日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

趣味人間の人生の全て(その3)

2013-12-11 15:30:01 | Weblog
 「予備校生時代」
 1浪の時、九大の近くに間借りしました。周りに浪人生はいなく、大学生に囲まれて生活しました。これが大失敗でした。下宿するべきでした。
 遅れて、予備校英数学館の二次試験を受けました。運良く、前期も後期も、80名の東大クラスに入れました。席取り競争はなくて済みましたが・・・もう、浪人出来ないと強く思い込んでしまっていて、焦るばかりで、すればするほど、更に焦り、正に、受験一色って感じでした。
 年明けの最終の英数学館主催の西日本模試では、九大医合格確実、長崎医受験志望者の中では、1番でした。
 しかし、年が明けると、益々焦り・・・受験当日は、睡眠時間0時間に近い状態で・・・(学園紛争の中で)物々しい体制の中で、受験場所も変更となって、念願の長崎大学医学部を受けるも→得意の数学で大失敗して不合格になりました。Ⅱ期校の山口大学医学部も、前年同様に失敗して、二浪が決まりました。
 もう、こうなると、何をしてもダメになってしまう様な錯覚に陥っていました。
 福岡県立高校の中で一番レベルが高いと言われている「修猷館高校」の裏にある予備校「修猷学館」の入学試験を受けて無事合格しました。後で聞くと、理系の修猷館外生は、この年、殊更難関で、3倍の競争率で、九大の工学部よりも難しかったとのことでしたが・・・?!
 修猷館生と修猷学館生、総計1.000名中、最後の4回の模試の平均が23番で、修猷館の現役だと、3番でした。(この前年度、修猷館と修猷学館から、九大医100名中に22名も合格していましたが・・・)
 この2浪の時から、私の勉強法は、完全にリセットされました。浪人生活のコツを掴みました。アチコチ手を広げることなく、マイペースで確実に一歩一歩進むことが大切だと思いました。
 趣味として→星占い、手相、手品、人相学、兄弟学、姓名判断にも少し凝りました。
 1浪の時と違って、体力第一と考えて、朝、(同じ学校に通う浪人生と一緒に)マラソンをしました。走り切った後は、いつも、すがすがしい気持ちになりました。志賀島や大濠公園にも友達と行きました。佐伯の家にも夏休みと冬休みに帰りました(←1浪の時は、1度も帰りませんでした・・・)。
 2浪目で下宿先を決める時、既に決まっていたのに、下宿先の人に、私の趣味の手品を見せて、気に入られて、急遽、私が運良く代わりに入れました(←今、考えると、既に決まっていた人には、ホント申し訳なかったと思っています・・・)。
 この時から、芸や趣味は、身を助けると思う様になりました(←私の結婚式の時、福岡からわざわざ、この下宿のおじさんとおばさんに来て頂いて、有難い言葉を頂きました・・・←浪人の時に、お互いにそうすると約束を交わしていました)。
 大学入試では、国立大学のみ、6回受けました。2浪の時の5回目に、皆から九大医と思われていたのに、安全策で徳島医を受けて(修猷学館には、今まで、そこを受けた人がいませんでした・・・)、又落ちてしまって・・・→一体、何を信じていいのか分からない状態になっていました。
 もう、3浪までして浪人する気は全くなかったのですが・・・ひょんなことから6回目も、医学部を受けることになり、やっと合格しました。
 受ける時、受験と思わなくて、修猷学館での第7回目の模試と思って受けました。問題も、模試に近くて、普段通りに出来ました。この年、修猷館と修猷学館から、鹿児島大学医学部に7名合格していました。
 学園紛争で、1カ月遅れで講義が始まり、その分、夏休みが短縮されました。
*写真は、大分市戸次(へつぎ)の秋の祭りで演奏している私です。

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趣味人間の人生の全て(その2)

