ひまわりさんより (3月29日)
今日の日課の読み物の中でとても感動した文章をご紹介します。
「聖なる原則が人生を導く時、魂はその単純さのうちに美しいものとなる」
「信仰の祈りの感化は、永遠と同じように遠くにまで届く」(『キリストを映して』より)
子供たちのために祈ってきましたが、子供たちは(特に男の子は)、
その選ぶ伴侶によって人生が決まると言っても過言ではありません。
よい伴侶が与えられるよう、永遠の神様に届く、信仰の祈りを続けていかなければならないことを思いました。
メシヤを待ちながらメシヤを殺害した デビット・カン講演5
マタイ24章の背景を見ていきたいのですが、マタイ24章の背景となるのがマタイ23章です。
どうして背景を知るのかと言いますと、イエス様の再臨のしるしを理解するためには、
イエス様の時代の教会の状態を理解しなければなりません。
ほとんど4000年近くも、メシヤの出現を待ち望んでいたユダヤ人の教会が、
結局真理を見いだせなくて、メシヤを殺害するにいたったわけです。
彼らは聖書を持っていました。預言者もいました。聖所もありました。預言の霊も持っていたんです。
預言の霊とは何ですか。彼らにとって、それはモーセの言葉です。モーセの書は彼らにとって預言の霊だったのです。
証の書だったのです。彼らは健康のメッセージも持っていました。衣服改革のメッセージも持っていました。
預言も持っていました。私たちが証の書で学んでいるすべてのことを、彼らは持っていたわけです。
にもかかわらず、実際にメシヤが来られた時、彼らはメシヤを認めることができず、拒んでしまったのです。なぜなのでしょうか。
彼らはメシヤの到来を待ち望んでいたわけですよね。しかし彼らは、間違った期待の仕方、間違った観念を持っていたんです。
マタイ23章を勉強するなら、イエス様がユダヤ人の教会を非難されたことが書かれています。
彼らの教育機関を非難されました。ユダヤ人の教会は、当時の主流だったギリシャの教育システムを取り入れていたのです。
その結果彼らは、いろんな学位のような、そういったものを教育制度に取り入れて行ったのです。現代でもそうですね。
自分たちの学位や称号に従って、ガウンの色などが変わるわけです。
大学の卒業式などで、教授とか、博士号を持っている人とかが入ってくるときに、
いろんな形の帽子や色のガウンを着て登場しますが、自分たちの到達したものを見せびらかすためにやるのです。
そのような、誇り、プライドに満ちている人たちが、どうやって聖霊の声に耳を傾けることができたでしょう。
ギリシャの教育制度を取り入れることによって、教会全体が堕落してしまったのです。
その結果彼らは盲目の状態になりました。見えない状態になりました。