日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

趣味人間の人生の全て(その15)

2013-12-20 15:50:25 | Weblog

 「海外生活:イタリア→カナダ」

 2005/4/18~5/18の1カ月、イタリアのフィレンツェに滞在して、イタリア語の語学学校に通いました。
 「フィレンツェ」・・→とても素晴らしい所で、名所が凝集していました。それに、私が行った時期が最高でした。5月のフィレンツェは、何処を見ても絵になりますね。
 学校の講義も、充実していました(←日本人が少し多い感じでしたが)。学校は楽しくて良かったのですが・・・宿泊先が・・・→(他の人に尋ねると、多くの人が)ホームステイの人がとてもフレンドリーで、接する時間が長くて、イタリア語の会話がはずんでいた様でしたが・・・私の場合は、家の人は朝早くからの仕事で不在で、帰って来ても夜遅い時間帯で、お互いに殆ど会話がありませんでした。
 ある日の朝、その前日に買っていた美味しいピザを速い速度で食べた関係で、(生まれて初めて)「胃痙攣」を経験しました。とても苦しくて、どうなるかと思って・・・その時、自分以外誰もいなくて・・・救急病院にどうやれば行けるのかなどと考えたりしていましたが・・・幸いに、しばらくして(←かなり長く感じましたが)、嘘の様に急に治まりました。
 又、歯科に(プラスティックでした?)インプラントの歯の一部が欠けて受診しました・・・そこで、日本の医療の素晴らしさを強く感じました。
 タイのチェンマイでも、(セラミックス?でした)インプラントの歯の一部が欠けて受診しましたが・・・。
 又、演奏を機会があればしようと思って、わざわざ太鼓を持って行ったのですが、(タイで約束していた人が来なかったこともあって)その機会がなく、太鼓を全く打つことなく、太鼓をあげてきましたが・・・。
 アチコチ行くのに私の分身って感じで持ち歩いていた愛用の「トランク」が、ここに来て壊れてしまって、 いいトランクを見て回って、(中国製品で)イタリア製品よりも遥かに安い値段で売っていたのを買ってしまいましたが・・・→日本に着いた時には、そのトランクの鍵が無残にも「壊れてしまっていて、ロープで巻かれていましたが・・・。
 フィレンツェでは、14時(?)過ぎると、イタリア料理店の多くは、夕方までずっと閉まっていたので・・・→中華料理店(←いつも利用出来て、安かったので・・・)で食事を摂っていたのですが・・・隣の部屋に同じ学校に通う(絵を描く)男性がいて・・・彼が難なく食事を作っているのを見て、自分もそれに次第に感化されて・・・スーパーで食材を買ってきて、自分で調理する様になりました。(→この時から、私の料理の腕が進化して行きましたが・・・?!)
 フィレンツェ滞在中、同じ教室に通う(コックの)日本の男性と二人で、「ローマ」に行きました。又別の日に、「シエナ」にも行きました。「ローマ」と「シエネ」、とても良かったです!又、観光バスで、「ピサの斜塔」を見に行きました。直に斜塔を見て、感動しました。
 フィレンツェは、水不足って感じで、トイレの水も風呂の水も、不足気味で、ジャンジャン出せませんね。(←オーストラリアに行った時もそうでしたが・・・) ・・・いろいろ経験しましたが、やはり、イタリアだなと思ったのは、イタリア人の着こなしですね・・・警察官も、どの店の男性も、決まっていましたね。

 2005/6/11~7/31の1カ月半余、英語研修の為に、カナダに滞在しました。初めに「バンクーバー」にホームステイして、語学学校に通いました。ホームステイの人、日本に留学経験があり、日本人の気持ちがよく分かっていました。「ホントにいいの?」って感じで、何度か確認されましたが・・・。
 バンクーバー滞在中、「ヴィクトリア」に独りで行って、2泊しました。この「ヴィクトリア」正に、常に花が咲いていて、夏涼しく冬温かく、”地上の楽園”と思いました。(ヴィクトリアの姿を知って・・・→次に英語の勉強に来るのだったら、ヴィクトリアが一番いいと思いました。この時点で、バンクーバーは、島にはなくて、ヴィクトリアがバンクーバー島にあって、生態系がバンクーバーのそれとはまったく違っていると言うことを初めて知りました。)
 バンクーバーに3週間滞在した後に、トロントの「トロント大学」の寮で過ごしました。「トロント大学」だけあって、教育がしっかりしていました。・・・キチンも立派で・・・→フィレンツェで身に付けた腕で、しばしば、私なりの食事を作って、楽しく過ごしました。
 セキュリティがしっかりしていて・・・同じコアに男性が4人住んでいて(残り3人は、カナダ人のトロント大学の学生)、トイレ・バスが2ヵ所あり、快適でした。
 トロント滞在中、独りでモントリオールに2泊、ケベックに2泊して、一生残るいい思い出が出来ました。

