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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 108

2013年09月07日 | 日記

   

     デビット・カン著 福音の道しるべ 108

 現時点で、すでに第二の論点は、部分的に答えが出ている。私たちの罪は、いつ消し去られるのか? 神は、私たちが罪を告白するその瞬間に罪を消し去られる、と信じる人たちがいる。聖霊が罪を自覚させ、それに応じて私たちが罪を告白し捨て去るにつれて、神は罪を一つひとつ消し去って下さる、との立場をとる人たちもいる。しかしながら、どちらの見解も、聖所のメッセージや預言の霊と調和していない。先述したように、罪の除去は、裁きの終わりになされるのである。ペンテコステの聖霊降下にあずかった使徒ペテロは、罪の除去について次のように述べた。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである」(使徒行伝3:19-20)。罪の除去を経験するために、私たちは悔い改め、回心し、罪から立ち去らねばならないと、ペテロは説明している。ただし彼は、来たるべき慰め〔活気づけ〕の日を指しながら、これを未来の出来事として描いている。この活気づけの日とは何なのであろう?

「福音の大いなる働きは、その開始を示した神の力のあらわれより劣るもので終わることはない。福音の開始にあたって秋の雨となって成就した預言は、その終局において、春の雨となって再び成就するのである。これが、使徒ペテロが待望した「慰めの時」である。彼は次のように言った。「だから、〔調査審判において〕自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、・・・イエスを、神がつかわして下さるためである」(『各時代の大争闘』下巻382ページ)。

   新生への道 : 告 白  ①

 「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表してこれを離れる者は、あわれみを受ける」 

                     (箴言28:13)

 神の憐れみを受ける条件は簡単で、しかも正しく合理的です。神は、私たちの罪が赦されるために、何か面倒なことをしなければならないとは要求なさいません。遠くまで巡礼の旅に出たり、痛々しい苦行をして、天の神に良く思われようとしたり、罪の償いをしようとしなくてもよいのです。ただ罪を言いあらわして、罪から離れる者はあわれみを受けるのです。

 使徒ヤコブは、「互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい」(ヤコブ5:16)と言っています。神のほか罪をゆるすことはできませんから、罪は神に告白しなければなりません。そして、あやまちは互いに言いあらわすのです。もし友人や隣人をつまずかせたならば、自分は悪かったと認めてあやまるのです。そして、それをこころよく赦すのはその人の義務です。そうしたあとで神の赦しを求めるのです。というのは、あなたが傷つけた兄弟は神のものですから、彼を傷つけたことは、彼の創造主、またあがない主に対して罪を犯したことになるからです。そしてこのことは、真の仲保者であり、大祭司であるイエスの前に持ち出されます。主は、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったがすべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われ」(ヘブル4:15)たのですから、どんな罪の汚点をも清めてくださいます。




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