極端な例をあげましたけれども、私たちが話すというのは、私たちの思いが表現されたものなんですね。私も話が好きです。会話するのが好きです。人と会ったら会話を交したいと考えます。ずっと沈黙していたいとは思いません。そうすると、時に家内からこのように言われます。「あなた、あなたもうちょっと黙ったらどうですか。話すのにエネルギーを費やし過ぎますよ。ちょっと自粛したら・・・」。「わかった、わかったもう一言だけ言ったら黙るから」。そしたら、そのあと15分くらい話してしまうとことがあります。私、しゃべるのが大好きなんです。言いたいことがいっぱいあります。なぜなら世界中を旅行して、色んなものを見てきたので、色んな話したいこと、話題があるわけです。
しかし、ある重要なことを悟りました。黙って思い巡らすことが大切なのだということです。そこで私は、深く考えるという訓練を自分で自分に課すようになってきました。『ハバクク書』2章20節に「主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ」という聖句があります。どういう意味でしょうか。礼拝する時は、皆ずっと黙っていなくてはいけないということですか?口を開いてはいけないのでしょうか。どういう意味でしょうか。神様がその宮にいますから、全地はみ前に沈黙せよと言う聖句ですね。こういう意味なんです。学生たちは教室に先生たちが入ってくるまでは、もう、おしゃべりをしたり討論をしたり大騒ぎをしている場合がありますね。何かいつも言い合いしているわけですね。「あんた間違っているよ、僕は正しいんだ」。「あ、あの人、間違っている。あっちが正しいけど・・・」。ところが先生がドアを開けて入って来ますと、そして教壇に立ったら、全員がシーンと静まります。誰も一言も発しません。教えられる時が来たからです。
教える時ではなくて、討論する時ではなくて、イエス様の足もとにひざまずいて、私たちは教えられるという姿勢をとる訓練をすべきなのですね。神様のみ言葉によって教えられるということです。
健康問題をかかえているために、私はかつてのように精力的に、聖書研究することができなくなりました。かつては、常に暇さえあれば読んで研究していました。今はそういうことが出来なくなっているんですね。そこで以前よりもっと考えるようになりました。私が記憶していること、かつて理解に達したこと、そういったことをまた思い出して噛みしめる、咀嚼するのです。そうしたら私の魂にとって、ものすごく有益な経験となってきました。
ここで単純なことを皆さんに申し上げたいのです。私たち皆が永遠の命にふさわしい者となるように、品性建設を目指していますよね。どうやったそれを成し遂げられるのでしょうか。私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちの品性を正しく形成するために何をしなくていけないのでしょうか。