屋に入れるると、「クライミング用品のレンタル料を立て替えてあるから払ってくれ」と言って合計欄に110ドルと記された黄色い紙を見せた。
それにはテント、ガスコンロ、スノーバー、サングラス、クライミングロープなどが書かれていた。
しかし、買った物とレンタル品が混じっている上に日付が書き換えられているし、良く見ると項目の下の方はボールペンのインクの色も違っていた。
一目見て改ざんした古い伝票である事は分かったが頭ごなしに怒鳴りつけたりしたら後が厄介だと思った。
さりとて、どう対処したものか一瞬では考えつかなかった。
米ドルをそこそこ持っているのを見られているので「金が無い」は使えなかった。
思い浮かんだのは、トレッキングの終わりにはボーナスを払うつもりだったのだから、ここは110ドルを払って事を収めておき、カトマンズに戻って安全が担保されたら爆発させるか?と言う手だった。
しかし素直に110ドルを手渡してしまったらもっと付け込まれる可能性も考えられるので、ここはやんわりとインチキを指摘し、一くさり嫌みの一言も言っておくべきだと思い、伝票の改ざんと、サングラスは誰のものだ、と言ってみた。
ドルジは読み書きが出来無いので自分の買った物が含まれている事さえ分からずに伝票を見せていたのだ。
それは、一目では数字と判断できかねるような汚い字で書き直されている上に、項目の合計は110ドルになっていなかった。
その事も指摘するとドルジは伝票を引ったくるようにして財布に仕舞い込んだ。
その時の顔はばつが悪いと言うよりは明らかに怒っていた。
部屋を出て行こうとするドルジに「ボーナスの先払いだと思ってくれ」と言って110ドルを手渡した。

 念願の6000m峰の登頂に成功して最高の気分で眠れるはずの夜が、たった110ドルの嘘で台無しになってしまった。
しかし、疲れていたのだろう、すぐに寝入った。

 この話しにはまだ続きがあって、朝になると、誰に書いてもらったのか、きちんとした文字で、テント・ロープ・ガスカートリッジ・スノーバー・フィックスロープと書き込まれた伝票を持ってドルジが部屋にやって来た。
それは合計が100ドルになっていて、10ドルは間違いだったと返そうとして来た。
自分は「それはお前のボーナスの先払いだから取っておけ」と言って受け取らなかった。
次第に腹がたってきた自分は「もうそんな小細工は止めろよ、気分良くこの先を歩きたいから110ドルを出したんだ。お前がトイレットペーパー一つでもピンハネをしている事を俺は知っているけど黙っていたんだ。もう沢山だからお前もナーランもここから戻れ。もしもお前らがトロン・ラ・パス方向へ行くと言うのなら俺がカトマンズへ戻る。何れにしても誤摩化される気遣いをしながらお前らと一緒に行く気はない」と言い放った。

 ドルジは顔を真っ赤にして何やらわめきながら出て行ったが、直ぐにナーランを伴って戻って来た。
自分は「何も聞きたく無い。ましてや言い訳や嘘の上塗りをするんなら本当に許さないぞ。お前らが俺に言うべき言葉はI'm sorryしかないだろう?」と言った。

 自分は、トレッキングの要領は掴めていたしトレッキングパーミットは紛失したと言って次のチェックポイントで幾許かの金を払って再発行して貰えば良い事も知っていた。
だからこの先は一人で行くつもりでパッキングをし直していた。
幸いな事にピッケルや重たいクライミングの道具類はナラバードルが持って既に出発していた。

 ナーランが自分を部屋の外に連れ出し小声で「ドルジの悪い所はポカラに着いたら会社に連絡する。ドルジも拙い事をしたと思って反省しているので許してやってくれないか」と言った。

 自分は返事をせずに部屋に戻り無言で寝袋を押し込んでいた。
突っ立ったままそれを見ているナーランとドルジに「今までの日本人は知っていても黙っていただけで誰一人として騙された奴なんか居なかったんだ。何故黙っているか分かるか?争いたく無いからだ。たぶん、ここはお前達の国だから怒らせたら厄介な事になりはしないかと怖れたのだ」と言った。
「ネパールのトレッキングに来る日本人はお金を持っている人が多い。だから、少しのお金の事で揉めるよりは黙ってやり過ごしてしまう。しかし、嫌な思いをした人は日本に帰ってから悪口しか言わないだろう。ネパール人は最悪だ、と・・・どう思う、ナーラン」と問いかけた。
「俺が聞きたいのはI'm sorry, I do not say lie anymoreだ。ドルジが俺にI'm sorry,と言ったら一緒に行くが、それが嫌ならお前らとはさよならだ」と強く言った。

 結局ドルジは謝らなかった。
お前は誤解している、と繰り返していた。
自分は Buddha watches you. understand? と怒鳴った。

 ナーランが躊躇いながらダッフルバッグに荷物を詰めていた。
そして「俺はポカラまで案内するよ」とドルジの顔を見た。
ドルジは何も言わずに部屋を出て行った。

 ナーランがダッフルバックを背負ったのを確認してピサンの宿を出た。
ドルジが後から着いて来るのが分かったが無視して歩いた。

 ピサンピークへ登っている時に西の方に飛行場が見えていたのがフムデの村で、トレッカーのチェックポイントが有り、そこを目指した。
小さな飛行場はポカラからの定期便と、チャーターのヘリなどが飛んでいるらしかった。
ピサンピークだけを目標にする場合はここまで飛行機かヘリで来てキャラバンを省いて体力の温存と言う手も使うとナーランが言った。
しかし、標高3280mのフムデまで一気に来てしまった時の高度順化は難しいような気がする。

 ピサンからフムデまでは急に500m程も下って登り返すきつい道だったが、途中で振り返るとピサンピークの全貌が見え苦にならなかった。
ピサンの村から見える穏やかな丸い頂上ドームとは違った山容で、鋭く尖った三角錐は紛れも無くヒマラヤの山であることを誇示していた。

 フムデが近づくとドルジが自分らを追い越して先に行った。
チェックポイントでの手続きをするつもりなのだろうと思ったが何も言わずに先に行かせた。
案の定チェックポイントではドルジが手続きをしていた。
そこで思い出した、そうだった、彼らもチェックポイントで証明書を貰わないと宿泊先で優遇してもらえないのだった。
ドルジは否が応でも付いてくるしか無かったのだ。
いや,実費で宿に泊まりバス代を払って帰るつもりならそれも可能だったが、110ドルをくすねるのに汲々とする奴だからそんな金は出さないだろう。

