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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

キリスト再臨の前兆  デビット・カン講演 第16回

2012年04月09日 | 日記



   ひまわりさんより(4月9日)

≪安息日について 2 ≫ 30~40代では、心の奥底では、本物のクリスチャンではないと感じながら、
子供たちには「安息日は守らねばならない」と教え続けていました。
そして、50代前半で家庭がめちゃめちゃになり、そのすべての原因は、自己に死んでおらず、
自分の力で安息日を守ろうとしていることにあると気づきました。
そして、どうしたら自己に死ぬことができるのだろう。どうすればいいのだろう、と考え、悩み続けていました。
50代半ばで、どんなに努力しても、自己に死ぬことはできない、もうだめだ、というところまで行き着いたとき、
私の代わりに、私の死を死んでくださったイエス様に出会い、感謝の心から安息日を守ることができるようになりました。
50代後半の現在では、デビット・カン先生のメッセージを何回も繰り返し聞いているうちに、
安息日の深い意味を理解するようになり、今、私にとって、安息日は神様との関係そのもので、
生きていることのすべてになっています。

   後の雨の注ぎを求める(デビット・カン講演 16 )

ユダヤ人の教会が堕落した時、イエス様が別のグループを起こされました。
小さなグループでした。少数の人たちが、二階の部屋に集まっていたのです。
そしてペンテコステの日にだいたい120人のたちが集まっていました。
漁師だった人、取税人だった人、教会から除名された人たち、追い出された人たち。
女性もそこに集まっていました。
そして、あのペンテコステの日に、一般のユダヤ人達は、教会に行って祭りを祝おうとしていました。
そのとき彼らは炎の玉が天から落ちてくるのを見ました。
一般ユダヤ人たちは、あの神の栄光が、自分たちの神殿の至聖所に降りてくるのだと思いました。
ところがその神殿を通り過ぎて、あの二階座敷におりたのです。
弟子たちがいた、二階座敷に落ちたのです。「あそこに誰がいるんだ。
天からの炎が、どうして自分たちの聖所に下りなかったのだろう。
その代わりに、あそこの二階の小さな部屋に降りてしまった」。
これはショッキングなことでした。
そして、彼らが無教養だとみなしていた人たちが、二階座敷から出てきて福音を説き始めたんです。聖霊に満たされて! 
同様の歴史が私達の教会においても繰り返されることでしょう。
私が言わんとしていることがおわかりですか。皆さんはその聖霊を受ける用意ができているでしょうか。
真の福音の経験を持っておられるでしょうか。毎日毎日、後の雨の注ぎを求めているでしょうか。
時は短いのですよ。皆さん。




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