じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

南風のたより

2020-03-27 17:30:18 | 南風の便り

南の島の話 2004年 第9号
遠足・No.6 サンカルロス〜ビクトリア


ヴィクトリアへ・・・

1泊2日、全行程700キロメートル以上。
初めて訪れた外国の地名と位置関係を正確に記憶しておくと言うのは私の記憶力では不可能なようです。
今回の旅行の行程でギホルナンから先はすべて未知の場所でありまして、どこで何を見たものやら、判然としなくなっています。
写真を見てもサトウキビ畑などは何処もいっしょの風景で、これがバイスだったか、サンカルロスだったか、ヴィクトリアだったかと区別がつかない写真も有ります。
フィルムの前後の関係からそれ程大間違いは無いとは思いますが、万が一の場合は御愛嬌と言う事で御容赦下さい。

それにしても、メモくらい取れば良いものをと今さらながらに反省しきりでございます。
言い訳をすれば、朝からビール漬けの脳味噌と、これでもかぁーと言わんばかりの暑さの中ではメモさえ面倒だったのであります。

さて、サンカルロスは港町と言えば港町、田舎の市場町と言えばそれでも良いし、取り留めの無い地方都市でありましたが一つだけ特別目を引くものを見つけました。
これぞネグロスオリエンタルとオキシデンタルを分ける確かな証と言うものを見つけたのであります。
オートバイの脇にサイドカーを付けたものを「トライシクル」と言い、市民の普段の足としてフィリピン各地で活躍していますが、そのトライシクルの型にネグロス西州とネグロス東州の決定的な違いを見つけたのであります。
オリエンタル型はドゥマゲッティーなどで走っている、バイクと側車を一体として屋根をかけ、正面から見ると軽自動車よりも幅広の車のようになっているタイプです。(写真はネグロスの旅No1にあります)
方やオキシデンタル型は完全なサイドカータイプで、バイクには屋根が掛かっていない事が大きな違いです。
このタイプだと乗れる人数もオリエンタル型よりも少なくなると思います。
セブ島のカルカル辺りではバイクの後ろに客車をくっつけた4輪型も有るので地方型バリエーションは多いのかも知れません。
セブ島の一部は急勾配、急カーブの道が続くので側車型は不利なのかも知れません。

トライシクルは通称パタパタと言い、ドゥマゲッティーでは市民の足として欠かせない存在ですが、大都市では交通渋滞の元凶と言われ消えつつあります。
セブシティーでは大通りは走れなくなり、裏通り専門に走っています。
しかしそれでは稼ぎにならないので多くのドライバーが廃業しているようです。
この型のトライシクルはオキシデンタル州の全部で見られました。

ネグロスオキシデンタル型トライシクル

シュガーアイランドと言われるネグロス島ですが、その名の発祥はヴィクトリアのようです。
ヴィクトリアにはVicmico(Victorias Milling Company)と言うフィリピン最大の製糖工場がります。
製糖工場のある街のどこもが工場城下町として発展した様子が見えます。
工場周辺の雰囲気も似ていてアカシアの並木と古い工場の施設と入り口のゲートと、形は少し違っても様子は殆どいっしょです。
広大な敷地の製糖工場ですがヴィクミコの工場はさらに大きく、敷地内が一つの街として機能しています。
敷地内には学校、銀行、病院、ゴルフ場や会社専用の飛行場まで有るそうです。
このやり方は福利厚生を考えた訳ではなく、まず労働者を雇い入れて社宅(小屋のような家)に住まわせ払った給料がまた会社に戻って来る、賃金の環流の仕組みを作っただけなのです。
借金の形に土地を取り上げるのが目的で金も貸していました。
この方法はフィリピン全土で小作人と地主の支配関係を築きあげるのに使われました。
一番規模が大きく悲惨だったのはミンダナオ島のドールのバナナ農園でした。
しかし、ヴィクトリアも砂糖産業の衰退につれて、市場とバスターミナルを中心にした新市街が別の地域に広がるようになります。