 休憩で茶店に入ったら様子を見て、あの話しは有耶無耶のままに今後の予定の確認をしてみるかと思っていた。
しかしドルジはチェックポイントを出てからも一向に休む気配も無く、フムデの街は間もなく終わろうとしていた。
ナーランにこの先にも茶店はあるかと聞くと、もう無いと言う。
ドルジはさっさと先を歩いて行った。
嫌がらせのように歩き続けるドルジの態度に怒りが込み上げて来て「ドルジの糞馬鹿野郎、てめぇぶち殺すぞ、俺の前を歩くんじゃねぇ」と日本語で叫んだ。
自分の大声に何事かと立ち止まったドルジのもとに駆けて行き、襟首を捉まえ「俺がボスだ、パーミットを出せ、お前はクビだ」と英語で宣告した。
今にも殴り掛かりそうな剣幕に驚いたナーランが自分の腕を押さえてネパール語で何かを言ったが「ドルジ、てめぇは何を勘違いしてやがるんだ、ふざけんな」と日本語で怒鳴り続けた。

 ドルジが青ざめた顔でナーランに何か言っているがおかまい無しにザックを力づくで降ろさせ中から書類の入った袋を取り出した。
トレッキングパーミットを手にした時にドルジが「I'm sorry」と言った。

 書類の入った袋を突き返し「二度と逆らうな」とドルジの目を睨んだが奴の目は承服してはいなかった。

 気拙い思いで歩いてもアンナプルの山は見事だった。
ピサンピークが見える間は幾度も振りその度に同じような写真を撮った。
ナーランに自分を入れて写真を撮ってくれと言うとカメラの扱いを知らないからドルジに頼め、と言った。
それならいいや、と、カメラを仕舞おうとするとドルジが作り笑いを浮かべてカメラを受け取りシャッターを切った。

 八時に出発して三時間半歩き続けムジュと言う小さな集落でやっと昼食休憩をとれた。
昨日の今日なので足は疲れていたが標高が高く無いので呼吸は楽で済われた。
しかし、ナーランの調子が悪いようで大した登りでもなかったがムジュの手前から遅れ出した。

 ムジュの村に来て初めてヤクを見た。
もっと大きなものなのかと思っていたが意外と小さくて驚いた。
チベッタンブレッドと言うホットケーキの揚げパンのようなものに蜂蜜をたっぷり掛けて食べ、ミルクコーヒーを飲んでいるとドルジがやって来てリンゴを1個くれた。
「ドルジ、ヤクってあんなに小さいのか?」と問うと、「あんなのばかりじゃない、特にエベレスト街道の荷揚げをするヤクはとても大きい」と言った。
そして「来年は皆でアイランドピークへ行くのだからエベレストベースキャンプへ荷揚げするヤクのコンボを見られる」と言って笑った。
ドルジの前歯は歯が一本無くて笑うと間が抜けていて可笑しかった。
自分はリンゴを齧りながらドルジの間抜け面に釣られて笑ってしまった。
ドルジが「お替わりはミルクコーヒーか?ミルクティーか?」と言ってまた前歯の無い間抜け面で意味も無く笑った。

 自分には怒りや嫌悪を持続するのは無理だった。
そもそも、フィリピンでは散々騙されまくってこんな事は慣れっこなはずの自分が、たった110ドルでここまでいきり立つ必要も無かったなと思い始めるから良く無い。
豊かでない国の、隙あらば金をくすねようとする人にはこちらの甘い気持ちが読めるようで、怒りを解いたと思えばまた仕掛けて来るに決まっているのに。
しかし、ドルジの悪さや誤摩化しは取り敢えず治まって行った。

 12時半マナンの街に着いた。
三階の日当りの良い角部屋が取れた。
アンナプルナ3とガンガプルナが南側に迫って見えた。
ここのベランダからなら労せずしてアンナプルナと星空が撮れるかもしれないと期待した。
しかし、遠目には素敵なロッジに見えた宿はやはりネパール規格の宿だった。
宿の看板には「24時間ホットシャワーOK」と大きく書かれていたのだが、お湯は出なかった。

 マナンの街は大きくて開けていた。
街を貫く街道沿いには小綺麗そうなホテルが数軒並び、またパン屋や雑貨屋も見られた。

 ドルジもナーランも宿に着くなり居なくなった。
たぶん茶店でロキシーでも飲んで自分の悪口を言い合っているのだろうと思ったがそれは違っていた。
後で聞いた話しだが、ドルジが休憩も取らずに先を急いだのはマナンの街で選挙結果を知りたかったからなのだとか。
そしてマナンに着くなり彼らは茶店で選挙談義に花を咲かせ、ロキシーをあおって酔っぱらったのだった。

 マナンはこれから5416mのトロン・ラ・パスを越えるトレッカーが高度順化の為に数日滞在するので賑わう街だった。
人によってはこの先のヤクカルカ(4000m)やレダー(4200m)に登ってみて高度順化を試し、駄目ならマナンに戻って仕切り直しをする。
だからマナンはトレッカーで賑わい、そして潤っていた。

 部屋は陽が当たって暖かかった。
ティーポットで紅茶を貰い日記を書いていたら隣の部屋に客が入った。
女性の二人連れが男性と少し大きな声で口論気味に話しているのが聞こえた。
男はトレッキングガイドで、客の女性がガイドに苦情を言い、注文を着けている様子だった。
成る程なぁ~ネパールのトレッキングで客とガイドが揉めるのは普通の事なのかもしれないと思った。

 そうだった、今日の昼飯を食べている時にもトレッキングガイドがシンガポールからの客を捜していたっけ。
ナーランに事情を聞くと、ガイドと揉めた客が怒ってどこかへ消えてしまったのだとか。
そうか、嫌な思いをしながら歩いているのは自分だけじゃないのかと思うと少し嬉しくなった。
そう言う国民性なんだよな、ドルジが特別外れた訳じゃないんだ、ナーランのように人畜無害なポーターに当っているだけラッキーなのかもしれないと思えて来るから不思議だ。
人は、どうにもならない状況には目を瞑り、受け入れ易くする為に自分の物差しを短くするものなのかも知れない。

