デビット・カン著 福音の道しるべ : 聖所に見る救いの青写真 104
VI.罪の除去
あるとき一人の兄弟が、集会後、私に近づいてきた。彼は自己紹介をし、自分はSDA教会に改宗したばかりであると言ってから、次のように尋ねた。「先生、罪の赦しと罪の除去との違いは何でしょう?もし違いがあるとしたら、罪が消し去られるときには何が起こるのですか?」それから私たちは、その主題について二時間ほど研究したが、彼はその事に非常な関心を抱いているようであった。その後、彼は目を輝かせて私にこう言った。「これは非常に重要かつ特別な真理です。なのに、なぜ教会では、あまり詳しく教えられないのですか?」
以来私は、これまで以上に注意を払って、一般教会員がどれほどこの事を理解しているかを知ろうとし、時折このテーマを説教に取り入れてきた。
教会員とのたくさんの接触を通して、私は、多くの人は罪の除去の意味を理解しておらず、ましてや実生活で体験している人はほとんどいないことを悟るに至った。罪の除去は、贖罪の日と直接に関係している。実体としての贖罪の日に生存している残りの教会は、自分たちの名を命の書にとどめておくために、この経験を持たなくてはならない。天に移されるべきクリスチャンは、このすばらしい祝福にあずかるであろう。
すべてのクリスチャンは、この経験を望むはずである。しかし、たとえ心から望んだとしても、十分ではない。私たちは、神が私たちの罪を消し去ることを可能にする、神との経験を持たなくてはならない。この問題に含まれる意味は、きわめて重大である。しかし、聖徒たちのために用意された、贖いの仕上げについての研究は、大きな喜びをもたらすことだろう。神の慈愛は、実に偉大である。
新生への道 : 悔い改め 10
悔い改めない人は、クリスチャンと呼ばれる人のことを口実にして、「私もあの人たちと同じくらい善良だと思う。あの人々が自分よりも真面目で、慎重に行動しているとは思われない、私と同じように快楽を愛しているし、わがままもする」と言います。こうして彼らは他人の欠点を拾い上げて、自分の義務を行わなくてもよい言いわけにしているのです。しかし、他人の罪や欠点は言いわけにはなりません。なぜなら、主は私たちに、間違いの多い人間を模範としてお与えになったのではないからです。私たちの模範として与えられたのは、傷のない神のみ子です。クリスチャンの間違いをあれこれいう人こそ、より良い生活、より良い模範を示さなければなりません。クリスチャンとは、こうでなければならないと、それほど高尚な意見を持っているとするならば、彼らの罪はかえってそれだけ大きいのではないでしょうか。なぜなら、彼らは正しいと知りながら実行しようとしないからです。
延ばさないように気をつけましょう。罪を捨てることを延ばし、キリストによって心を清めていただくことを遅らせてはなりません。この点で幾千という人が誤り、永久に滅びてしまいました。私は今、人生の短いことや、はかないことを言おうというのではありませんが、ここに人の気づかない恐ろしい危険があります。それは、聖霊のささやきに従うことを延ばし、罪の生活を続けていくという恐ろしい危険です。これは実に恐ろしいことです。たとえどんなに小さくても、罪にふけることは、永遠に失われる危険を犯しているのです。私たちが打ち勝たないものは、やがて私たちを打ち破り、ついには私たちを滅びへと引きずりこむのです。