福音の力を体験せよ 87
そのようなわけで、私は長い間、義を知らずに過ごしてきました。もちろん、善行と言われるものはたくさんしました。私は姦淫を犯さず、盗まず、人を殺しませんでした。しかし心の中で、神の愛が私を主導していたでしょうか?
皆さん、義とは、神の愛が心を主導することです。私は、そのことについての確信がありませんでした。
私は、夫や子供たちのせいで面倒に巻き込まれたときや腹を立てたときには、いつも彼らを恨み、言い訳ばかりしていました。しかし、み言葉を研究して、自分が主をどれほど多く失望させていたかを悟りました。主の義は、私のうちにありませんでした。私の服は、ただの汚れたぼろきれでした。私は、裁きの備えができていませんでした。
私たちは、聖霊の働きを通してのみ、自分が救いの道に立っているか、それとも滅亡の道に立っているかを知るようになります。聖霊が、正確に罪を悟らせてくれるのです。同じく、義と裁きについても悟りを与えてくれます。では、その段階で私たちがなすべき分は何でしょう?そのように悟ったとき、私たちは何をすべきでしょうか?聖書には次のように述べられています。「ただあなたは自分の罪を認め、あなたの神、主にそむいてすべての青木の下で異なる神々にあなたの愛を惜しまず与えたこと、わたしの声に聞き従わなかったことを言いあらわせと、主は言われる」(エレミヤ3:13)。
主の幕屋の中へ 21
聖所が指し示す方
やがて、聖所とその奉仕の中心であられるイエス様が、ご自分の地へ来られた時、イスラエルの民は、昔と同じで、少しも変わっていない状態でした。心の中では、キリストを迫害して殺そうと思うほどでしたが、人々からは、敬虔な人物に思われるように、異邦人であるピラトの宮廷の入り口を、越えないように気を付けていました。
民に対してなされる神様の訴えは、昔も今も少しも変わりはありません。 各々の生涯において、聖所の本当の意味を見つけ出し、彼らを倒した致命的な傷から解放され、そのような罪を、二度と繰り返さないことを願われました。
聖所が示している大きな目的は、神様が聖所に臨在されるように、各々のうちに住まれることでした。聖所におられる神様が聖であられるように、人が聖なる者となり、真に生きておられる神様の住まいになって、神様がその人を通して、すべてのみ業を行いたいと思われたのでした。