*写真の1枚目は、ヴィクトリアからバンクーバーまで帰る時に生まれて初めて乗った「水上飛行機」です(行きは、バスで)。2枚目は、「ブルーマン」と一緒に撮った写真です。3枚目は、トロント滞在中に、学校主催でバスで行った「ナイアガラの滝」です(→イチローのプレイも、学校主催で見に行きました)。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060726/8(フィレンツェ紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070504/5(フィレンツェ)

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060730/1(カナダ紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070505/2(ヴィクトリア)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/4(モントリオール紀行)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/5(ケベック紀行)

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趣味人間の人生のすべて(その14)

2013-12-20 11:16:23 | Weblog

 「海外生活:バングラデシュ→インドネシア→マレーシア」

 年末・年始は、医師になって初めて(!)休みました。12月31日と1月1日、共に休んだのは、医師になってこの時だけですが・・・(←今からも、まだ、しばらく、年末・年始の診療を続けるつもりですが・・・?!)。

 2005/1/22~2/8、イスラムの国であるバングラデシュのダッカで(ベンガル語を2年近くみっちりと教わったAPUの学生さんの家で)ホームステイをしました。
 ダッカ空港を一歩外に出ると、グルッとモノ売りの子ども達に囲まれました。用意した車に乗るまで、ずっとまとわりついて来て、ビックリしました。
 滞在中、アチコチに連れて行ってもらいました。ダッカ大学の付属病院内にも入ってみました。人人人って感じでした。民間病院も見学しました(←ホームステイの娘さんが、産婦人科医としてそこに勤めていた関係で)。
 今年出版された本の中に、世界の140の都市の中で、住み易い所として、バングラデシュのダッカが、最下位の140位にランクされていましたが・・・ダッカでは、見ると直ぐに、その人の経済的格差が分かる感じで、上位は、車を持っている人(1割?)、下位では、電気も付かない家もあり(5割?)ですが、中位は、電気もしっかり付き(しばしば昼間に停電していましたが・・・)、冷蔵庫もテレビも新聞もあり、それに、家政婦さんが2~3人いました。
 イスラムの教えと思われますが、外部から来た人に、無償でトコトン歓迎する精神、凄いなと思いました。
 確かに、アチコチに、銃を持った憲兵がアチコチ立っていて、治安面で問題があったり、ゴミが散らかってない道路はない感じでしたが・・・リサイクルは、徹底している感じでした。人が何処に行ってもとても多い感じで、人の動きが速く、そんな中で、多くの子ども達の目は、何故か、私には、日本の子ども以上に輝いて見えました。
 結婚式や学校や施設で、篠笛・和太鼓の演奏をしましたが、ダッカの子ども達、異文化にどう反応していいのか分からない感じにも思えましたが・・・?!
 ダッカから日本に直接帰ることなく、そのまま、2005/2/9~2/17、マレーシアのクアラルンプールに滞在しました。開発途上国とのイメージで行ったのですが、全く反対で、近代建築がずらりと並び、日本の都会と同じ(それ以上?)って感じでした。
 マレーシアのタクシーの運転手さんは、全て英語を話せる感じで、私がインドネシア語(マレーシアでは、インドネシア語が充分に通じますが・・・)で話すと、日本人でマレーシアに旅行に来て、インドネシア語を話す人に会ったのは初めてだと言われました。
 マレーシアに宿泊したホテルでは、朝の食事中に1回だけ、篠笛演奏をさせてもらいましたが、あまり反応なしって感じでした・・・?!
 クアラルンプールは、きれいな街ですね。キャメロンハイランドに2泊しましたが・・・→日本で花粉症に悩んでいる人にとっては、あまり暑くなくていい所ですね。

 2005/3/1~3/31の約1カ月間、インドネシアのバリ島の「サヌール」に滞在しました。「クタ」が観光の中心となっていますが・・・治安の関係で、安全と思われる「サヌール」にしたのです。
 滞在中、テロの噂がずっと流れていました。「クタ」には、タクシーで1度だけ行き、爆破された所にも行きました。
 有名な「ウブド」で2泊しまいた。そこで見た「バリ舞踊」、手足の先から目の動きまで、凄いですね。(←タイ舞踊も凄かったですが・・・)
 バリ島には、日本が真夏の時に来るべきだったと思いました。この時、超暑くて、正午前後は、5分間も外にいると、汗がドッと出て来ていました。現地の人も、今年はホント暑いと言っていましたが・・・。
 インドネシア語を英語で教えてくれる人を探しましたが、いませんでした。仕方なく、現地の人皆が先生と思って、出来るだけインドネシア語で話して過ごしました。年に1度の「ニュピ」を経験しました。
 タイのチェンマイで月に10万もあれば、リッチな気分で生活出来、インドネシアのバリ島の中心地「デンパサール」では、その半分の5万で、(インドでは、3万で、中国の奥地では更にその半分で?!)生活出来そうですが・・・?!
 バリ島の人々、全てが宗教に密着して生きているって感じに思えてなりませんでした。
 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060727/3
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20091001/2

*写真は、ダッカの附属病院の救急外来と民間病院とダッカの街中で演奏している私(2004は、2005の間違い)。

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