私は、高校を卒業するまでは登校はしていたものの、社交性に欠け、友達もおらず、クラスでは、いつも孤立していた存在だった。特に教師から重要なことを教わったという記憶はない。私は、小・中学校では常習的に宿題など提出しない生徒であったが、そのことで注意を受けた記憶も、孤立した生活から脱することについてのアドバイスを受けた記憶もない。そんな私にとって、人生の後半になって入学した放送大学の授業は、ようやく自分に合ったというか、初めて楽しく学ぶことが出来る場であった。放送大学の授業は、面接授業の必須単位もあるが、テレビやラジオでの放送授業(インターネットのストリーミングでの視聴も可能)を視聴し、教材を参考にして学習し、学習センターでの単位認定試験(コロナ禍ではネットでの試験)を受けて単位が認められることになっていて、別に他の学生や教師などと触れ合わなくても卒業することが出来る。そこで、私は、約十年かけて三つのコースを卒業した経験がある。
今、改めて考えても、私のような者にとっては、高校までの教師の存在は、ティーチングマシン的存在か、はたまた、内申書の存在などで生徒を脅して管理しようとする鬱陶しい存在でしかなかった。2025年にAIが人類の知能を超えるsingularityが到来すると言われていて、話題のchatgptが表れたのも、その証左であるかもしれないが、特に、教育においては、全国的な放送授業があれば、教師って必要なんだろうかという疑問を持っている。習熟度別に個人にカスタマイズした教育をしようとする場合でも、AIを使えば可能ではなかろうかとも思う。その場合、一人ひとりの生徒にタブレットを持たせれば解決するのではないだろうか。今の教育が、生徒一人ひとりに向き合うことなく進められているとするなら、教師の存在をAIに置き換えてもかまわないのではなかろうか。
その反面、心理学の初歩を学んだことのある私は、カウンセリングの重要性も理解はしている。現在のように、それぞれの家庭の置かれている状況から、個々の生徒に大きな格差が生じている状況にあって、発達心理学や教育心理学などに精通した教師が、カウンセリングを実施するようなことが可能であれば、その生徒の人生にとって大きな導きともなるだろう。そこにおいて、教師の存在が必要になるのではないかと考えたい。
私も、学生時代に、「学ぶことの持っている意義や重要性」などについて、本当に教えてくれていたなら、随分と違った人生が遅れていたのではないだろうかと強く思うことがある。そんな教師は、私の前にはいなかったように思えてならない。