 日没前に宿は殆ど満員になっていた。
6時に夕食を予約してダイニングに行くと満席だった。
4人掛けのテーブルに男性二人が座っていたので相席を頼むと、あの、ドイツ人とポーランド人だった。
自分はピサンピークアタックをしていたのでまだこの辺りを歩いているのだが普通にトレッキングをしていたらとっくにトロン・ラ・パスを越えているはずだった。
聞けば、ポーランド野郎が高度順化が進まずトロンフェディーから引き返して来たとの事だった。
自分はポーランド野郎に「お前は俺のピサンピークアタックに、諦めも選択肢として大切だと言ったんだぞ。フムデに戻ってポカラ行きの飛行機と言う手も有るんじゃないか?」と嫌みを言ってやった。
ポーランド野郎が「面目ない」と言って笑った。

 ドイツもポーランドもあまりお喋りな方では無く会話は続かなかった。
自分はベジタブルカレーライスとオニオンスープを食べて部屋に戻った。

 7時に消灯し就寝。
写真を撮ろうと思って12時頃に起きたが中途半端な月が出ている上にマナンの街には街灯まで灯っていて諦めた。










 

 




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ピサンの村へ下山 No.14

2013-12-24 21:17:06 | ネパール旅日記 2013
 
 11月18日 月曜日 快晴

 ぐっすり寝た。
頭痛も無く、変な夢見も無く熟睡し、夜明け前に起きた。

 星空が撮れるかも知れないと思いカメラを持って外に出ると暖かかった。
僅かに1000m降りただけでこれほど違うのかと驚いた。
しかし、上の温度を知る前はここの寒さが堪えていたのだったが、この日の朝は少し強めに吹いている風さえ冷たいとは思わなかった。

 月の位置は変わっていたが明るくて写真を撮るのは諦めた。

 ヤクの糞とナーランが焚き付けに使っていた灌木の枝を折って来て焚き火を起こした。
何かをするつもりでも無かったが火を起こし、眺めていた。

 昨日のアタックの事を思い出そうとしていた。
しかし、ドルジに引っ張り上げられている場面や、足を滑らせてフィックスロープにしがみついた事などは直ぐに浮かぶのだが、どんな所を歩いていたのか、回りの景色はどうだったのかなどは殆ど覚えていなかった。
堅く締まってアイゼンが気持ち良く刺さる雪面と、ヘッドランプの光が映るような氷雪と、目の前のロープは確かに覚えている。
しかし他には、頭が痛かった事、苦しくて開いたままの口から涎が垂れていた事、鼻水を垂れ流していた事などが思い出されるだけだった。

 ナーランが起きて来た。
コーヒーが飲みたくてキッチンテントの石油コンロでお湯を沸かした。
薬缶に水を汲もうとしたらポリタンクの表面が凍っていた。
しかし少しも寒く無く、気分も冴えていた。

 そうか、慣れればこんなに楽なのかと、自分の高度順化は失敗だった事を思い知った。
昨日、二度と高所登山はやらないと思いながら死んだようになって降りて来たと言うのに、「この次は上手くやれそうだ」とも考えていた。

 ドルジとナラバードルも起きて来た。
ドルジが「具合はどうだ」と訊いた。
「食い物と燃料が有ればもう一度登りたい気分だ」と答えると「来シーズン、アイランドピークかメラピークへ行こう」とドルジが言った。
メラピークはテント泊が長いから数人で組んだ方が効率が良いが登るのは簡単で、アイランドピークはトレッキングでゴーギョピークやカラタパールを登って高度順化し易いし、アタックもフィックスロープがあって楽なもんだ、と言った。
「いつ頃がベストシーズンなんだ?」と問うと「来年の今頃だ」と答えた。
「あっちの山の方が格下だろう?もう少し手応えのあるのが良いな」と言うと「引っ張り上げる方の苦労も考えてくれ」とドルジが言った。

 返す言葉が無く黙っていたら「お前は強い、参ったと言わない強いクライマーだ」とドルジが取り繕った。

 「来年な・・・来年の11月な、多分来るよ、しかし、まだ約束じゃない、多分だ」と言うと、ナーランが「また一ヶ月のトレッキングとピークアタックを組めば良い。トレッキングガイドは俺が引き受けるから」と、さも行きたそうに言った。

 勢いと場の雰囲気で言ってはみたもののドルジに頼り切りのクライミングスタイルは不本意で自分の山ではないと感じていた。
登らせてもらった山としか思えない昨日のアタックに心底の喜びは湧いて来なかった。

 ドルジが「早く降りてシャワーを浴びて髭を剃ろう」と言って飯の支度に掛かった。

 ひと仕事終わった安堵感が皆にあるのか、飯の後の動きが緩慢で、キャンプを撤収して歩き始めたのは9時過ぎだった。

 ドルジが思いの外真剣にゴミの片付けをしていたので冷やかすと「次に来た隊から彼奴らは後始末が悪いと言われるから」と言った。
しかしドルジは集めたゴミを大きなビニール袋に入れ、キャンプの位置からは見えない谷底に向かって放り投げただけで、要するに見えなくするのが後片付けなのだった。

 歩き始めから呼吸が楽で足が軽かった。
急な斜面で足を滑らせないよう、慎重に降りるナーランを尻目に自分は軽快に降りた。
ドルジもナラバードルも追い越し小走りで降りた。

 目の高さの少し上にあった向かい側のアンナプルナ山群が随分と上に見えるようになった頃、ピサンの村が眼下に見えた。

 刺だらけの痛い灌木帯が終わりヒマラヤ杉の樹林帯に入ると亜熱帯の陽射しが照りつけた。

 つくづく恐ろしい高度差だなと驚く。
昨日は極寒の雪氷を歩き、今は亜熱帯の陽射しに焼かれる・・・ネパールって凄い、と。

 ピサンの村には11時少し過ぎに着いた。
いつもの日当りの良い三階の角部屋に荷物を放り込んでシャワーを浴びようと下へ行くと宿の人がシャワールームで洗濯をしていた。
仕方が無いので水しか出ない三階のシャワールームへバケツでお湯を運び浴びる事になった。
しかし、左程大きくも無いバケツ一杯のお湯では満足な行水にはならずなんとなく汗が流れたか?で終わってしまった。

