日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

心は、熊本・・・

2008-08-12 12:30:05 | Weblog
内柴選手・・・半年前までの3年間半、国内外の大会でことごとく優勝から見放された。ケガもした。屈辱、焦燥、脱力感、プレッシャー。「金」のあとの4年間の間に見たのは、「地獄」だったと言える。そこから這い上がる原動力になったのが、彼の場合は家族だった。
 10日夜、連覇を決めた直後には、観客席にいる妻と子に向かって、周囲にはばかることなく、その名を大声で呼んだ。アテネ直前に生まれた長男の輝(ひかる)君は、物心つく4歳になっていた。
 「おやじなんで。おやじの仕事をしっかりやりました」との喜びの言葉の陰に、家族の力の大きさを見る。メディアは時に美談を作りたがるけれども、どん底を越えて掴んだ栄冠を素直に祝福したいと思う。
 内柴選手のこれからは、これまでの4年間とは違う人生設計を描いているようだ。いずれ熊本に戻り、柔道整復師を目指す妻あかりさんとともに柔道場を開きたいのだという。ブログにあった、「僕の心はいつも熊本にあり」も泣かせる。
(以上、平成20年8月12日の「熊本日日新聞」より)

http://blog.livedoor.jp/masato_uchishiba/

 多くのスポーツマンの勝者は、周囲の支えが大きかったことを肌で感じている。勝負の世界では、紙一重の差のことが多いと思う。周囲の支えを本人がどの様に感じているかで、勝敗が少なからず分かれる気がしてならない。

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自分との闘い

2008-08-12 08:51:08 | Weblog
 昨日は、北島旋風が日本列島を駆けめぐって感じの日だった。北京五輪の競泳男子100m平泳ぎ決勝で、北島康介(日本コカ・コーラ)が世界新記録の58秒91で2連覇を遂げたのだ。
 もう、10回以上も、同じシーンを見てしまったが。彼が男泣きに泣いている。今までの苦労がドッと思い出されたのだろう。
 「ありがとうございます」これが、インタビューの一番初めに出た言葉だった。そこには、強さと優しさを持った、正に、25歳の日本人のサムライの姿があった。そんな北島の姿に、イチローは、「4年に1度に合わせての金メダル、素晴らしい」と絶賛し、更には、「北島は、魚類か?」などと冗談まで飛ばしているが。
 自分の実力が伴っていないのに、マスコミなどで異常に期待される重み、その重みは、過去に王者を経験したものにしか分からないと思う。マラソンの高橋選手も、柔道の谷選手も、それを味わってきていると思う。
 アテネで金以来、北島は不調に悩み、一時は、引退まで考えていたみたいだ。モチベーションを落とし、弱音を吐いていた。しかし、そのどん底からハンセンを目標にして頑張ることを決意し、又も、金メダルをもぎ取ってしまったのだ。
 肝心のハンセンの目標が、他の選手に代わり、又、前日の準決勝での前半のハイペースを反省して、平井伯昌コーチの「勇気を持って、最初はゆっくり行け」との作戦を忠実に守り、前半のストローク数は200mのレース並みに少ない16回とし、勝負どころと踏んだラスト10~15mもスピードは落ちることなく、日本記録の59秒44を一気に0秒53も更新して、金メダルに彩りを添えた。
 正に、自分との勝負に克ったと言えよう。それを目標にしていたアメリカのハンセンや、2位のノルウェーのオーエンも、そんな北島を祝福していた姿は、とてもすがすがしく思えた。
 (武豊が旗手でのディープインパクトの走りを思い出した。人生も、受験勉強などであまり初めに気負い過ぎて走り過ぎると、いけない感じだなあ。人生80年もある訳だから。落ち込んでも、又、自分なりに目標を持てて、自分なりに頑張れる強さが必要かなあ・・・)

