罪から逃れる道 第15回
ローマ書8章の18節です。
「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」。
次に8章の8節から18節まで、ちょっと長いですけど読んでみましょう。
「また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」。(8:8~18)
私たちがいろいろな良いことを、うまく上手にできたからと言っても、肉にある者であれば神様を喜ばすことが出来ないんです。しかし神様の御霊が私たちのうちに宿っているなら、私たちは肉にあるのでなく、霊にあるのです。私たちは肉の性質である自分の思い、自我を放棄し、十字架につけなければなりません。その時に起きる戦いが肉における苦しみなんです、私たちの肉から湧き上がる悪い衝動やそういった思いを十字架につけること、放棄すること、それが肉における苦しみです。神様の愛に反する全ての思いを十字架につけること、それが私たちの負うべき十字架の姿なのです。
私たちは罪人なんだから、当然罪を犯すのだというのではありません。肉における苦しみとは、毎日、自分を捨て、自分を十字架につけることです。聖書に反する思いや衝動が、私たちの肉の性質から湧き上がってくるとき、そのような肉の思いを十字架につけること、そのような衝動や自己を神様の力によって十字架につけること、そしてもはや、自分が生きるのではなくて、イエス様が生きて下さる、そういう経験、このことを実際に体験することなんです。これはいわば、救いの科学なんです。
聖書には罪に勝利するこのような明らかな御言葉があるのに、多くの人はそれを体験しないために、救われていると言いながら、絶えず罪に負け失敗を繰り返してしまうのです。