 ドルジが二階の水シャワーを浴び、髭も剃ってさっぱりしていた。
ダイニングに行きビールを日本頼んだ。
相当不本意ではあったが案内したガイドが「ここがサミットだ」と言ったのだから素直に登頂したと認め封印していたビールを解禁する事にした。

 封印したビールは、登頂成功ならピサンの村で、失敗なら次の目標のトロン・ラ・パス(5416m)を登り切ってからと決めていた。

 ナーランが、登頂成功おめでとうと言ってグラスを掲げた。
ドルジも、お前はよく頑張ったと言って肩を叩いた。

 ビールは思った程美味く無かった。
もっと感動的に美味くて絶句する予定だったのに、拍子抜けする程に美味く無かった。
これは埃を被って棚に並んでいるビールが古くて不味いのだろうと思ったが、ドルジは喉を鳴らして美味いと飲んでいた。
北アルプスや南アルプスの3000mオーバーで飲んだビールは美味かった。
だから標高のせいではないと思うのだが、見事に不味かった。

 夕食の時にダイニングに集まった他のガイドやポーターからアタックの様子を訊かれた。
あんまり良く覚えていないと言うと、一人のガイドが「朦朧としたまま登ったのか?」と問うので「朦朧と言う程ではないが見ていたのは氷雪面だけで、稜線に出て初めて自分の位置を知った」と答えた。
すると「雪面を登ったのか?」とドルジに聞いていた。
ドルジは詳しい事は言わずに「YES」とだけ答えて話しは終わった。

 6時半、寝袋に入りベースキャンプからアタックキャンプ、そしてピークアタックと思い出しながら日記を書こうとノートを開いた。
だが断片が思い浮かぶばかりで、しかも脈絡が無く日記にならなかった。

 思いつく事をメモ的に書いているうちに眠くなり、7時半消灯。


 

 



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ピサンピーク アタック No.13

2013-12-23 10:35:08 | ネパール旅日記 2013
 ドルジががさごそと起き出した。
もうそんな時間かと時計を見るとまだ0時30分だった。
寝袋の顔の回りとテントの内側もバリバリに凍っていて寝袋から出るのが躊躇われた。

 寝る時の服装は、厚手のウールの下着上下、登山用の厚手のシャツ、厚手のフリース、分厚いダウンジャケット、裏フリースのクライミングパンツ、ダウンパンツ、厚手の毛の靴下、ダウンシューズ、毛糸の帽子、毛糸の手袋を着用して寝ていた。
だから寒くは無いのだが、寝袋から出てクライミング用に少し薄着にならなければならないのが億劫だった。

 自分は起きたと言うよりも寝ていなかったと言う方が正しいくて、頭痛で眠れずに朝を迎えていたのだった。
寝ている間に悪化する典型的な高山病の症状で、拙いなと思ったがまだ薬も飲まずにいられる状態なので初期段階だと判断してアタックは、行ける所まで行ってみる事にしてドルジに「頭が痛いけど行くからな」と声を掛けた。
「OK2時に出発だ」とドルジが言った。

 起きては見たものの全身が怠く少し吐き気もして来た。
吐き気は良く無い症状で、食べたものを吐くようだと高山病も中程度と判断しなければならず、対処方法は「下山」しかなく、アタックは中止だ。

 ドルジがミルクコーヒーと別のカップにお湯をくれた。
フリーズドライのお粥の袋にお湯を注ぎ寝袋の中に入れて待った。
ビスケットを一口かじりミルクコーヒーで流し込んでみたが、吐き気は強くならず呑込めた。
よし、お粥が食べられたらアミノ酸のサプリを飲んで出掛けようと、少しやる気も起きた。

 お粥は半分しか食べられなかった。
幾度が呑込んでいくうちに吐き気が強くなりそれ以上食べられなくなった。
行ける所まで言ってみよう・・・ヒマラヤの氷の感触を確かめたら降りよう、と、登頂の意識は無くなっていて、身体の怠さが弱気を誘っていた。

 吐く息が凍り付いたテントの中でコンロを二台も炊いたのでそれが溶けて水滴が落ちて寝袋を濡らした。
ドルジに、戻ってからパッキングするから乾かしていこうと言うと「どんな状態で戻って来るか分かっているのか?パッキングなんかする気力は残っていない」と言われ、のろのろとした動作で嫌々ながら、寝袋を畳み始めた。
見かねたドルジが、どれ、と言ってわさわさと寝袋を袋に詰め、その他の散らばっている小物を集めてくれた。
ドルジは一通りパッキングをすると自分のザックに水や少しの食料を入れ、予備のスリングやカラビナなどを確認していた。
そして、ナッツのチョコレートを二枚手渡しながら「これをポケットに入れて時々食べると良い」と言った。

 1時30分過ぎ、ハーネスを着けヘッドランプの明かりを頼りに歩き出した。
月が出ているので明るく感じるが足場が良く無く、小さなデコボコにも注意したい所なのでヘッドライトは欠かせなかった。
ドルジのはとても強力で眩しい程だったが、自分は電池を新品に替えるのを忘れていた。

 大岩まではガレた岩場で傾斜も緩かったが既に呼吸は苦しく、歩き出してすぐから喘いでいた。

 大岩を回り込むようにして左側が落ちているリッジに出る。
ドルジがここでロープが欲しいかどうかを訊いて来た。

 まだだいぶ岩だらけの所でアイゼンを着けた・・・いや,着けてもらった。
大した風ではないのだがそれでも風が体温を奪うのか、指先と足先は冷たかった。


 岩と氷のミックスで足下が覚束なくなっていたのだろうか、確かに左側に落ちればアウトだが、フイックスを張る程でもなく下りで転んでも転がり落ちるとは思えなかったのでコンティニュアスで行った。
ドルジの張り気味のロープが時折自分を引っ張ってくれていた。

 ドルジは岩を避けなるべく雪氷だけの所を選んでいるようでやがて岩が無くなった。
それと同時に傾斜も増してきた。
自分の歩みが止まるとドルジはロープが伸びるまで登っていき、ピッケルを刺してアックスビレイをとって自分も休んでいた。

