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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

 人はなぜ苦しむのか 第25回

2014年09月27日 | 日記

 

  人はなぜ苦しむのか 第25回

苦難が分からない人は、真実の人生を知らない人と言えます。苦難を知らない人は、簡単に落胆して、苦しみの中にいる人の心も理解できず、慰めてあげることも出来ません。切り立った崖からまさに落ちそうになった経験がある人だけが、同じような経験を通過する人々を理解し、助けてあげることが出来るのです。皆さんは今、何かの問題を抱え、苦痛の中におられるでしょうか?もしそうであるなら、今神様は皆さんを、より良い奉仕のために備えさせておられるのかも知れません。心を謙遜に低めて、神様のみ心が何であるか、祈りながら考えてみてください。

ここまで私たちは、苦痛や病が起こる六つの原因について、聖書からの解答を見てきました。しかし、これまで探ってきた理由は実は特殊な場合であり、大部分の苦痛と病は、直接的にまたは間接的に、神様の律法や自然法則などを犯した結果として起きてきます。多くの場合、人は自分の蒔いたものを刈り取ることになるのであって、苦痛の根本原因は自分自身が提供しているのです。

神様が直接手を下して、ノアの洪水を起こされたり、ソドムとゴモラの町を焼き滅ぼされたり、またエジプトのパロの軍勢が紅海で沈められたりする場合もありましたが、そのような時は、神様の明白な目的と正義のもとで行われます。神様の怒りの杯があふれ、滅亡に至ったことが聖書に記されていますが、それは極めてまれであり、たいていの場合、苦痛の原因はその人自身にあります。

   絶望から希望へ 第27回

 御霊によって歩む

皆さん、今すぐにでも「ああ、主よ、今主のみ前に近づきます」と言いましょう。もしそういう心が生じていないとすれば、自分の罪を捨てたいと思う心がないからです。「主よ、ちょっと待って下さい。これだけをやってから罪を止めたいと思います。今回この事業を始めましたから・・・。息子が大学に入ったら・・・」。私たちが聖霊の導きに従わないのなら、神様を信じていると言っても、それは家を出た放蕩息子と同じです。豚を飼うようになった放蕩息子です。いくらお金をもうけていい暮らしをしていても、この世の中でもっとも貧しい憐れむべきものです。

ガラテヤ人への手紙の言葉です。「私は命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)。アーメン。この言葉こそが、ローマ8章の言葉そのものです。ローマ7章の場合は、いつも肉に負けて生きている者です。心に望みはありますが、それを行えるほどの力はありませんでした。しかし、ガラテヤ書では、私たちがみ霊によって歩くならば、肉の欲することを満たさないとあります。17節では「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互いに相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる」(ガラテヤ5:17)。


人はなぜ苦しむのか 第24回

2014年09月26日 | 日記

  

   人はなぜ苦しむのか 第24回

    *苦痛は特権である

ある人は、キリストと共に苦難にあずかるというようなことを聞くと、負担に思われるかも知れません。もしそうだとすれば、使徒パウロの次の言葉に耳を傾けるべきです。「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである」(ピリピ1:29、30)。パウロはここで、苦難はクリスチャンの特権であり賜物であると言っています。クリスチャンにとっては、キリストを信じて救われることも特権ですが、イエス様の真理のために苦難を受ける特権も、同時に受けるのです。苦難をこのような観点から見るクリスチャンが、あまりにも少ないように感じます。もし皆さんが、苦難をこのような観点から見ることが出来るなら、皆さんは真理のゆえに、み名の栄光のために苦難を受けているのですから、あらゆる苦難の中で、神様に喜ばれる者とされているのです。

     絶望から希望へ 第26回

自分のプライドは捨てずに、常に私たちは、嫉妬し、非難し、陰口を言ったりしてきました。そのような姿を、サタンはどんなにか喜んでいたことでしょう。私たちは神様を侮った者でした。神様が与えてくださった時間、タレント、物質、才能、健康、知識、それらを皆さんどのように使ってきましたか?自分を喜ばせるために、利己的な満足のために生きてきたのではありませんか。主から与えられ預けられたものを、全部自分のために使い果たして、ここまできたのではありませんか。皆さん、これ以上罪の奴隷となって生きる必要はありません。私たちが遺伝的に受け継ぎ、また後天的に習慣となっていた罪があったとしても、もうこれ以上罪に溺れて生きる必要はありません。

 


  人はなぜ苦しむのか 第23回

2014年09月25日 | 日記

 

  人はなぜ苦しむのか 第23回

 人間は自分が理解し、体験した範囲の中で他人を助けることができます。闘病生活の経験がない人は、病人の感じるつらさや絶望に対して、同情は出来ても共感することは難しいのです。イエス様は「主はご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(へブル2:18)。イエス様は人類の代表として、人間が直面するあらゆる苦難の頂点を経験された方ですから、他の誰よりも私たちを一番効果的に慰めて下さることの出来る方です。ですからイエス様は、苦難の王様であり、同時に慰めの王様でもあられます。

 パウロが熱望していたのは、まさしくこの経験でした。彼はキリストが経験されたその方法以外には、他の人々を慈悲深く、恩恵の内に育て上げることができないという事実を悟りました。また彼は苦難の経験を通して、キリストと共同の苦難を味わうことを望みました。「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり」(ピリピ3:10)。このような理由のゆえに、パウロは苦痛の中にあっても喜ぶことが出来、取り去られなかった「肉体のとげ」に対しても、満足することが出来たのでした。