ヴィクトリアではサトウキビの運搬に蒸気機関車を使っていたのですが最近は走っていないようでした。
BOBOが言うには数年前から走る姿は見かけなくなったそうでした。
ヴィクトリアの郊外のサトウキビ畑から集積場までのレールの終点に赤錆びた蒸気機関車が停まっていました。
機関車の雰囲気からは動く気配は感じられませんでした。

赤錆びた機関車

サトウキビ工場は内部の見学が可能だと聞いていたので立ち寄ってみましたが、事前の予約が必要との事で入れませんでした。
すでに蒸気機関車が走っていないとすれば他に見るべきものも無いサンカルロスであります。
まあ、たった一度通り過ぎたくらいで大きな事は言えないのですが。

商売柄方位や距離には敏感なつもりでいるのですが、知らない土地の方向感覚と言うのは時に怪しいものです。
頭の中の方角が変だと気がついたのはヴィクトリアで見た見事な夕日のせいでした。
私はパナイ島の方角に沈む夕日に感激しつつ、在らぬ方向に沈む夕日に位置関係が混乱したのであります。
私はてっきり東に向いていると信じていたのです。

沈む夕日に送られたのか、出迎えられたのか良く分からないうちにバコロドの市内に入ったのでありますが、全体に道路が広く、整然とした雰囲気が有り、「ややややっ、むむむむっ、おおおっ」と言う感じで、ネグロスオリエンタル州とは違うぞと感じていました。

次回はいよいよバコロドの夕方から夜、そして深夜へと新たな展開を・・・まったく大した事はありませんが。



      やっとバコロド到着・・・しつこくもまだ続きます。

(2004年 4月 書きました)
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南風のたより セブへ行く

2020-03-11 16:30:18 | 南風の便り
セブへ行く

お客さんを迎えにセブに行く。
友だちと遊びにセブに行く。
役所に用事があってセブに行く。
この街では手に入らない部品を買いにセブに行く。

とにかく良くセブに行くのである。

セブは、少し前まで好きだった。
好きだったと言うよりも私のフイリピンの始まり、原点とも言える街だった。
フィリピン=セブのような日々が続き、舞台がドゥマゲッティーに移ったのは今から6~7年前の事だった。
当時の方がセブとの連絡は良く、飛行機でドゥマゲッティーまで来られたし、スーパーキャットやデルタキャット(高速船)の本数も多く、セブから直行便だったので時間的にも都合が良かった。

セブからドゥマゲッティーが最も近かったのは飛行機が飛んでいた頃だったろうと思う。
双発のプロペラ機で50人乗りのフッカー50が低空でセブ島の美しい海岸線をなぞるように飛んでいた。
この飛行機が廃止になった頃にスーパーキャットとデルタキャットの便数が増えたと記憶している。

その後デルタキャットは就航を止め、スーパーキャットも減便した。
しかもボホール経由ドゥマゲッティー行きになってしまい時間がかかるようになった。
デルタはダピタンまで走っていたと記憶しているが需要は思ったよりも少なかったのだろう。

そしてこの頃に現れたのがヴィハイヤーと称する小型バンによるシャトル便だった。
これはセブの街中のサウスターミナルからセブ島南端のリロアンまで死にもの狂いでぶっとばす小型の乗り合いバスだ。
ハイエースやキャラバンに客を18人詰め込み、道路事情の良く無いセブ島の海岸沿いを飛ばすのだ。
フィリピン人は運転席の隣を最上席として争って座るが、私はなるべく後ろに座る事にしている。
事故の確立はあまり低く無く運転席の隣は危険すぎるのだ。
リロアンからはネグロス島のセブランまでバンカーボートの渡し船に乗る。

少し前、ヴィハイヤーも値下げをしたのでそんなに儲かる商売でも無いのだろう。
多分、初めの頃は儲かったが猫も杓子もヴィハイヤーに参入するものだから便数過剰で儲からなくなったのだろう。

近頃私が利用するのは「セレスライナー」の路線バスだ。
セレス・バスはリロアンより少し南のセブ島南端のバトとセブシティーを結ぶ路線バスだ。
料金はライバルのヴィハイヤーを睨んで、それよりも少し安く設定されている。
ヴィハイヤーはスピードが命で運行されるが、セレスは快適さと安全性で運行されている・・・と思う。