 又、今回、凄いことをやってくれた二人がいた。
 大分県出身の末綱聡子(27)、熊本県出身の(鹿児島県で生)前田美順(22)組のバトミントンチームである。
 アテネ五輪金メダルで世界ランク1位の楊維、張潔ブン組(中国)をセットカウント2ー1で下す大金星を挙げ、日本勢初となる準決勝に進出したのだ。
 第1セットは8ー21と完敗で取られたが、第2セットで23ー21と競り勝ち、相手への大歓声の中でも、勢いに乗って第3セットも21ー14で押し切った。勝った瞬間、2人はラケットを放り出してコートに座り込み、喜びを爆発させた。
 末綱聡子「信じられない。まさかここまでくるとは思わなかった。せっかくの舞台なので、後悔したくなかった。倒れてもいいと思うくらい攻撃し続けた。ここまできたら、メダルを狙いたい」
 前田美順「言葉にするのがもったいないくらい、うれしい。(第1ゲームを落とした後)このまま終わるのは悔しいと思い、第2ゲームから開き直った」
 あまり期待されていなかった二人、初めのセットを大差で取られた時には、せっかくここまで来たのだから、ちょっとだけでも続けられる様に頑張ろうと思ったとのこと。
 正に、自分との闘いに勝利したと言えよう。
 ところで、この二人に対する日本の応援団、まさか勝つとは思っていなかったので、準決勝を応援することなく、日本に帰ってしまうとのこと?!


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風 天

2008-08-11 08:18:19 | Weblog
フウテン(風天)の寅さんで有名な渥美清、よくテレビで彼の出演する番組を見ていた。映画も面白かったなあ。しかし、彼の素顔を彼自身の口で語られることは決してなかったとのこと。彼の俳句の世界から、それを知ることが出来るかも知れない。
 コンピューターとおばあちゃんが異様な組み合わせに思って驚いたが、この渥美清と俳句、それ以上に(前もって想像できない感じの組み合わせで)、初め耳にした時にビックリした。
 彼の遺言の「荼毘(だび)にふすまで公表しないで欲しい」に従って、彼の死が公表されたのは、真夏の8月7日となっている。
 今回で13回忌。この程、風天なる名前を持った彼の俳句の作品集が出版されている。
 「竹馬の 塀の向こう 猫の恋」
 「餅を焼く 醤油の匂い 人恋し」
 「好きだから 強くぶつけた 雪合戦」(子どもの頃を思い出して)
 「冬の蚊も ふと愛(いと)おしく 長く痛み」(彼は結核になっていた)
 「赤とんぼ じっとしたまま 明日(あした)どうする」(職探しで悩んでいた)
 「だーれもいない 虫かごの中の きゅうり」(彼自身の心境?)

 彼は、亡くなった時には、人を騒がすことなく終わりたかったと思う(周囲にも生前しばしばそう言っていたとのこと)。しかし、世間はそれを許してくれなかった。国民栄誉賞を授与され、そして、今や、俳句の本まで出版されているのだ。その渥美清の欲のない素朴で純粋な生き方を多くの人が学ぶべきだと思う。

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平和の祭典・・・?!