  絶望から希望へ 第25回

 皆さんの中で、今まで一回も自分の心を屈服させて、イエス様の前に差し出したことのない人おられますか?私たちのあるがままの罪を神様に差し出して、悔い改めたことのない人がおられますか?天のお父様は私たち一人ひとりを呼んで下さいます。「来なさい。時だよ。もうこの歴史は終わる。最後の艱難は近づき闇が来る。迫害はみんなに及び、獣の迫害は本当にみんなに及ぶ。だからそのままではいけない。私に来なさい」。皆さん、主のみ前に行くべきです。イエス様に近づくために、この場にいるのではないでしょうか。しかし、体は近づいていても、皆さんの心は近づいていないかもしれません。本当に主に近づいて下さい。そこに、まことの安らぎがあります。そこにだけ、本当の安らぎがあります。そこでまことの自由を得ることが出来ます。私たちは逃げ出す必要はないのです。私たちがあるがままに近づいていけば、神様は、聖霊様を私たちに注いで下さいます。  

 私たちはこれまで、主に栄光を帰すことが出来ませんでした。私たちは、主のお姿を反映することなく、時には隣人と争ったりして、その姿を見た人々に対して神の栄光を誤って伝えてきました。どれだけ神様を侮ってきたことでしょう。私たちが大声を出して子供たちを怒った時、サタンは拍手をして喜んだでしょう。子供たちを理解してあげずに、何とか権威で押さえようとしていた時、「ああ、うちのお母さんは神様を信じている。それなのにとっても怒っている。私、決して神なんか信じない」。そのように子供たちは思っていたはずです。


人はなぜ苦しむのか 第22回

2014年09月24日 | 日記

  人はなぜ苦しむのか 第22回

ここでパウロは、苦難を他の人々の益のために受けたものと描写しています。パウロは他人の慰めと救いのために苦難を受けました。彼は自分自身が受けている苦難を通して、他の人々をより効果的に助けることが出来る者として変えられることを知っていたので、苦難の最中にも関わらず喜ぶことが出来ました。彼は自分が受けている苦痛に心を奪われるよりは、苦痛を通して自分自身がさらに同情心が深くなり、慈悲深い者に変えられていく恵みに対して感謝していました。パウロは、苦痛を通して苦痛の中に耐えている者たちの心情を、より正確に知ることが出来るようになり、さらに有能な伝道者になることが出来たのでした。 

苦難は奉仕のために必要な準備の一つの過程です。まさしくその理由のために、キリストは苦痛を受けられました。「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである」(へブル2:18)。イエス様が、堕落によって弱くなった肉体をお取りになってこの地へ来られたのは、人類に奉仕するためでした。「彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる」(へブル5:2)。まさしくこのことのゆえに、キリストは私たちの大祭司であり、仲保者となることが出来たのです。「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源とな」(へブル5:8,9)られました。

   絶望から希望へ 第24回

間違った学びをたくさんしてきたので、罪に勝利することが出来なかったのです。「いくら努力しても感情をコントロール出来ません」、と言ってきましたけれども、これからはそういう言い訳はいりません。聖霊の能力、働き、力は、創造の力です。神様は、一言で太陽を創り、月と星を創られた方、私は創造主であると言われる方です。だからこそ私たち一人ひとりを創り変えて下さるのです。「だからあなた方は私の力を信じて、悟れ」と言われます。私たちが悔い改めの心を持って主のみ前に近づき、「主よ、どうぞ私を助けてください。聖霊様、私の心を支配して下さい」と祈るなら、そのようにして下さる方なのです。

皆さんの心の中に誘惑がありますか。試みがありますか。心の奥に怒る気持ちがありますか。すべてを許してもあの人だけは許せない、そういった思いがありますか。そのような時、「主よ、どうか私を助けて下さい」と祈って下さい。その時聖霊様は、直ちに私たちに助けを下さいます。聖霊に従って生きるということは、難しい事ではありません。誰でも皆「主の御名を呼び求める者は」、どのようになりますか。「すべて救われる」(ローマ10:13)と言われています。皆さんが主のみ名を呼ぶ時、罪からの救いを受けるのです。これこそが聖霊に従って生きる人生です。


人はなぜ苦しむのか 第21回

2014年09月23日 | 日記

  人はなぜ苦しむのか 第21回

6、おきてにそむいた結果として来る苦難

コリント教会に送られた二回目の手紙において、パウロは自分の信仰が苦難を通してどのように昇華されたかを述べています。パウロは、苦難の中で神様からいただいた慰めの経験を、他の人にも分け与えたいという熱望で満ちるほどに燃え上がっていきました。それらの経験は、パウロの奉仕において新たな章を開くものでした。彼は自分自身が苦しみを多く受ければ受けるほど、試練や悲しみの中にある人々を、より深く理解し助けることができるようにされることを、悟っていたのでした。イエス様が、苦難を通して他人をどのように助け同情するかを学ばれたように、パウロもまた苦難を通して、他の人々を助けるキリスト者としての資質を整えられたのでした。

「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。だから、あなたがたに対していだいているわたしたちの望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共にあずかっていることを知っているからである」(Ⅱコリント1:3~7)。

   絶望から希望へ 第23回

皆さん、そのようなものから目を覚まして、分別する霊を持って下さい。「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外ないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:12~14)肉に従って生きる者は、どうなると言っていますか。「必ず死ぬ」と言っています。毎日罪を犯して生きなさいと、どこに書いてありますか。聖書には、罪から開放され勝利して、聖霊に従うことが、当然であると書いてあります。このように勝利して生きる者は何と言われていますか。彼らこそ「神の子である」と言われています。神様のみ言葉ははっきりそう言っています。