福音の力を体験せよ 89
私の父は、ただの一度も自分の非を認めたことがありませんでした。父はしばしば子供である私たちを怒りましたが、そのたびに、責任を子供たちに負わせました。母と口喧嘩をしても、母に責任を転嫁しました。隣の人ともめたときには、いつも隣人のせいにしていました。父は絶対に、自分の非を認めませんでした。よく聖書の言葉を用いてガミガミ言っていた父のおかげで、私は聖書の言葉をたくさん覚えるようになりました。
“この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。”(マタイ18:7)
父はこの聖句を語りながら、自分がまちがっているときでさえ、常に相手の責任にしました。私の父は、たとえそれが小さな過ちであっても、他の人の過失によって傷つき、根に持つ人でした。一方、自分に非がある場合は、言い訳ばかりし、できれば相手に責任を押し付けようとしました。
主の幕屋の中へ 23
しかし、新約聖書時代の多くの人々も、相変らずこの真理を知ろうとしませんでした。心が新たにされることを願いませんでした。聖所の本当の目的が、彼らの中に成就して、神様が、彼らのうちの住まれるようになることを願いませんでした。そして、この真実の道を教えて下さるために、親しく身近に来られた方を拒みました。それゆえ、また、破壊以外に彼らの救済方法はありませんでした。再び、彼らの都は異邦人が占領し、神の宮は燃え尽き、人々は、捕虜になって散らされて、結局「もろもろの国民のうちに、さすらい人と」(ホセア9:17)なったのでした。
私たちの人生において、時には神様が介入されて、事業に失敗したり、子供たちが問題を起こしたり、人間関係や健康問題において問題が生じることが起きてきます。そのような問題を通して、私たちは、自分の不信仰を悟り、神様のもとへ帰って行きます。そして、そのような問題が、私を生かすための神様の特別な恵みの働きであることが分かります。ではその後、私たちは、自分の聖所を正しく回復したのでしょうか?私たちは、時間がたつと、いつの間にか、そのような問題があったことを忘れて、形式的になり、見せかけだけの信仰に陥ってしまっていることはないでしょうか。聖所の目的と意味を忘れて、義務的な信仰生活を繰り返してしまっていることはないでしょうか。そのようなことを繰り返しているとすれば、もはや、破壊以外には他の救いの方法が全然ない、そのような状態にいるのかもしれません。
人は、ほんの少し愛の鞭を受ければ、我に返って真剣になりますが、しばらくすると、再び汚れにふけってしまうのです。そのようなことでは、もはや、皆さんを救う方法が他に全くありません。その時は、永遠に見捨てられる、辛い結果が待っているだけです。