2008-08-10 10:44:50 | Weblog
 今年も、(被爆63周年)原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が、8月9日(土)に長崎の平和公園で行われた。
 長崎市長が平和宣言をし、被爆者の代表が平和の誓いを述べていた。
 日本は、末永く非核三原則を守る(持たず、作らず、持ち込ませず)ように、又、世界から核が廃絶になるようにと、被爆国日本が先頭に立って運動をして行くべきだとの内容だった。
 それに対して、福田首相は、来賓の言葉として、そうするとはっきりと述べられていたが・・・。
 目に見える形で、日本が早急にこの運動を盛り上げていくべきだと思う。既に、長崎の学生が立ち上がって、当時の被爆体験者からの生の証言を収録して国連に訴えようと活動している。
 日本は唯一の被爆国であり、積極的に核廃絶の運動をする義務があると思う。その働きかけは、北朝鮮だけでなく、国連の常任理事国の米、露、中、英、仏にも当然向けられるべきで、特に米国に対して、追従することなくもっと主張するべきだと思う。
 しかし、被爆長崎からの訴えも(毎年しているのに)、それに対しての日本政府の受け答えも、どうもあまり進展していない感じに思えてならない。紛争が折しもグルジアで勃発し、北京オリンピック前に、ウイグル自治区でテロめいてことが起きている。
 力で急激に押さえ込もうとしても結局は不成功に終わっていることは、歴史をつぶさによーく見れば理解できること。
 今回の北京オリンピックにしても、かなり無理してしている様にも思えてならない。平和の祭典が、スゴイ警備に囲まれて行われているからして。
 それぞれのスポーツ毎に、世界的な競技が既に行われている。野球にしても、サッカーにしても、それは大がかりなものだ。政治活動に利用されるオリンピックなどもう廃止して、あまり競争性のない「子ども」と「お年寄り」と、それに、現在存在している「パラリンピック」を大きな3本柱にしての真の平和を求める世界の祭典に切り替えてはどうかなあ?


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北京オリンピック開会式

2008-08-09 09:06:03 | Weblog
 昨日の夜の21時からNHKで、北京オリンピックの開会式の模様があった。「鳥の巣」での中国人の英知を集約した感じの(素晴らしい)いろんなエクジビションがあった後に、各国が入場。これが長かった(全部見たが)。
 ギリシャを先頭に開催地中国までの204カ国の入場。自分が小学生の頃は、世界の国は100ちょっとしかなかった様に記憶しているが、今では、その倍。フランス語・英語・中国語の順で名前が紹介されていた。
 台湾を、チャイナーズ・タイペイ、香港をチャイナーズ・ホンコンと紹介されていたかな。又、カリブ海や太平洋に浮かぶ島々、アフリカの国々、沢山あって、覚え切れない。名前が似ていて、紛らわしいのが多いなあ。名前が紹介される度に、その英語の発音を確認する為に、辞書をしばしばめくっていたが。
 カリブ海に浮かぶドミニカ共和国とドミニカ国、アフリカのギニアとその隣にあるギニアビザウ、更に、アフリカには、赤道ギニアもあるのだ。コンゴ共和国とコンゴ民主共和国。アフリカのエリトリアとバルト海沿岸のエストニア、今紛争中のグルジア(英語で、ジョージアと紹介されていたが)の隣のアルメニアとヨーロッパのアルバニア。アフリカのアンゴラとヨーロッパのアルドラ。インドの西にあるモルジブとルーマニアとウクライナの間にあるモルドバ。間違えやすいなあ。
 又、和製英語(アクセントも含めて)と実際の英語の言い方にかなり食い違っているのがある。フランス語と英語と現地の言い方でも、かなり違った感じでの言い方もあり、正確な発音まで突き止めると、数が多くて頭が痛くなりそうだ。
 0:00近くになってやっと204カ国の入場が終わったが、中国は1時間遅れだろうが、それにしても、こんな遅い時間に延々とするなんて、13億人を抱える今の中国って、逞しいなあ。


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白紙の弔辞

2008-08-08 07:43:26 | Weblog
(8月7日サンスポより)
 漫画家の赤塚不二夫さんの葬儀・告別式が7日午前、東京都中野区の宝仙寺で営まれ、「肉親以上の存在」と慕っていたタレントのタモリが弔辞を読んだ。
 タモリの弔辞は以下の通り。
 「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
 10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
 終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
 しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
 あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
 私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」

 この弔辞をタモリ(62歳)は、白紙の状態!で、述べている?!これは、スゴイギャクだと思った。最後の「私もあなた(72歳)の作品の一つです」との内容もスゴイと思ったが、それ以上に、最後にタモリらしく弔辞を白紙の状態で延々とさも書かれているかの様に演出して述べて最後に締めくくった所なんぞは、最高の芸人だと言えよう。赤塚氏への最高の贈り物だったと思われる。