 ドルジも余計なことを言わなくなり二人とも無言で歩いた。

 少しして、ここで休んでいてくれとドルジが言った。
フィックスを張りながら行くのでスノーバーを打ってビレイが出来るまで待てとの事だった。
ユマールをセットして待ち、張り終えたらロープを引くから登って来いと言ってドルジが雪面にステップを刻んでいった。

 水を飲みたかったが持って行かれてしまった。
ポケットにあったゼリー状のアミノバイタルを飲んだ。

 休むと頭痛が激しくなるようだったが吐き気は治まっていた。
自分は頭をを抱え込むようにして風を避け目を瞑って半ば眠るようにして休んでいた。
どれほどの時間が経ったのか分からなかったが寒さを感じて来た頃にロープにテンションが掛かった。

 ロープが張られ転んでもピッケルを使う必要がなくなったのでカラビナに挿して腰にぶら下げたのだが、それが微妙に足に当たり不快だった。
痛いとか、歩き難いと言う事では無いのだが、ピッケルの先が右脚のふくらはぎに当るのが気になって嫌だった。

 右手でユマールを手繰って登っていたが傾斜が急だとユマールに頼ってしまい腕が棒のようになって来た。
握力が無くて使えない左手が恨めしかった。

 涎も鼻水も垂れ流しで登った。
多分、一歩と呼べる歩幅は無く、アイゼンを打ち込もうにも足が上がらず、数センチか多くても数十センチずつの登攀であったと思う。

 風に晒された雪面は完全な氷になっていてアイゼンの爪が刺さらない。
出来れば左手でユマールを引き右手でピッケルを刺したかったのだが、ここでも左手が使えない事が仇となった。

 一度転んでロープに助けられた。
この時右脚のふくらはぎを左のアイゼンで刺したらしいのだが痛みは感じていなかった。
穴が開いて血が出ているのを見つけたのはピサンの村で着替えた時だった。

 傾斜が急になるとユマール頼りでないと身体が支えられず、また登ろうにも足では登れずユマールを引くしか手は無く、腕力はいよいよ限界を感じていた。

 ドルジは二本目のロープを張って登っていた。
今回持って来たロープは650mと言っていたが、下の方で使わなかったので殆ど頂上まで大丈夫だろうとドルジは言っていた。

 登るのを止め、休みの体制の時はユマールに全体重を掛けるので腕は解放されるが足は狭いステップに置いたままでふくらはぎに力が掛かって歩くよりもきつい場面が有る。

 ユマールに身体を預けて横になりたい衝動に駆られた。

 上を見なかった。
見ても山頂は見えないし、どうせ残の距離を見てうんざりするのが落ちだから上は見なかった。
まだ明けていない空の下でも自分の居る位置の高度感がひしひしと伝わって来て肝が冷える。
落ちたら終わりだな、と思う反面、落ちたら楽になれるなと妙な事も思い浮かんだ。

 日本の冬山の経験はそれなりに積んで来たつもりだったが甘かった。
アイゼンが刺さらない固い氷の上は歩いた経験が無かった。
しかも、この傾斜で前爪を蹴り込む場面など想像もして来なかったのは甘かった。
それでもドルジの踏んだステップが有るから登れたが、自分がトップだったら尻込みして諦めていた。

 ここに色々書いているが、実際に登っていた時には何も考えていなかったと言って良い。
これは回想であり、半ば想像に近いかも知れない。
あの時の自分は鼻水と涎でぐしゃぐしゃの顔をして、手袋で拭った鼻水と涎が凍り付いたまま、機械的にユマールを引き無意識に足を上げていたのだ。

 もう限界だなと思っていた時、ドルジがフィックスを伝って降りて来て「サミット」と言った。
そして「どうする、行くか?」と問いかけて来た。
自分は返事をする気力も無く、ただ足をワンステップ上に運んだ。
ドルジが戻って来たと言う事は殆ど終わりだと言う事は頭で理解していた。

 夜明けが近かった。
少し空が白み始めると逆に周囲は暗く感じて見え難くなる事が有るが足下はよく見えていた。
出来れば夜明け前に登り切り、眩しくなる前に岩場まで降りたいと思っていたが予定より相当時間を食っていてそれは無理だった。
サングラスを紛失したのでカトマンズでゴーグルを買ったのだがこれが安物で曇って使い物にならないのだ。
だから雪面で太陽は浴びたく無かった。

 ドルジが自分に言ったアタックの時間は5時間だった。
頂上から2~3時間で10時にはハイキャンプに戻り、そこから2~3時間でベースキャンプに戻る予定だった。
ドルジ曰く、アタックの後の下山は足が笑って思うようなスピードで下れないから余裕を見なくちゃならないのだと。

 少し傾斜が緩んだと思ったら両側が抜けて見え、稜線に出た。

 風が強かった。

 そこから緩い傾斜を登って「ここがサミットだ」と言って握手を求めて来た。
後で考えた事だが、どうやら尾根からまっすぐ来るルートではなく脇の雪面から登ってクロスして稜線に出たようだが、その時はそんな事はどうでも良かった。
そして、正直に言えば、尾根の先にもう少し高い所が有ると見えるのだが、それも見なかった事にしてドルジの手を握った。

 ドルジは預けていたカメラを取り出し鼻水と涎が凍る自分の写真を撮った。
そして感激に浸る間もなく「降りよう」と言ってドルジが急かす。
言われなくても一刻も早く降りたかった。
頭痛はとっくに限界を超え、脳味噌が波打っているのじゃないかと思う程心臓の鼓動に呼応して痛んでいた。

 ドルジが言った「さっさと降りないと氷が緩んで今の斜面から降りられなくなる」と。
下降点に戻ったところで半端に打ち込んであったスノーバーをきっちりと打ち込み、ドルジがエイトカンを掛けた。
自分はクライミング用のバケツにロープを通したいのだが手袋をしたままではそれが出来ずドルジにやってもらった。
動きが緩慢でドルジに手伝ってもらわないと何も出来ない自分が情けなかった。