2013-12-11 13:57:22 | Weblog
 「鶴谷(つるや)中学校時代」
 趣味は、将棋、囲碁、ピアノ、ギター、作曲、手品、手相。
 全校生徒の前で、ギター演奏をしました。NHKの貴方のメドレーに出して(←姉が作詞、私が作曲)、見事に落ちて、音楽の道を諦めました。
 中学2年生の1学期まで、受験勉強らしきものは、全くしませんでした。円周率を100桁まで言って、皆を驚かせていましたが・・・(←兎に角、人を驚かせるのが昔から好きだったんですね?!)
 英語が好きで、英語の教科書の文章を丸暗記していました。英語クラブと軟式テニスクラブに所属していました。第2回の英語検定試験を中学3年生の初めに受け、かろうじて、何故か3級に合格(←完全に落ちたと思っていましたが・・・)。この時、全国平均の合格率は、30%台で、1学年500人以上を有する佐伯一のマンモス校から10人受けて6人合格し、その時、塾に全く通ってなくて合格したのは自分だけで、それで自信が少し持てる様になりました。
 中学2年の2学期から、受験勉強(第1次ベビーブームの時)に入りました。受験勉強する上で、塾に行ったり、家庭教師に付いたりすることは全くなくて、お金の要らない方法、つまり、職員室によく行って、しつこく先生に質問していました。それも、一度に、質問事項を沢山まとめて、紙に箇条書きに書いて、昼休みに行きました。先生がトイレから出るのを待って質問していたこともありました(私が、授業終了後に質問するのを知ってか、サッと走って帰る先生もいましたが・・・?!)。

 「佐伯鶴城(さいきかくじょう)高校時代」
 私の高校3年間は、体力落ち、灰スクールで、この頃、大分県が全国で一番受験勉強をしていたらしく、正に、受験一色でした。当時、大分県立U高校の東大留年率は、全国一に、大分県の九大留年率は、九州一になっていて、マスコミで、話題になっていました。
 そんな中でも趣味を捨てることはなく、囲碁、ピアノ、手品、手相・・・と、楽しくしていました。芸術は、美術でなく書道を選択しました。1年の時、コーラス部に所属していました。自分が作曲した曲を、高校2年の時に、全校生の前で、自分でギターを弾いて歌いました(題は”小さな願い”・・・←ホントは、大きな願いって感じですが・・・?!。
 高校の成績は・・・好きな科目しかしないと言う、受験する上では最悪の方法で・・・読書の習慣がなかったので、国語が全くの不得手で、入学しての初めの実力試験で45点、3年生の最後の実力試験で、37点でした。社会も不得手で、世界史を選択しましたが、最後の実力試験で、48点(←100点満点、受験まで、完全に間に合いませんでした・・・)。
 受験時、数学と物理は、伸び切っていて、浪人して、国語と社会が人並みの点数となりました。それでも、高校3年生の時に実施された県下一斉模試の3回の平均では、全県下で250番となっていましたが・・・。
 現役の時、国立1期の医学部を受けるのに、学校からは、「長崎大では、5分5分だろう、徳島大だと(国語と社会の配点が少ないので)ほぼ確実」と言われたので、浪人だけは避けたかったので、長崎を諦めて徳島に変更し、落ちるイメージは全くありませんでした。(姉からは、受験前に太ったのはアンタだけよ・・・と言われていましたが・・・?!)
 大学に入ったら、剣道部に入って、体を鍛え、囲碁部に入って、頭を鍛え、真剣に勉強して、阪大の大学院に入って、将来は、大学に残って研究医になろうとの夢を膨らませていました(←ちゃんと当時の日記に、そう記載されています!)。
 しかし、化学での記入の仕方のケアレスミスで、それも、1点差でなく、0.5点差で、浪人することになりました。しかも、2浪も。
 この時、クラスの担任の先生が、付き添いで付いて来てくれたにも関わらず、クラスから徳島大の医学部を現役5人も受けて、5人とも落ちてしまいました。担任の先生も、こんなこと、初めてと言われていましたが・・・?!

*写真は、福岡県柳川市の夏祭りで演奏している私です。

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趣味人間の人生の全て(その1)

2013-12-11 12:40:17 | Weblog
 私は、「趣味人間」です。趣味が人を造り、人間関係を豊かにすると思っています。「天は、趣味の上に人を造り、趣味の下にも人を造る」と信じています。
 常に、趣味にして生きて、人生を深く味わう。仕事も、人と違った感じにして、趣味にしてしまう。そんな生き方で、私の人生が途中から来ています。たった一度のこの世の人生です。趣味に没頭していると、(人の悪口を言ったり、人をうらやんだり、いつまでも恨んだりする様な)くだらない事に関心を持たなくなり、自分に自信が持てて、個性的に生きて行くことが出来ます。
 いろんな考え方があるでしょうが、私は、そう信じ切っています。以下に、「趣味馬鹿人間」って感じで、趣味に生きて、趣味の中でこの世を終えようとしている(葬儀も、個性的に楽しく・・・?!)、変わり者のある人間の人生が記載されています。貴方のこれからの人生の参考に少しもならないと思いますが、馬鹿な奴だと思いながらも、最後まで読んで頂ければ幸いに存じます。