6~7年前、まだヴィハイヤーが無かった頃のセレスは速かった。
セレスも速さを売り物にしていたが今では競合する小さなバス会社が駆逐され、ライバルのヴィハイヤーが速くて危険と言われるに及んでか、セレスは安全運転で遅くなった。

セレスのエアコン付き大型バスはリクライニングシートでビデオ放映もある。
車内販売もあって大きな町の入り口で物売りが乗り込み、水やお菓子を売って町外れで降りる。
物売りは対向車線のバスに乗って商売をして元の町へ戻るのだ。

バスには4時間近くも乗り続けるので腹も減る。
豚の皮を揚げたお菓子のチッチャロンやバナナの葉っぱで甘い餅米を包んだBOD BODが良く売れる。
BOD BODの発音はカタカナでは書けなかった。

セレス・バスもヴィハイヤーも始発と終点のターミナル以外は停留所が無くどこでも停まる。
セブシティーまで後1時間と言うあたりまで来るとバスは大抵満員になる。
フィリピン人は立つのは嫌いだから補助椅子が出される。
補助椅子はプラスティックの丸イスだった。
補助イスも出尽くすとどうなるのかはまだ見た事が無いが、たぶん二人掛けの席にキャーキャー言いながら三人掛けするのだろうと思う。

バトではガラ空き フィリピン人は前が好き

タンピ~バト

セレスがヴィハイヤーに勝るのはサービスや料金ばかりでは無い。
ネグロス島とセブ島を結ぶ渡し船の安定度も大きな魅力だ。

日本が冬の時期にはビサヤ地方も冬で寒く、雨の日には25度くらいまで下がる。
そして海も荒れて船は難儀する事が多くなる。
リロアンとセブランを結ぶバンカーボートの渡し船はこの時期時々欠航する。
バンカーボートとしては大型なので航行するのは問題ないのだが、船着き場が貧弱なので接岸できないのだ。
一昨年、リロアン側はコンクリートの桟橋が完成したがセブラン側は未だに浮桟橋で荒天時には船が着けないのだった。

リロアンから船が出せてセブランに向かうが接岸が無理だとなると少し北のアホンと言う浜に船を着ける。
ここはただの砂浜で桟橋など無く、乗客は波を被って濡れながら下船する。
しかし、ほとんどのフィリピン人はこの惨状でも笑っている。

大きな荷物は浜の住人がにわかポーターになって運び、一時のお祭り騒ぎが始まる。
波に飲まれそうな子供や濡れたく無い上品なご婦人もポーターに担いでもらって上陸する。

アホンの浜からもっと北にあるタンピの港には少し大きな連絡船が着く。
昔から有る港なので風や潮の具合が良くて出来た港なのだろう。
リロアンとセブランがダメな荒天時でもここは動いている。
連絡船で一番大きなものはカーフェリーだ。
フェリーと言っても100トン前後で、オープンデッキの甲板に車は4~5台しか積めない。
フェリー以外はセレスの発車時刻に合わせて運行され、船とバスは時間的にうまく繋がっている。
とくにドゥマゲッティー側から行く時には船から降りるとバスが待っていてすぐに乗れるので予定が立つ。
しかしセブから来るとバスを待って船が出るのでは無く、バスが遅れて間が悪いと待ち時間が長くなる。
待ち時間に関してはリロアンも同じ条件だが。

窓にガラスは無く 荒れて飛沫が飛ぶときはベニヤ板を貼る

私がセレスを好きな理由は沢山有る。
快適で安全で安くて時間が読めるから、とか。

しかし一番の理由は隣の席に座った人との世間話しだった。
そして隣席が女性である確率は比較的高く、その女性が若くてチャーミングである確率がこれまた結構高い。
だから私はセレスが好きなのだ。

    ではまた

        では また


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南風のたより 家を建てる 4

2020-03-09 17:00:12 | 南風の便り
家は建った 確かに建った、が

家は予定より大幅に遅れながらもなんとか格好をつけてきた。
フィリピン人ならとっくに住み始める程度の完成度ではある。
しかし私は、どこまでいっても日本人なのであった。
しかも、筋金入りの頑固おやじでおおむね完成などと言う状態で入居することは気持ちが許さなかった。

