ひまわりさんより(3月17日)
今日の安息日は、銚子の聖書研究会へ出かけ、一緒に礼拝を捧げました。
今日の礼拝メッセージでは、ローマ人への手紙7章24節の聖句で、使徒パウロが、自分のどうしようもない罪の現実に絶望し、
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか」と叫んだとき、
次の瞬間、あふれるばかりのキリストの愛に目が開かれ、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と
喜びの声をあげたことが教えられました。
私たちは、自分で何かをやろうとすると、できない自分に失望したり、できる自分を誇ったりしてしまうものです。
しかし、私たちが、自分の罪に気づかされ、自分の力では神様に従うことはできないと本当に分かって、自分に絶望し、
「だめだ!」と、ペッチャンコになったなら、もうあとは、イエス様を信じ、
イエス様のみ言葉の力をを信頼して生きる以外にはないのです。
そうすると、もう、感謝以外にはない人生が始まります。
ヨブと信仰のテスト
私たちはなぜ神様に仕えるのですか。
ある時イエス様は、ペテロに向かって言われました。
「ペテロよ。サタンがあなたの名を呼んでいる。あなたの名を呼んでテストします」。
サタンは、私たちの名前も天で用います。しかし神様が、まだあの人については終わってないよ、と言われます。
待っていなさい、待っていなさい、と神様は言われます。
今現在に至るまで、神様はずっと私たちのために、時間を稼いでおられるのです。
しかし、遅かれ早かれ、私たちの名前が、天において取り上げられる時が来ます。
それが調査審判なんですね。その時、私たちの心の真の動機が吟味されます。
「なぜ、私たちが神に仕えているのか」。
サタンがヨブを訴えたときに、神様は何をされましたか。
神様は他に選択肢がなかったんですね。
神様は、ご自分が正しいということを証明するために、サタンがヨブを試練に陥れることを許されたのです。
そういったわけで、ヨブは激しい試練にあうことになりました。
ヨブの子供たちがお祝いしているときに、屋根が崩れて子供たち全員が死んでしまいましたね。
皆さんの家族でそのようなことが起こったら、どのように感じられますか。
その時にもなお、神様をほめたたえ、神様に栄光を帰することができますか。
それとも皆さんだったら、不平不満を神様に向かってぶつけるでしょうか。
ヨブはその時、口を閉ざして不平不満を口にすることはありませんでした。