福田安敏先生は光安の若松高校先輩。二人の歳の差は15歳ある。げってん(その4)で紹介したとおり、光安が勝手に画廊顧問に決めて画廊運営の相談に乗ってもらっている人です。その先輩から相談を持ちかけられました。光安はどんな難しい相談でも応じるつもりで、むしろ相談されることを喜んで話を聞きはじめます。
「光安君、先輩の遺族を捜しているんだがねえ」
昭和2年(1927年)から12年(1937年)まで旧制若松中の美術教師をしていた渡辺武比古先生は、福田先生の東京美術学校(現東京芸大)の先輩に当たります。昭和13年(1938年)渡辺先生は肺結核で倒れます。死の直前、同中学校・美術担当の後を頼むと同時に、借金返済に充てて欲しいと水彩画約60点を福田先生に預けてその年の春逝きました。
福田先生はその年の夏、遺言どおり若松公会堂で遺作展を開きました。愛好家や職員、それに父兄が協力して大半が売れて奥様に代金を渡しましたが、売れ残った16点の作品も何かの機会に売ってやろうと預かっているうちに兵役に召集されてしまいます。日中戦争から太平洋戦争を生きぬいて復員したときは渡辺先生の遺族の消息は掴めなくなっていました。
「16点の中には、自画像も含まれており、何とか遺族の元に返してやりたいんだ」
「よし、分かりました。それなら渡辺先生の遺作展をウチで開いてみましょう。“遺族を捜している”という案内状を同窓生に出したら、きっとよい知らせがありますよ」
と、引き受けることが先に決まっていたように再度の遺作展の企画が始まりました。
ところが
「渡辺先生の奥さんとはよく話したものの、出身どころか名前さえも聞かずじまい。渡辺先生と会っても話すのは芸術論ばかりだった」
と福田先生。光安も若松高校に若松中時代の在籍職員録を調べて欲しいと連絡をとるが、1962年の火災で焼失したとのこと。手がかりを捜せば捜すほど手がかりが遠のくありさまで、ついに渡辺先生の自画像だけが頼りとなりました。
1978年2月、遺族捜しの「渡辺武比古遺作展」が始まりました。
「光安君、先輩の遺族を捜しているんだがねえ」
昭和2年(1927年)から12年(1937年)まで旧制若松中の美術教師をしていた渡辺武比古先生は、福田先生の東京美術学校(現東京芸大)の先輩に当たります。昭和13年(1938年)渡辺先生は肺結核で倒れます。死の直前、同中学校・美術担当の後を頼むと同時に、借金返済に充てて欲しいと水彩画約60点を福田先生に預けてその年の春逝きました。
福田先生はその年の夏、遺言どおり若松公会堂で遺作展を開きました。愛好家や職員、それに父兄が協力して大半が売れて奥様に代金を渡しましたが、売れ残った16点の作品も何かの機会に売ってやろうと預かっているうちに兵役に召集されてしまいます。日中戦争から太平洋戦争を生きぬいて復員したときは渡辺先生の遺族の消息は掴めなくなっていました。
「16点の中には、自画像も含まれており、何とか遺族の元に返してやりたいんだ」
「よし、分かりました。それなら渡辺先生の遺作展をウチで開いてみましょう。“遺族を捜している”という案内状を同窓生に出したら、きっとよい知らせがありますよ」
と、引き受けることが先に決まっていたように再度の遺作展の企画が始まりました。
ところが
「渡辺先生の奥さんとはよく話したものの、出身どころか名前さえも聞かずじまい。渡辺先生と会っても話すのは芸術論ばかりだった」
と福田先生。光安も若松高校に若松中時代の在籍職員録を調べて欲しいと連絡をとるが、1962年の火災で焼失したとのこと。手がかりを捜せば捜すほど手がかりが遠のくありさまで、ついに渡辺先生の自画像だけが頼りとなりました。
1978年2月、遺族捜しの「渡辺武比古遺作展」が始まりました。