12月20日の新居完成パーティーの知らせはもう出してしまっている。
この場合の出したは「口に出した」のであって正式なものでは無いが、関係諸氏津々浦々まで話しは行き渡っているはずだった。
今さら延期など出来ないのだが、2003年12月19日現在メイン会場となるリビングルームは床のタイルも張られていず、壁は今塗っている真っ最中で、トイレはまだベン座が付いていなかった。
トイレのドアの取り付けもまだだったので私は到底この家には住めないのだ。

18と19日は大工が5人入り夜の11時頃まで仕事をした。
大分仕事は進んだが、それでも私には20日に間に合うとは思えなかった。

この残業が面白かった。
5時が定時だが、この日は6時頃まで仕事を続け一旦中止して食事をした。
そして食事の後軽く一杯やる。
その後は仕事をしながらちょっと手を休めては軽く一杯飲んでは仕事を進める。
私は日本式に2割5分増しで日当を払うのかと思ったが、どうも食事代と飲み代を私が持つだけで良く、特別手当ては必要無いと言う事で納得した。

19日の夜はタイル張りの二人は家が近い事もあって12時近くまで働いてくれた。
しかし、9時過ぎからは、仕事をしているのか飲んでいるのか良く分からないところが有ったのは否めない。
早く終わって翌朝早めに来てくれた方がはかどったような気はするが、これがフィリピンスタイルなのだろう。

20日の朝、エリックは相当早く来ていたようだった。
昨日雨で出来なかった外回りを、今は止んでいる雨が降り出す前に片付けてしまう為との事だった。

この日のエリックは無口で、少しの時間も惜しんで作業を続けていた。
それにつられるように他の4人も黙々と働いていた・・・のは午前中だけ。
昼飯の後はペンキ屋を中心に馬鹿話しをしながらのいつものムードに変わって行った。
私はペンキ屋に、客が来た時にみっとも無いので、カウンターだけは塗り終えて欲しいと何度も言ったのだが、急ぐ様子は見せなかった。
後で感じた事だが、鼻歌やお喋りが出た時点で一応の見栄えを確保できる見通しが 立っていたのだろうと思う。

この日、12月20日はジェフリーの娘、ルイーザの誕生日パーティーも兼ねていた。
近くの教会から牧師を呼んでお祈りをしてもらう予定だった。
6時頃から客が来るからと言ってあったにも拘らず牧師は4時少し前に現れた。
4時頃と言えば後片付けの真っ最中で落ち着いて座るところも無い状態だった。
しかし来てしまった者は仕方が無いので、邪魔だったが中で待ってもらった。

最後まで慌てたがなんとか午後6時前には格好がついた。
フィリピン人は働かないとか、仕事は遅くていい加減だとか、仕事に関して良いイメージは皆無だったがここ数日は見直した。
やる時にはやるじゃないかと感心したがそもそもこれ程遅れたのが問題なのだ。
日本なら2ヶ月も遅れたら大騒動になるが、ここはフィリピンなのである。
今夜に間に合ってめでたくパーティーが開かれれば万事はパッピーエンドなのである。



パーティーに先立って待ちくたびれていた牧師が祈りを捧げ、この家に住む者と列席者の健康と繁栄を祈ってくれた。
私は牧師が何を言っているのか見当もつかなかったが、神妙な顔をして少し控えめに、うろうろと牧師の後をついて回った。
新築の家に捧げるお祈りの内容は全く分からなかったが、サントニーニョを祀った祭壇の飾り方は日本の神事のそれと良く似ていた。

中心にサントニーニョ像を置きロウソクを2本立てる。
捧げる花は造花と生花の両方だった。
そして供物は、油と酒、米と水と小銭だった。
縁起物の違いはあっても格好は良く似ていると感心した。

牧師は、聖水を全ての部屋の四隅に振り掛けて短い祈りの言葉を言う。
私は言葉も意味もわからずその後にずるずるとついて回っていた。
次にルイーザの誕生日を祝うお祈りが捧げられて、一通りのややこしい神事は終わった。
私は牧師に、神様への感謝の言葉を述べろと言われて戸惑った。
言葉に詰まっているとルイ-ザの母のハニ-が察して代りに短いスピーチをしてくれてパーティーは始まった。

