罪から逃れる道 第9回
≪キリストと同じ心で≫
イエス様は罪の結果として、罪を犯したゆえに苦しまれたのでしょうか。そうではありません。イエス様は一つの思いにおいてさえ、サタンの誘惑に負けることはありませんでした。しかしイエス様はアダム以来の人間としての弱さ、性質を持っておられたので、誘惑に負ける可能性を持っておられました。そこで誘惑と戦うために、必死で祈り神様からの力を受けられる必要がありました。そのような戦いを肉の苦しみと言うのです。
私たちが負うべき苦難、私たちが背負う十字架、私たちの肉における苦しみとは何でしょうか。それは私たちが生まれ変わりの経験をしたのちに、サタンの攻撃を受け、それに対して戦うとき、サタンの攻撃や誘惑に対してそれに勝利するために戦う、そのようなときに生じる苦しみが、私たちが負うべき十字架であり、肉における苦しみなんです。そのためには私たちの中で、罪がまず終わらなければなりません。
もう少し考えてみましょう。私たちは先ほど第1ペテロ4章1節から2節のみ言葉を読みました。そこには、「あなた方も同じ心をもって心の武装をしなさい」と言われています。イエス様は罪が心のうちに入ってくることを決して許されなかったのです。イエス様は、罪の衝動や誘惑を受けられたとしても、安易にそれに陥ることはなく、誘惑や困難が襲ってきても、それに負けたりそれに引きずられたり、それに陥ったりすることはありませんでした。同じ心というのは、イエス様のそのような心を私たちが持つことを意味しています。心の武装をしなさいとは、イエス様が誘惑を受けられたりいろんな障害が起きたり、そういったものがあったとしても、それに負けたり引っ張られたりしない、そのような心を持つようにと聖書は述べているのです。そのような心こそイエス様の心なんです。
それをもう一度説明したいと思います。イエス様は、神様の心を持っておられました。イエス様は聖霊によって神様の心を持っておられたのです。ですから私たちも、聖霊によって同じイエス様の心を受けなければなりません。それが私たちの罪を終わらせる心の武装となるのです。ですから聖書はこのように述べています。ローマ12章1節から2節。
「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」。
神様に喜ばれる聖なる供え物ものとして、私たちの心と体を、考えを、私たちの存在自体を、神様に捧げなさいとあります。実に、私たちの人生そのものが捧げものとならなければならないんです。それが私たちのなすべき霊的な礼拝なのです。