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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 107

2013年09月06日 | 日記


  デビット・カン 福音の道しるべ 107

「真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じた者は、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の赦しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである」(各時代の大争闘下巻215-216ページ)。

「調査審判と罪をぬぐい去る働きは、主の再臨の前に完了しなければならない。死者は、書物に記録されたことによって裁かれるのであるから、彼らが調査されるその審判が終わるまでは、彼らの罪はぬぐい去られることはできない。しかし、使徒ペテロは、はっきりと、信者の罪は、「主のみ前から慰めの時が」くるときにぬぐい去られる。そして、「キリストなるイエスを、神がつかわして下さる」と言っている(使徒行伝3:19-20)。調査審判が終わると、キリストは来られる。そして、たずさえて来た報いを、それぞれの人の行いにしたがってお与えになるのである」(各時代の大争闘下巻218ページ)。

新生への道 : 悔い改め 13

 世には宗教を頭だけで受け入れ、敬虔の形だけを受け入れて、心の清められていない人が多くあります。私たちは「神よ、わたしのために清い心をつくり わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:10)と祈りましょう。自分の魂の状態を吟味し、身に危険が迫っていると思って、辛抱強く、また熱心でなければなりません。これは、神とあなたの魂との間で解決されるべき問題、永遠に決定すべき問題です。ただそうあればよいと望んでいるだけで、それ以上何もしないならば滅びるしかありません。

 祈りと共に神のみ言葉を研究してみるなら、み言葉は神のおきてとキリストの生涯を通して、聖めという大原則を教えていること、また、この聖さがなくては「主を見ることはできない」(へブル12:14)ということがわかってきます。またそれは、罪と赦しの道を明らかに示します。私たちはみ言葉を、神が魂に語られる声として、耳を傾けなければなりません。

 罪の恐ろしさを知り、自分自身をありのまま見つめるとき絶望してはなりません。キリストは罪人を救うためにおいでになりました。私たちは、何も自分で神とやわらぐのではありません。――ああ、なんと驚くべき愛でしょうか。――神はキリストによって、「世をご自分に和解させ」(Ⅱコリント5:19)られたのです。神は優しい愛をもって、道に迷った神の子らの心を求めておられます。世の中のどんな親であっても、神が救おうとしておられる人々を忍耐されるほどに、子供たちの失敗やあやまちを忍耐することはとうていできません。誰も、これほどの優しさをもって、罪を犯した者に訴えることはできません。また、これほど優しく、迷っている者を呼び返そうとした方はありません。神の約束や警告はみな、言葉で表すことのできない愛の息吹きにほかならないのです。

 悪魔が来て、あなたは恐ろしい罪人であると言うならば、あがない主を仰ぎその功績を語りなさい。キリストの光をながめることは大きな助けになります。自分の罪を認めると共に、敵には「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来て下さった」(Ⅰテモテ1:15)と告げなければなりません。そして、そのはかり知れない愛によって救われることを語りなさい。イエスはシモンに、借財している二人について質問されました。一人の負債は少額でしたが、もう一人は多額の負債を持っていました。しかし主人は二人とも許しました。さて、キリストはシモンに、どちらが主人を深く愛したであろうかとお尋ねになりました。シモンはそれに答えて「多くゆるしてもらったほうだと思います」(ルカ7:43)と答えました。私たちは罪深い者でしたが、私たちがゆるされるためにキリストが死なれました。彼の犠牲の功績は、私たちの代わりとして神のみ前にささげられるのに十分でした。最も多くゆるされた者が、キリストを最も多く愛するようになり、そのみ座の最も近くに立って、その大きな愛と犠牲をほめたたえるのです。私たちを救うために下げられた鎖の長さを知り、キリストが身代わりになって払われた限りない犠牲をいくらかでも悟るとき、心は言いつくせない感謝にあふれ、悔いくずおれずにはいられないのです。

 

 

 

 


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