 「胎児期」
 私が母のお腹の中にいた時、私をこの世で生を授けるかどうか、両親共、経済的な理由で悩みましたが、父の「せっかくだから・・・」との一言で、かろうじて産まれて来ることになりました(→父は、私の命の恩人でした!)。
 2浪して、私の医学部合格通知が来た時、長兄が、母に言いました、「お母さん、産んどって、良かったなあ・・・」と。
 私は、男男女男の4人兄弟の末っ子で、父と男兄弟3人とも、血液型は全てB型。(父は、大分師範卒、長兄は経済学部卒→文学部卒、次兄は工学部大学院卒、私は医学部卒、皆B型なのでナルホドと思いますが・・・小学校、高校、高専で教鞭、そして、私も大学で文部教官だったこともあるので、やはり、蛙の子は蛙かな?!)

 「乳児期」
 母の母乳がよく出ていて、隣の家の子と仲良く2人で、母の母乳を飲んで大きくなりました。
 私は、いつ見ても、寝てばかりの子だったらしいのですが・・・←大人になっても、睡眠時間が少なくて済むのは、この時の寝貯めのお陰でしょうか?!

 「幼児期」
 大きな病気をすることなく、元気な子で(5月生まれ)、音楽が流れると直ぐに体を動かして踊っていたそうですが(私は、よく覚えていませんが・・・)。幼稚園には通いませんでしたが、家の周りには、何処へ行っても、子どもがうじゃうじゃいました(←バングラデシュのダッカに行った時の光景の様に)。

 「小学校時代」
 趣味は、将棋、バイオリン、ギター、相撲、逆立ち(今も、少し出来ます・・・←しようとすると、家内がやめて!と言うので、部屋が狭いこともあって、していませんが・・・?!)。
 音感がいいからとの理由で、将来、音楽学校に行くように(男性の)音楽の先生から母が勧められていました・・・バイオリンもギターも、少しかじりましたが、不完全燃焼でした。私の次女がバイオリン、長男がギターを現在していることを考えると、私のDNAを引き継いているのでしょうか・・・?!
 大相撲をラジオで聴いたり(←当時は、まだ、テレビがあまり普及していませんでした)、テレビを他の所で見たりしていました。相撲が割と強くて、しばしば、友達と相撲を取っていました。この時、しっかりと腰を鍛えていたせいでしょうか、外来で長い間イスに座っていても、腰が痛くなること、ありませんが・・・?!
 押し入れにナイフで私好みに刻んだ棒を30本近く持っていて、学校が終わると、何処に行くにも、その中から一番気に入ったのを1本だけ選んで、いつも持ち歩いていました。
 クモを飼うのが大好きでしたが、アリも飼っていました。ニワトリ、メジロ、ネコ、ウサギ、(それ以前は、タヌキ、イヌ、ヤギも)飼っていました。
 寝る前に、枕元で、いつも世界地図を10分以上見て、寝ていました。いつかは、世界に出てやるぞって感じで、イメージを膨らませて毎晩見ていました。世界の国と首都が当時、全部言えて、学校で、世界地図を空で書いたことがあり、その時、担任が驚いていましたが・・・。(長女が、ニューヨークで開業して、カイロプラクターとして頑張っていますが、これも、私のDNAが成せる技?!)
 金魚の飼い方から、軍隊の階級まで、兎に角、何でも覚えることが好きでした。
 父(←当時既に、小学校校長でしたが)の仕事の関係で、蒲江(かまえ)小学校→西上浦(にしかみうら)小学校→佐伯(さいき)小学校と、3校も津がったことで、それなりのいい体験をしました。
 小学校2年生の時、蒲江小学校から西上浦小学校に転校し、その頃から吃音に悩み出し、中学、高校の時、更に、予備校とエスカレートして行き、人前で読んだり話したりするのが、最も厭なことになりました。それがなければ、どんなことにも耐えられると思う様になりました。全く精神的な要因で、大学に合格してからも続き、次第に軽減してきましたが、軽いのは、開業するまでありました。
 今は、全く逆になっていて、兎に角、喋りたくて仕方ありませんが・・・。

*写真は、佐伯市の夏の花火大会の前に、子ども達と太鼓を打っている私です(当時は、いつも大きな太鼓を打っていました)。

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