 下降は早かった。
しかし、足がもつれるのも下降の時で、何度かロープにぶら下がった。

 下降の途中の雪面で朝日を浴びた。
実際はアンナプルナの方が2000mも高いのだが、それぞれの峰は自分の目の高さに有った。
しかし、景色を楽しむ余裕は無く、もつれる足が自分のアイゼンで足払いを掛けない事に神経を使った。
しかも、下降中はずっと下を見ていないと危ないので登りよりも気が張るのだった。

 ドルジがスノーバーの最後の一本の所でそれを引き抜きフィックスロープから外してザックに括り着けた。
スノーバーを一本土産に持って帰るから確保してくれと言ってあったのを覚えていたらしい。

 ここでやっと「水をくれ」と言えた。
ドルジのザックには自分のテルモスが有って、それにはミルクコーヒーがほど良い熱さのまま入っていた。
最初の一杯を飲み干してドルジに回すと奴は立て続けに二杯飲んだ。
こう言う奴なのだ。
この神経が嫌なのだが、クライマーとして、ガイドとしての腕は超一級なのは認めざるを得ない。
悪気は無いのかも知れないが、時に考えられない程の無神経さを見せるのが堪らない。
残のミルクコーヒーを全部飲み干しチョコレートも一つ齧って岩の混じるミックスの稜線に出てショートロープを結びドルジが後ろに回った。

 猿回しで暫く歩いた。
いや,歩いたと言うよりも転がり降りたと言う方が正しい。
足がもつれまともに歩けないし、なによりも頭が割れそうに痛くて死にそうだった。
標高を下げたら良くなると言われる高山病だが5000mよりもっと下まで降りないと効果は無いのかも知れない。

 ここで死んだら楽になれるな、と本気で何度も思った程に辛かった。
しかし、その辛さと極限の中で耐えている「カッコイイ自分」に酔うのも自分なのだ。
死ぬ程辛いと言っておきながら何故に山に登るのか?と言う問いの答えは、自分に関しては「辛さに耐えている自分に会って酔いたいから」と言うのが正解のような気がする。

 ドルジが後ろからロープを引いてくれていなかったらたぶん膝が折れてまともに歩けなかっただろうと思う。
自分よりも重い荷物を背負い、高所の雪面にフィックスロープを張る仕事をし、疲れ果てた客をロープで支えて降ろすドルジの体力は底知れないものだと思った。
そして、余りにも不甲斐ない自分の姿に涙さえ溢れるのだった。

 「ドルジー水くれ、水」と言ってペットボトルに入っている甘過ぎるジュースを飲んでは立ったまま暫く休むを繰り返し、大岩に続く緩いリッジを通過した。

 大岩を回ったらテントが見えるはずなのに見えなかった。
「ドルジ、テントは?」と問うと「ナラバードルが背負って降りた」との事だった。
「なんだとぉ、テントで一休みするんじゃなかったのか?」と落胆と怒りを込めて言うと「昼飯はベースキャンプだって言っただろう」となんでも無い事のように言う。

 自分はハイキャンプで一休みできるものと決めて気持ちを持たせて来たので休めないとなったら一気に萎え、歩く気力は完全に失せてしまった。

 ハイキャンプは何も無く、自分の荷物もナラバードルが背負って降りた様子だった。
ビニール袋に入った水が少し置いてあったのは彼の気遣いだったのだろう。

 ドルジに「ハーネスを脱いで座って小休止をさせてくれ」と言うと「全部外して身軽になって降りろ」とクライミングの道具を全部ザックに入れた。

 登りも遅々として進まなかった急斜面のザレ場とガレ場もドルジの猿回しを受け、後ろからロープで引いてもらって降りた。
誰かに見られたら恥ずかしい、クライマーとしては誠に不甲斐ない姿態であったが、しかし、転がり落ちたら1000mは行くなと言う斜面なのでそうせざるを得なかった。

 陽が昇り風が止み暑くなっていた。
クライミングジャケットとフリースを脱いだがそれでも暑かった。
しかし、もう身体に水分が無いのか汗は全く出なかった。

 這々の体でベースキャンプに辿り着いた。
口を利く気力も無く、張られていたテントに倒れ込むとテントの中には自分の寝床が拵えてあり、マットの上に乾いた寝袋が広げてあった。
クライミングシューズを脱いで横になると、ナーランが熱いミルクコーヒーとビスケットを持って来た。
「スープヌードルを食べるか?」と問うのだが「今は兎に角眠りたい」と言うと、高山病で昼間寝ると悪化する事が多いから少し我慢した方が良いと言った。
寝るなと言われても身体が自然に寝てしまうよと言いかけてはたと気が付くと頭痛が消えていた。
4200mまで降りた効果は覿面で、高山病は消えてしまったようだ。

 大した時間も眠らずに起きた。
キッチンテントに行くと「登頂おめでとう」とドルジとナーランが言って皿にいっぱいのポップコーンをくれた。
そしてテントの中には大きな石油コンロが置かれていた。
ガスを買って来ようとしたがピサンの村には売っていないので宿から石油コンロを借りて来たのだと言う。
空気タンクの付いた高所でも使える加圧式で火力が強く、ご飯を炊くので乗せられていた圧力鍋がしゅーしゅーと唸っていた。

 ドルジが夕食は何が良いかと尋ねるので、スープヌードルとライス、と言うと、卵が2個有るからフライドエッグはどうだと言う。
頭痛が治まってから猛烈に腹が減りご飯が食べたくて堪らなかった。
明日は下山なんだからあるだけ食べてしまおうと言うので缶詰を広げたら、あの美味いイワシが有った。
「これ俺のだからな、誰も食べるなよ」と全員に言い渡して飯の炊けるのを待った。

 ご飯が炊ける間に日記を書こうと寝袋に寝転んでいるとナラバードルがテントの中に入って来て自分の寝袋に潜り込んだ。
最初は何をやっているんだろうと訝しく思ったが、ああ、成る程と合点がいった。
ナラバードルは明日ピサンの村に泊まった後は自分らと別れて一人だけ登山道具を背負ってベシサハールからカトマンズに戻るのだった。
それで明後日の朝も早立ちするのでチップを貰いたいのだが言葉も出来無いので態度で示しているのだなと思った。
ナラバードルに2週間分のボーナスとして5000ルピーを手渡した。
嬉しいのか、不満なのか、何れにしろあまり反応はなかった。

