罪祭に現されたキリストの愛
イエス様が十字架で私たちの罪を代わりに背負われたということが果たして何を意味するのでしょうか?ペテロの手紙第一2章24節は、私たちにそのヒントを提供しています。 「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた...」。どのように、主が私たちの罪をご自分の体に感じることができたのでしょうか?その身体に私たちの罪を代わりに負われるということが果たして何を意味するのでしょうか?
このように考えてみましょう。私たちが罪を犯したときに、私たちの体にどのような反応が表れるでしょうか?たとえば、私たちがある兄弟に大きな嘘をついたとします。道を歩いているとその兄弟が向こうの方からやって来きます。その時に、私たちの体にどのような反応が起こるでしょうか?突然不安と焦りが襲って心臓が早く鼓動し、冷や汗が流れながら、恐怖が心の中に押し寄せて来ませんか!さらには、神の審判の恐怖が胸を埋めてくるのです。十字架の上でイエス·キリストがまさにそのような方法で罪を指示は経験を経たのです。私たちの罪がまるであなたが造られた罪のように、主に襲われてきました。一度も罪を犯してみない方が罪悪感を私たちに代わって経験痩せたものです。
私たちが罪を犯したときに感じる体の反応が突然イエス様に出てきたものです。人類の無数の罪が一度イエスの魂の中に押し寄せてきたので、彼の心はその時まで全く感じ見られなかった罪悪感を感じるようになったのです。十字架上でのその苦悩は言葉では表せない程のものでした。文字通り、私たちの罪を代わりにご自身の体に負われたのでした。従って第二コリント5章21節には「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」。と言われたのです。
詩篇22章全体と、40章では、イエス様が十字架に掛けられたときに遭われた心的苦痛がどのようであったかあらかじめ預言した章です。詩篇40章12節には、次のような言葉が記されています。「数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました」。キリストが十字架上であわれる深い苦悩を預言しながら、「それ(不義)はわたしの頭の毛よりも多く」と表現していることに注目する必要があります。イエス様は、罪が全くない神様でした。一体何の罪が追い迫って物見ることができず、また髪の毛よりも多く感じられたのでしょうか?そうです!!それは明らかにの代わりに背負ってくださった私たちの罪を指しています。 「私の心は消え失せるばかり」という英語の聖書の表現は、「Therefore my heart failed me」です。つまり、「私の心が止まった」という意味です。