ドゥマゲッティー在住の日本人が3名、御祝に来てくれたのは大変うれしかった。
100人を超す人たちが銘々に食事をしながら、小さなグループを作って話しをしている。
ジェフリーにどんな人が来ているのかを聞いてみると、ほとんどは私の知らない「近所の人たち」だった。

ダイビングのガイドに警官のロイがいる関係で、庭には赤色灯ならぬ青色灯を回したパトカーが止まっていた。


   ・・・では また・・・

        ではまた

        (2014年 1月 書きました)
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南風のたより 家を建てる 2

2020-03-04 13:50:22 | 南風の便り
段取りはすべて狂う

バンブーハウスの予定は、外圧によってゆがめられ、立派な家になってしまった。
圧力を発するジェフリーに悪意は無い・・・と、私は思う。
ただ、彼は彼なりに、もしも造るなら、こんな家が良いなぁーと言う理想から仕様変更や材料を変更し、その結果工期が伸び、金が出て行くのであった。

すべての狂いは言語能力不足に起因しているのだった。
会話の肝心な部分は、材料の名前や工事の方法であったりして、英語にせよビサヤ語にせよ、私の頭の辞書には載っていない単語が多く、分からないままに頷いているのである。

工期が伸びている理由がもう一つある。
今年は10月に入ってから、やたらに雨が多くその影響で工期は大幅に送れているのだった。
屋根の工事が終わっていなかったので、屋内工事が全く進まないのである。

大工のエリックは朝早くに現場に来る。
8時少し前に来て天気が良ければその日の段取りを始める。
朝から雨が降っていて終日降り続きそうでも一応は顔を出す。
そして、雨が降り続けば家に帰って行くが、中途半端な日が厄介だ。
少しでも仕事に手を着ければ一日の日当を払う事になるからだ。
10月の初めの頃はエリックもあまり気にせず、中断しそうな時でも仕事を始めていた。
しかし、中段が余りに多く、途中で進まなくなる日が続くと日当を払う私に気兼ねしたのか、怪しい天気の時には手を着けなくなった。
一度手を着ければ4名の日当と昼飯代を含めて、1000ペソ程出て行くのである。
そんな訳で、9月末には完成かな?などと言っていた家は10月末になっても大してその姿は変わっていなかったのだ。

材料は自分で買いに行く-2

建築材料は自分達で買いに行く・・・と、言う事で何度か材料を買いに行った。
前回は電気の配線と水道配管の材料だった。
それらの物は値段以外に興味が無かったので私の仕事は支払いだけだった。
しかし今回はいよいよ内装に着手するので自分で選びたかった。
だから主導権を握るべく、鼻息荒くハードウエアーショップに乗り込んだ。
結局握ったのは車のハンドルばかりで、買い物の主導権はエリックとジェフリーに握られた。
私もせめて配色くらいはと思って主張したが何故か私の思惑通りにはならず、意図しない色の家になって行くのが悲しかった。

家にはトイレを2つ造った。
こちらの家はシャワーとトイレが一緒なのでシャワールームが2つと言う事になる。
私はバスタブは諦めていたが、せめて温水シャワーは欲しかった。
そこで私の部屋のシャワールームには電気の簡易温水シャワー機を着ける予定だった。
しかしジェフリーが登場して、私が6000ペソと4500ペソの簡易温水器を見比べている時に日本語で「これ、だめ。ダメ,DAME」と言うのである。
水圧が安定しないので、ポンプを別につける事になり、それを考えると高く着くと言う事だった。
店の人にその事を尋ねてみたが、ポンプが無いと水圧が低い時には使えないだけのようだった。

結局私は20000ペソの温水器を買う事になった。
それは20ガロンのタンクに常時熱湯を溜めておける、立派なものであった。
これによって複数箇所給湯が可能になり、トイレとキッチン2箇所ずつと外のシャワーと洗濯場まで給湯の配管を回す事になり、その出費がまた予算外だった。

