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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いの全行程を示す聖なる幕屋  第15回

2016年07月01日 | 日記

イエス·キリストは十字架の肉体的な苦痛のために亡くなったのでありませんでした。イエス様が亡くなられたのは、私たちの罪を背負う魂の苦悩のために、心臓が破裂して亡くなったのです。聖書でイエス様が亡くなられたときの場面をみてみると、大きな声で叫ばれ、首をたれて突然亡くなった記録を読むことができます。また、聖書はローマの兵士がイエス様が亡くなったのを確認するために、やりでそのわきを突くと、そこから水と血が流れたと記録しています。それは彼の心臓が破裂した医学的な情報です。罪の深い苦悩のために、心臓が裂けるようになり、それにより、心臓が血液を生成することを止め、血清と血球が分離されて槍の傷口から流れ出てきたのです。

 イエス様が十字架で叫びまれた言葉の中で、私たちがよく覚えている言葉は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」です。その意味は、「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか」という意味です。イエスは人類の罪を代わりに負われる過程で、私たちの罪の悪と恐怖を背負い、父なる神の臨在をもはや感じられなくなったのでした。私たちの罪そのものになってしまわれたのです。イエス様が十字架で受けられた苦しみは、罪人が神様の慈悲と最後の訴えが終わり、自分が犯した罪の代価をそのまま受けるといったそのような種類のものでした。

 まさにそのような意味で、聖書は「罪を代わりに負われた」と言うのです。イエスは一度も父なる神様の臨在を感じずに生きられたことがありませんでした。しかし、十字架の上で突然、人類の罪を負われ、私たちの罪そのものとなったことで、罪人である私たちが受けるべきであったその罰と裁きを代わりに受けられました。そのような状況で、イエス様は神様の怒り余すところなく身に受け、完全に見捨てられたとしか感じることは出来ませんでした。そして主は目の前には今、すべての希望が消え、まるで代わりに負われ、私たちの罪のために永遠に父と分け隔てられ、完全に滅亡するように感じられたのでした。

 ですからキリストは、その瞬間に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか)と叫ばれたのでした。その瞬間、イエスは一つの選択して頂く必要がありました。悪魔は今このように死んで永遠に父なる神様と分離されて滅んでしまうのかと耳元にささやき、イエス様を最後まで誘惑し悩まします。今、イエス様の心には、今まで聞いていた天の父のすべての約束も、三日目に復活することを期待しても全ては過ぎ去ったかのように感じられ、もはや何の希望もないように感じました。また、ご自身が命を捧げて救おうとする人間がむしろ自分を十字架にかけ、嘲笑する様子を目の当たりにするのです。しかし、イエス様はそのような瞬間にも。ご自身が全人類を代表して、永遠に審判を受け、永遠の死と滅びを受けたとしても、人類を見捨てることはできないという死よりも強い愛を示されました。


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