 日暮れ前にフライドエッグと缶詰の豪華な食事をして日没とともに眠った。






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ハイキャンプ へ No.12

2013-12-18 15:10:29 | ネパール旅日記 2013

 11月16日 土曜日 快晴 強風

 なんだコイツらは、と言う時間に寝袋から起き出した。
とっくに目覚めていたのだが、夜明け前に何度もトイレには出たがその度に寝袋に潜り込み、また寝るのだった。
結局寝袋から出たのは8時頃で、完全に陽が昇ってテント内が暖まってからだった。
キッチンテントのナーランも様子を見計らっていたのか同じタイミングで起きた。
上に持って行くのはこのテントだけなのだからここが片付かなければパッキングも出来ないと言うのに、今日は標高差1100~1200mを登る事を考えれば楽なはずは無いのだが。

 昨夜、撮りたいと思っていた雪山の背景に星空を置いた写真に挑戦したが満足の行く写真は撮れなかった。
折り悪く満月だったのだ。
新聞が読めるのじゃないかと言う満月の明かりで星が消えてしまい夜空に見えないのだ。
時間をおいて月の位置が変わってからもやって見たが冴えない写真にしかならず落胆した。
まだ日にちは有るし、チャンスは有るだろうと早々に諦めた。
深夜に何度も外に出たが風が収まって寒くは無かった。
寒さを感じるのは実際の気温よりも風だなとつくづく思った。

 ドルジがパンケーキの朝飯を用意してくれた。
ただ赤くて甘いだけのネパールのイチゴジャムは好きではなかったが、素焼きのお好み焼きのようなパンケーキはジャムを付けないと食べられなかった。
無いのを承知でブラックティーをくれと言うと、はいよ、と、ブラックコーヒーをドルジが手渡した。
ドルジが居なければ1ミリだってピサンピークの頂上に近づけない事は承知しているが、しかし、時々殴り掛かってやろうかと思う程に腹がたつのも事実だった。

 キッチンテント中の入り口に20リットル程の水を入れた大きなポリ袋を置いたのだが、それが半分凍っていた。
ナーランが地面からの冷気が冷たくて眠れなかったと言っていた。

 相変わらず景気良くガスを炊き続けるドルジだったが、ナーランに「ガスカートリッジはハイキャンプで使い切るだろうからピサンの村に下りてガスを買って来てくれ」と言っていた。
そして、その料金を自分に負担しろと言って来た。
それは話しが違うだろう、キャンプ道具の見積もりはお前のボスがやった事で、登山中に必要なもののレンタルと購入経費として既に支払ってあるのだから、足りなくなったのは見積もりのミスか、使い方が悪いか、兎に角俺の負担はおかしいと主張した。
ドルジが「ヤクの糞をテント内で燃やすのは構わないが、それでのクッキングには時間が掛かるぞ、大変だぞ、少しの金をセーブして苦労する方を選ぶか?」と、半ば脅迫のように言って来た。
結局2000RPをナーランに持たせて、自分らがハイキャンプに行っている間にピサンの村で買って来る事になった。
序でにナーランは、今夜は宿に泊まって明日の昼前に戻っている事になった。

 飯を食い終わりパッキングを始めたが、ナラバードルが籠に20リットルの水を入れたらロープやクライミング器材の一部がが入らなくなった。
何が入らなくても絶対に自分が背負うつもりは無いと知らん振りをしていたが、テントのフライシートだけがどうしても余ってしまい、仕方が無いから自分のザックの雨蓋に挟み込んだ。
大した重さの物では無いのだが1グラムでも軽くしたい自分の心には、とんでもない重さに感じるのだった。
そもそも、俺が楽する為にポーターは居るんじゃなかったか?と大きな疑問が浮かぶのだが、自分のザックの中には相当のクライミングの金物も納まっていた。

 出発前にドルジが空になった自分のテルモスに熱いオレンジジュースを入れてくれた。
自分が一度沸騰した水しか飲まないのを心得ていて少し冷めたものをペットボトルにも入れてくれた。
こう言うのを見ると、ドルジって凄く細やかな気遣いの良い奴なんだと思ってしまうが、これが小銭が絡むと殴りつけたくなる奴に豹変するからネパール人は良く分からない。

 出発は10時過ぎになった。
ドルジがランチはハイキャンプで食べると言うのだが、この高地で1200mを2~3時間で登れるはずが無いだろうと言うと、少し遅くなってもハイキャンプでテントを張らないと飯は食べられないからと言った。
言っても何の役にも立たない事を承知で「だったらこ何でこんな時間の出発にしたんだ」と、声を荒げて言った。
ドルジがビスケットとチョコレートを自分に手渡しながら、腹が減ったらこれを喰っていけば良いと言った。
明日には大事な山頂アタックを控えているのに、ガイドとの信頼関係は最悪に成りつつあった。

 出来る事なら一人で荷物を背負って、お前ら全員帰れ、と言いたかったが、それは出来無いので黙って歩き出した。
ドルジが二三歩遅れて後に着いていた。

 昨日の登りは辛かったが、今日の登りは想像以上だった。
傾斜が急で、しかも足場がガレ場やザレ場な事もあって慎重に歩かなければならない箇所も多かった。
登りは良いとして、ここを下るのも緩く無いよな、と思いつつ上を見ると、延々とそんな岩場が続いている。
ピサンピークのドームは随分大きくなったが、距離感が掴めないので、近いのか遠いのか想像がつかなかった。
昨日の100歩数えて進み、10呼吸休んだら歩き出すを今日もやっていたのだが、100歩行く前に立ち止まってしまうようになり、目標を80歩にして、また70歩にしてと、殆ど休んでいる事の方が多い有様になっていた。

 今日は昨日程水を欲せず、テルモスのジュースも残っていた。
そうなるとザックのたった1リットルのペットボトルの重さが気になり、ドルジの野郎が余計なものを持たせやがって、と、八つ当たりをして自分の不甲斐なさを誤摩化していた。

 振り返ると叩き落ちそうな急な道の下にマルシャンディー川の谷を挟んで、ほとんど自分の目線の先にアンナプルナの山群が見えた。
そして、西の方にはピサンピークから続く5000m級の稜線が見え、それはチュルーイーストに伸びていた。