次に難航したのが床と壁のタイルだった。
タイルの値段は1枚15ペソ~35ペソと安いのだが、使う枚数が多いので1枚5ペソの違いは大きかった。
しかし、彼らは私の懐具合など全く考慮せず、自分達の理想とするカラー理論を展開するのだった。
結局ここはエリックに押し切られ、1枚35ペソを1000枚以上買う事になった。

壁材も、コンクリートの上にカラーモルタルで良いと言ったのだが、木の壁材が選択されていた。
ついでに言えば、メインのドアーはマホガニーの板であり、彼らが言うにはこの家にはこのくらいのドアーが付かなければならないのだそうである。

竹の高騰

家の外回りはコンクリートを竹で覆いたかったのだが、材料を買いに行って諦めた。
ほんの数年前まで竹は貧乏人の家の主材料だった。
近くのボホール島は竹の産地でその他のビサヤ地方の島も竹は豊富だった。
だから竹とココナッツの木で造る家が一番庶民的だったのだ。

ここ数年外国人が建てる家で竹を多用するようになった。
特に欧米人のリタイアメントたちはオリエンタルムードの演出に竹を多用していた。
その需要で竹が高騰したが品不足と言う事では無いらしく、値段に無頓着な外国人が高く買ってくれるので高値で納まってしまったようだ。
安く買う方法がなくも無いが、青竹を買って乾燥させて材料になるまでに時間が掛かり過ぎる。
高いのは建築材として乾燥された竹なのだ。

多分来月完成の予定

10月半場には住めると言っていたのが、もう明後日は11月です。
11月中場には完成すると、希望的観測なのですが、はたしてどうでしようか。
予算オーバーなどと生易しいものでは無く、見積もり無視、当初の計画は完全に無視・・・。
しかし、遅々としてはいるものの、取りあえずフィリピンの地で事がそれなりに進んでいると言うのは凄い事です。
そして、予算も予定以上に立派になった部分に払ったものなのでそれも仕方が無いと思っています。



考え方を変えれば、けっこう立派な家が100万円ちょっとで出来るのですから本当は安い物です。

私の家の隣の敷地はまだ2~3軒は建てられますから、隣組みになりませんか・・・相談に乗りますよ。


・・・ではまた

   ではまた

(2003年 10月 書きました)

コメント (2)
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南風のたより  

2020-03-03 13:48:22 | 南風の便り
スーパーキャット

 セブからドゥマゲッティーまでは朝8時発のスーパーキャット(双胴の高速船)で行く。
以前は色々試してみたが最近はこれに定着した。
これで行くとドゥマゲッティー到着が11時15分と昼近くなので当日のダイビングにはちと遅い。
しかし、この前の便はオーシャンジェットの6時発で9時30分ドゥマゲッティー着になるが、それに乗るには5時にはホテルを出る事になる。
と、なれば起床は4時半か。
PR433でマクタン空港に到着してのチェックインは、順調であれば8時頃になる。
それから食事に出て、一杯やって帰ってくると10時になり、シャワーを浴びて早くても10時半の就寝だ。
ホテルからピア4までは車で15分と近いのだが、安全マージンを入れると6時出発になる。
年配者の多い当ショップは前日の疲れも考慮して8時のスーパーキャットが妥当だと思っている。

 近頃スーパーキャットが出航する前にコーストがードが乗り込むようになった。
今年の春頃から始まったと記憶しているが、目的は良く分からない。
定期船で特定の航路を走る船に毎回乗り込んでいったい何を調べるのだろうといつも不思議に思う。
コーストガードの係官はバインダーの用紙に何やら書き込むのだが、私にはそれがとても気になる。

 老朽化したスーパーキャットが一艘、現役を引退して岸壁に係留されている。
すべての艤装をはずされ、ただ浮いている。
現役の船は春にリニューアルされシートや船内のテレビが新しくなった。
内装やテレビが新しくなった事は悪くは無いのだが、船内を冷蔵庫のように冷やす特別サービスは変わっていない。
乗客のほとんどが寒がって毛布をくれという騒ぎが毎日繰り替えされている。
毎日の苦情が何年経っても改善しないのだが、これこそがフィリピンなのだ。  

