ひまわりさんより(4月9日)
≪安息日について 2 ≫ 30~40代では、心の奥底では、本物のクリスチャンではないと感じながら、
子供たちには「安息日は守らねばならない」と教え続けていました。
そして、50代前半で家庭がめちゃめちゃになり、そのすべての原因は、自己に死んでおらず、
自分の力で安息日を守ろうとしていることにあると気づきました。
そして、どうしたら自己に死ぬことができるのだろう。どうすればいいのだろう、と考え、悩み続けていました。
50代半ばで、どんなに努力しても、自己に死ぬことはできない、もうだめだ、というところまで行き着いたとき、
私の代わりに、私の死を死んでくださったイエス様に出会い、感謝の心から安息日を守ることができるようになりました。
50代後半の現在では、デビット・カン先生のメッセージを何回も繰り返し聞いているうちに、
安息日の深い意味を理解するようになり、今、私にとって、安息日は神様との関係そのもので、
生きていることのすべてになっています。
後の雨の注ぎを求める(デビット・カン講演 16 )
ユダヤ人の教会が堕落した時、イエス様が別のグループを起こされました。
小さなグループでした。少数の人たちが、二階の部屋に集まっていたのです。
そしてペンテコステの日にだいたい120人のたちが集まっていました。
漁師だった人、取税人だった人、教会から除名された人たち、追い出された人たち。
女性もそこに集まっていました。
そして、あのペンテコステの日に、一般のユダヤ人達は、教会に行って祭りを祝おうとしていました。
そのとき彼らは炎の玉が天から落ちてくるのを見ました。
一般ユダヤ人たちは、あの神の栄光が、自分たちの神殿の至聖所に降りてくるのだと思いました。
ところがその神殿を通り過ぎて、あの二階座敷におりたのです。
弟子たちがいた、二階座敷に落ちたのです。「あそこに誰がいるんだ。
天からの炎が、どうして自分たちの聖所に下りなかったのだろう。
その代わりに、あそこの二階の小さな部屋に降りてしまった」。
これはショッキングなことでした。
そして、彼らが無教養だとみなしていた人たちが、二階座敷から出てきて福音を説き始めたんです。聖霊に満たされて!
同様の歴史が私達の教会においても繰り返されることでしょう。
私が言わんとしていることがおわかりですか。皆さんはその聖霊を受ける用意ができているでしょうか。
真の福音の経験を持っておられるでしょうか。毎日毎日、後の雨の注ぎを求めているでしょうか。
時は短いのですよ。皆さん。