 しかし、景色を見た記憶が有るのもこの辺りまでで、たぶんあの岩の向うがハイキャンプだと確認できる高度から先は苦し過ぎて足下しか見ていず、また景色を見たとしても記憶にとどめる余裕は微塵も無かった。

 鼻水がやたらと垂れるのだが、拭う事もせず流れるに任せ、時々ドルジの真似をして掴み鼻をした。
しかし、余計な動作をすると途端に息苦しくなり、機械仕掛けのように、しかしそれは至極緩慢な動作で足を運ぶしか無かった。

 日本の山でも、重い荷を背負っていたり深雪のラッセルに苦しんでいる時など「何でこんな苦しい思いをしてまで山に登るんだろう?」と思うのだが、この時は、苦しいと言う思いよりも、ここでこれだけ苦しいのに明日はまだ上を目指すのかと、今よりも明日の苦しさを怖れていた気がする。

 にじり歩くとでも言うのか、一歩の歩幅が自分の足一つ分なんてとても踏み出せず、数センチなのか、十数センチなのか、と、言う感じで進んでいく。
地図で読んだ距離は2キロも有るのかどうか。
2000mで1200mを登ると言う事は、傾斜は60度になる計算だが、実際はジグを切ってあるので距離が伸びて傾斜は緩んでいる。

 自分を追い越して先に上がったドルジが荷物を置いて降りて来た。
すぐ目の前に見える大きな岩を指差し、あれの裏がハイキャンプだと言った。
そして自分のザックを引き取り、背負って登り始めた。

 何だよ、もうほとんど目の前じゃないか、もっと早く来いよな、恩着せがましく荷物なんか背負いやがって、と、声に出さない愚痴を言った。

 空身は軽くて、まさかと思う程に足が前に出る気がした。
しかし、それは気持ちの錯覚なのか、すぐ目の前に見えていた岩までも中々辿り着かなかった。

 PM1:30 ハイキャンプ到着。
テントはすっかり張られ、ドルジ岩で囲った竃にガスンロを据え、昼飯の準備を始めていた。
ヌードルスープか、パンケーキかと訊いたので「チャーシューメンの大盛り」と日本語で言うと、ドルジが、チャーチャーモンモンとか適当なことを言って、インスタントラーメンを作り始めた。
そして、別のコンロでガーリックスープを作ってくれ、高山病に効くから飲めと言った。

 自分はこれが殆ど最後の食事で、夕食は自前のフリーズドライの赤飯を少し食べたが食欲が無く食べ切れなかった。
そして、この後頭痛と吐き気に悩まされ続けるのだった。

 アタックキャンプはピサンピークの南に張り出した稜線上だと思う岩棚にあって、なだらかにガレた岩の尾根が山頂に向かって伸びていた。
崖っぷちの岩棚に張られたテントは、足の先は石で囲ってあるけれども、その先は無く、寝ぼけて落ちたら確実にお終いと言う場所だった。
手持ちの時計が示す高度は、5400mだった。
西側はカールになっていて雪がつもっていた。
ドルジが言うには、水を背負って来ない隊は雪を融かして水を作るのだそうだが、数日前に降ったから豊富に有るが枯れている時もあって判断は難しいらしい。
しかし、フムデの方からならここの雪の状態は見えるのだそうだ。
ドルジはピサンピークに25回登っていると言うのは嘘だと思っていたが、本当なのかも知れないと信じ始めていた。

 ニンニクスープを飲み、ラーメンを食べたら頭痛も幾分良くなって、ドルジがフィックスロープを張りに行くと言うので付いていく事にした。
ドルジはクライミングシューズだけでアイゼンは付けずに岩場を行くと言って登っていったが、自分は折角だからヒマラヤの雪を踏みたいと思い、アイゼンを付けスノーバーを二本と置いていった短い方のフィックスロープを持って雪面を登り始めた。
歩き始めてすぐ、あまりの息苦しさに登る気力が萎えてしまった。
ドルジがロープを担いで驚異的な早さで登っていくのを見送ってテントに戻って寝袋に潜り込んだ。

 ドルジは夕暮れ時に戻って来た。
「ドルジ、息切れしないのか?」と訊くと、8000mまでは無酸素で動けるのだそうだ。
「8000mでフィックスロープを張ったり回収したりできるのか?」との問いに、それが出来なければエベレストには選ばれないと言った。
ドルジの今回のサラリーを知っているだけに、大変な役割だな、と、またドルジが凄くて良い奴に思えて来た。

 ドルジが、岩の裏側は岩と氷のミックスになっていてブルーアイスが見事だ、あれだとアイスハーケンか、ロックハーケンのどちらかが無いとロープが張れないと言い出した。
そんなものは無いし、6ミリのロープスリングがたくさん有るから岩に巻いて固定すれば良いだろうと言うと、ここの岩は脆くてスリングの固定は出来ないと言った。
だったらロックハーケンも打てないだろうと言うと、アイススクリューが無いと駄目だと言い出した。
自分は現場を見ていないのに議論しても無駄だと思ったので、俺は登るからな、と言って話しをやめた。

 流石にこの標高では米は炊かないようで、自分達の夕食用にパンケーキを焼き始めた。
ドルジがパンケーキで良いか? ヌードルスープが良いか?と訊くので、自分の分はこれが有るから要らないと、フリーズドライの赤飯を見せた。
すると、それは美味いんだよな、ビーンズの入ったライスだ、と、尾西のフリーズドライを知っていた。

 フリーズドライはお湯でも水でも食べられるのだが、お湯で15分のものが水だと1時間掛かってしまう。
そして、熱い方が断然美味しい。
6000mの高地では理論上お湯は80度にしかならない。
そして、日が陰ったテントの中はガスを炊いていても急速に寒くなっていて、160ccのお湯はあっという間に冷めてしまいフリーズドライの米を美味しく食べるのは無理なのだ。

 食欲が落ちている時の切り札のつもりだったが、アルファー米にも苦手な状況が有る事を知ってガッカリした。
それでも、添付のごま塩の香りは食欲を幾分か盛り返し、明日の為にと無理して食べた。

 少しずつ激しくなる頭痛に眠れそうも無かったが、明日は午前1時に起きるとドルジに言われ、6自前には全員が寝袋に入った。
 
 ヘッドライトを消して5分後には二人ともニンニク臭い鼾をかいて快眠していた。




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