アカシアとマンゴーの大木

 ドゥマゲッティーを起点にネグロスオリエンタル州を東西どちらに走っても道路沿いにアカシアの大木を見られる。
幹の太さは直径で2mを超す大木も多く、見上げてもてっぺんなど見えない高さだ。
アカシアの大木は輪切りにしてテーブルになっていることが多い。

 マンゴーも大木になる。

 大木が道沿いに多いのは日陰を作る為に植えられ、歩いて移動していた時代の名残だと思う。
アカシアからは良い蜂蜜が取れるがドゥマゲッティー界隈で養蜂を見た事は無い。
蜂蜜は売っているのだが養蜂物では無く自然の採集によるものだろう。
恐らく大掛かりな蜂飼いはいないのだと思う。
これだけ花が豊富な土地で養蜂が行われていないのは不思議な気がするが何か出来ない理由が有るのだろうか。
そう言えば庭の花を見ていても蜜蜂が来た事は無かった。


音に鈍いフィリピン人

 朝、いつものようにダイビングのお客さんをサンタモニカに迎えに行った。
お客さんはまだ朝食を食べていた。
もうじき、伝えてあった出発の時間なのだがどうしたのだろうと思いながらテーブルに近づいていった。
お客さんは私の顔を見るなり明らかに怒った顔で「昨夜は一睡もできなかった」と言った。
訳を聞くと、ホテルで行われたパーティーのスピーカーの音がうるさすぎて眠れなかったらしい。
騒音のすさまじさは、部屋の壁をビリビリと震わせる程で、しかも夜中の3時まで大音響は続き、3時になって治まりやっと眠れると思ったら隣の部屋へ移動してきた客が大声で騒ぎ立てるのでまたもや眠るどころではなくなった、と言う。

お客さんは何度かフロントへ苦情を言ったが、今日はパーティーだから仕方がないと言われたという。
ホテルのボーイが部屋の壁が振動する様を確認に来てドアまで共鳴しているのに驚いたと言う。
しかし、すき間に何かを挟んだだけで帰っていったらしい。

 最近サンタモニカに泊まったお客さんから騒音に対する苦情が頻発している。
今回と同様にパーティーのカラオケの騒音の苦情が多かった。
そしてもう一つ見逃せないのが、ダイビングタンクへのエアーチャージのコンプレッサーの音だ。
特にコテージに泊まった場合は最悪ですぐ裏手にコンプレッサーが有り、夜中までエアチャージの音が続く事も有る。

 この日の朝、朝食が終わったお客さんからダイビングはキャンセルすると言われた。
一睡もできなかったのだから当然ではあったが、作った弁当が無駄になったのは痛かった。
私は無駄とは思ったがホテルのフロントに苦情を言った。
マネージャーの返事は「仕方がなかった」であり、申し訳ないの一言も無かったが、これがフィリピンなのである。
お客様に納得してもらうにはホテルを変えるしか無いと思い、チェックアウトして他へ移ることにした。

エルオリエンテ ビーチリゾート

 移った先は最近利用し始めた「エル オリエンテ ビーチリゾート」だ。
現在家を建築中で住まいの無い自分も時々ここに泊まっていた。
ここは泊まり客が滅多にいないのでとても静かだった。
客室はそこそこきれいで部屋に冷蔵庫がありプールも有る。
従業員はサンタモニカ以上にフレンドリーだ。
何故最初からこちらを利用しないのかと言うと、ここも海沿いなのだが庭からの眺めが開けて無く開放感に乏しいのだ。サンタモニカのレストラン、中庭、プールサイド、どこも開放感に溢れていて気持ちが良い。
エルオリエンテはロケーションでサンタモニカに負けているのだ。

 ちなみにエルオリエンテにも騒音は有る。
翌日、お客さんは3時半に起こされたと言っていた。
騒音の主はニワトリだった。
闘鶏の盛んなドゥマゲッティーでは沢山の鶏が飼われていて、それらが夜も明け切らぬうちから鳴くのだった。
鶏は一羽が鳴けば連鎖的に掛け合いで鳴き続け、数が集まると凄まじいことになる。
しかし、私は慣れてしまったのか、まったく気にならないし、これは街のどこへ行っても逃れようが無いので事前に説明はしないことにしている。

  ・・・ではまた・・・

       では また

    (2003年 10月5日 書きました)


 
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