罪から逃れる道 第Ⅰ3回
私たちがこのような苦しみにあずかるなら、イエス様がこの地上にこられるとき、どれほど喜ばれるかわかりません。イエス様が栄光のうちに来られるとき、なぜ私たちが喜びにあふれるかと言いますと、私たちが罪と何一つ関係のないものとされているからです。罪と何の関係もない者たちにとって、イエス様と会うことは本当に喜びとなるのです。
「キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」と聖書は言っています。なぜここでペテロは、あなた方を試みようと降りかかってくる火のような試練を、肉における苦しみと言っているのでしょうか。
それについては、この当時ネロという皇帝が、世界最大の都市ローマに火を放ったのです。そしてその責任をクリスチャンに押し付けたんです。放火の原因をクリスチャンに負わせました。それによってクリスチャンたちには恐るべき火の試練がやって来たんです。ある歴史家がネロについて、「ローマを新しく作るためにネロが火をつけた」と述べています。しかしこの大火災の責任をクリスチャンの責任にしたために、多くのクリスチャンたちがそれによってどれほどの、どれほど恐ろしい苦しみと迫害を受けたかわかりません。そのようなことが肉における苦しみなんです。自分の弱さや欠点が原因の苦しみでなく、不当な非難や迫害、罪と闘うときに生じる個人的な葛藤、それが肉における苦しみです。