デビット・カン著 福音の道しるべ 105
悔い改めた罪はすべて消し去られると、聖書は約束している。「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」(イザヤ43:25)。罪を悔い改めたダビデは、次のように祈った。「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。・・・み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください」(詩篇51:1,9)。
罪の除去という言葉を耳にすると、一般的に二つの場合が連想される。「罪の赦し」か「覚えの書から罪の記録を消去すること」である。
SDA教会員は、聖所のメッセージを知っているがゆえに、後者を連想するようである。聖所を通して、聖書は、信仰による義の経験として救いの段階を説いている。その経験の究極が、罪の除去である。
新生への道 : 悔い改め ⑪
アダムとエバは、禁断の木の実を食べるということは、ほんの小さいことだから、神が宣言されたような恐ろしい結果とはなりえないと、自ら思い込んでしまいました。しかし、この小さなことが神の変わることのない聖いおきてを犯し、人を神から引き離し、この世に死と、数限りない災いをもたらしたのです。それ以来、いつの時代にも嘆き、悲しみの声が上がり、すべての被造物が人間の不従順の結果、うめき苦しんできたのです。天そのものさえ、人間の神への反逆の結果を感じました。カルバリーの十字架は、神のおきてを犯した罪をあがなうため払われなければならなかった驚くべき犠牲の記念碑として立っています。ですから、罪を小さいことのように軽く考えてはならないのです。
どんな罪の行為でも、また、キリストの恵みをおろそかにして拒んだりするどんな行為でも、その一つひとつが自分にまた返ってきます。そして心はかたくなになり、意志の力は衰え、理解力は麻痺し、ますます聖霊の優しいささやきに従わないようになるばかりでなく、従うことができないようになってしまいます。
けれども、世の中には、悪い行為を変えようと思えばいつでもできる、また、憐みの招待を軽んじながら、なお聖霊の声に耳を傾けることはいつでもできると思って、良心の呵責をしずめようとしている人々がたくさんいます。彼らは、聖霊の恵みを侮り、悪魔に加担していても、いよいよ動くに動けない窮地に陥ったときには、方向を変えることができると思っています。しかしそれはそうたやすくできるものではありません。一生涯の経験や教育は、すっかり人の性格を形づくってしまっているので、そのときになって、イエスのご品性を受けたいと望むことはほとんどないのです。