昭和61年(1986年)姫野陸郎は、マルミツ画廊では初めての個展を開いた。油彩と水彩の二彩展であった。
この展覧会は筆者自身の姫野先生と出会いでもあった。
げってんこと光安鐵男の書いた「ふり返ると四半世紀 マルミツ画廊よもやま話 11」(西日本新聞)で、姫野陸郎をとりあげているので抜粋して紹介する。
髪には櫛気がなくふさふさとしていますが、白いものが目立ち、黒光りしている広い額を際立たせています。眉間の縦皺は双眸の光を強くして、体躯に釣り合いな見事な鼻柱、口元に蓄えている髭で、画聖人姫野陸郎さんの精悍な風貌を決めています。
別府鉄輪の自宅にて
韓国忠清北道で生まれた先生は、日本人学校長だった厳しい父のしつけで、迷子札を胸につけ、祖父のいる大分まで一人旅をさせられたのは小学校一年生の時です。幼いころから絵が好きだった姫野少年は京城師範、東京高等師範と進み、板倉賛治、寺内万次郎、石井柏亭、宮本三郎画伯などに師事、絵画の研鑽を重ねます。
「そのころは大作家を夢見た」と話していた先生ですが、運悪く戦後の飢餓時代です。
「まず生活だ」と、父の郷里大分で高校教師として奉職したのがいつの間にか、だらだらと20年過ぎていました。
「やけ酒に失った20年が不用意に落とした宝石のように遠い過去に輝いて見えます。弊店間際に飛び込んだお客のようで、より美しいものを早く見つけ出したい気持ちです」
不惑も過ぎて一念発起、絵筆一筋に挑みます。別府に居を構え、キャンピングカー(寝泊りできるワゴン車)を買い、
「死ぬまでに一枚でいい、無関心な人でも足を止めるような絵を描きたい」こんな思いで全国行脚に旅立ったのです。
行く先々で描いた絵は公民館、学校、農協、税務署など至る所で並べます。“旅の二彩展”と名付けている個展は油彩と水彩の小品ですが、とりわけ水彩に姫野陸郎の真骨頂が見られます。
「私はなぜか水と太陽の光がすきです」と言う先生が描いた絵からは川音が空気の静寂を破って聞こえるようで、透明水彩の極致です。
「古い画風で黙々駄馬のごとし」と語る先生の絵は現代絵画を見慣れている人たちにも小さくない反響を起こし、共感を呼び郷愁を覚えさせます
マルミツ画廊で先生が初めて個展を開いたのは三度目の日本縦断が終わり、お歳も還暦が三、四年過ぎた昭和61年のことです
個展の案内ハガキ
市内近郷に姫野ファンをもっている「二彩展」は遠くからの客も多く、絵に酔った人たちは教示しろとねだります。早速、若松で水彩教室の開講となりました。
「私が習った先生方は皆、この世を去っています。今まで私が学んだものの見方、考え方、技術などをお伝えします。お互い先が見えていますので効率よく勉強しましょう」と話し、眼光炯炯指導に熱がこもります。
・・・<中略>・・・
生徒の技量はめきめき上達、半年後に開いた「水彩作品展」には誰もが目を見張りました。しかし、このころ先生は50肩と足の痛みを訴えていましたが、その痛みが全身に回り、胃の手術を受けたのです。
小康を得ると病院を抜け出して、すぐ教室再開です。このときから文字通りの死闘が始まりました。
毎月、別府からワゴン車を運転して通ってくれましたが、だんだん病状が悪化、座薬で痛みを抑え、車に酸素ボンベを取り付けての遠征講義が一年以上続きました。別府の病院で意識の乱れた姫野先生が水彩教室のことばかり口走るうわ言を私が聞いたのは昭和63年10月のことでした。
この展覧会は筆者自身の姫野先生と出会いでもあった。
げってんこと光安鐵男の書いた「ふり返ると四半世紀 マルミツ画廊よもやま話 11」(西日本新聞)で、姫野陸郎をとりあげているので抜粋して紹介する。
髪には櫛気がなくふさふさとしていますが、白いものが目立ち、黒光りしている広い額を際立たせています。眉間の縦皺は双眸の光を強くして、体躯に釣り合いな見事な鼻柱、口元に蓄えている髭で、画聖人姫野陸郎さんの精悍な風貌を決めています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/30/24538da3e124828486e9f62d8f26823b.jpg)
韓国忠清北道で生まれた先生は、日本人学校長だった厳しい父のしつけで、迷子札を胸につけ、祖父のいる大分まで一人旅をさせられたのは小学校一年生の時です。幼いころから絵が好きだった姫野少年は京城師範、東京高等師範と進み、板倉賛治、寺内万次郎、石井柏亭、宮本三郎画伯などに師事、絵画の研鑽を重ねます。
「そのころは大作家を夢見た」と話していた先生ですが、運悪く戦後の飢餓時代です。
「まず生活だ」と、父の郷里大分で高校教師として奉職したのがいつの間にか、だらだらと20年過ぎていました。
「やけ酒に失った20年が不用意に落とした宝石のように遠い過去に輝いて見えます。弊店間際に飛び込んだお客のようで、より美しいものを早く見つけ出したい気持ちです」
不惑も過ぎて一念発起、絵筆一筋に挑みます。別府に居を構え、キャンピングカー(寝泊りできるワゴン車)を買い、
「死ぬまでに一枚でいい、無関心な人でも足を止めるような絵を描きたい」こんな思いで全国行脚に旅立ったのです。
行く先々で描いた絵は公民館、学校、農協、税務署など至る所で並べます。“旅の二彩展”と名付けている個展は油彩と水彩の小品ですが、とりわけ水彩に姫野陸郎の真骨頂が見られます。
「私はなぜか水と太陽の光がすきです」と言う先生が描いた絵からは川音が空気の静寂を破って聞こえるようで、透明水彩の極致です。
「古い画風で黙々駄馬のごとし」と語る先生の絵は現代絵画を見慣れている人たちにも小さくない反響を起こし、共感を呼び郷愁を覚えさせます
マルミツ画廊で先生が初めて個展を開いたのは三度目の日本縦断が終わり、お歳も還暦が三、四年過ぎた昭和61年のことです
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/f1/2d932eb8830d93a34151d925e8f759a0.jpg)
市内近郷に姫野ファンをもっている「二彩展」は遠くからの客も多く、絵に酔った人たちは教示しろとねだります。早速、若松で水彩教室の開講となりました。
「私が習った先生方は皆、この世を去っています。今まで私が学んだものの見方、考え方、技術などをお伝えします。お互い先が見えていますので効率よく勉強しましょう」と話し、眼光炯炯指導に熱がこもります。
・・・<中略>・・・
生徒の技量はめきめき上達、半年後に開いた「水彩作品展」には誰もが目を見張りました。しかし、このころ先生は50肩と足の痛みを訴えていましたが、その痛みが全身に回り、胃の手術を受けたのです。
小康を得ると病院を抜け出して、すぐ教室再開です。このときから文字通りの死闘が始まりました。
毎月、別府からワゴン車を運転して通ってくれましたが、だんだん病状が悪化、座薬で痛みを抑え、車に酸素ボンベを取り付けての遠征講義が一年以上続きました。別府の病院で意識の乱れた姫野先生が水彩教室のことばかり口走るうわ言を私が聞いたのは昭和63年10月のことでした。
当時の祖父のことが知ることができて嬉しいです。
その2も楽しみにしています(^ ^)