 何でも、こんな感じで初めにした人はスゴイと思う。現在、メジャーでのイチローや松井の活躍があるのは、野茂英雄のパイオニアがあったからだと思う。太鼓打ちの林英哲さんが、一人で海外アチコチで演奏して、日本人が、一人でも太鼓演奏が出来ることに気が付いた?!彼は、又、紅白歌合戦の時に、後ろ向きになって(お尻を大衆に向けた格好で)大太鼓を打った。それからである、多くの太鼓打ちがお尻を大衆に向けて打つようになったのは。ノーベル賞にしても、人類に役立つ大発見を初めにした人だけに贈られることになっている。タモリの、白紙の弔辞、これ、全国的に流行(はや)ると、面白いかな・・・。

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良きパートナー

2008-08-07 08:35:23 | Weblog
 (今は、最下位だが何故か人気のある)楽天の野村監督が、先日民放のテレビで、次の様に言っていた。
 (今は怖い感じのサッチヤーなる)野村沙知世と付き合っていた時に、「仕事を取るのか、(今の女房と別れて)女を取るのか、どっちかはっきりしろ!」と監督から言われた時に、「女を取ります!」とキッパリと言って、南海を首になったとのこと。で、野村氏は、当時の状況を、「仕事はしばらくすれば別にある。女は、沙知世の代えはない。一人しかいないからね・・・」と言われた(そう言われた時に、周りから大拍手が起きていたが)。
 中日の落合監督も同じ感じかなあ。相撲の先代(大関)貴ノ花も、周りから、「その女と結婚するなら、相撲を捨てろ!」とまで周りから強く言われていた。それでも、その女性(今の貴ノ花の母親)と結婚して、(既に故人となってしまわれたが)運良く大関の位置で長く相撲を続けられていたが。
 イチローが、結婚相手がいることのメリットをかって松井に力説していた(松井も、目出度く結婚されたが)。「いろんな思いや悩んだ時、自分以外に気軽に相談できて一緒に考えてくれるパートナーがいると言うこと、これは生きる上でとても強い味方となる」と。朝は、奥さんの作るカレーを美味しくいつも食べているみたいだが。
 結婚なんて、お互いに似たもの同士だと思う。相手の悪口を言っている人を時に見かけるが、そんな相手を選んだのは正真正銘自分だし、自分の愚かさを証明している様なものだ。一番大切にするべき人の悪口を言うことの愚かさに気が付くべきである。
 結婚したからには、それに合わせるしかない。どうしても合わすことが出来なければ、別れるしかない。しかし、別れるエネルギーが本当にあれば、結婚を維持できるエネルギーもあるはず。又、別れて、経済的に困ってしまって、トコトン苦労している人も現実にいる。
 まあ、価値観が合わないといけないが、性格は、違っていた方がいいみたいだ。共に神経質、ともに攻撃的だと、終始が付かない感じになるかな。
 人間って、なかなか本質は、変わらないけど、それでも努力していけば、少しずつでも変わって行けると思う。
 男も、一人で自活できる様になっておくべきだと思う。それに、奥さんの話をゆっくりよく頷きながら聴いて上げることも大切かな(今までそれをしてきてないと、少し苦痛になるかな?)。

*写真は、浦上天主堂。

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人間とは・・・

2008-08-06 12:16:47 | Weblog
 人間と言うのは、実に不可解な動物である。アレキシル・カレル(1873年生、ノーベル生理学賞・医学賞受賞)の著書「人間この未知なるもの」の中の最後の人間復興の条件の部分では、次の様に言っている。
 人間は、自分自身を改新しなければならない。しかも、それは、苦しまずには改新できない。と言うのは、人間は、大理石であると共に彫刻家でもあるからだ。その真実の姿を現す為には、自分自身と言う素材を、自分の思いハンマーを振るって粉砕しなけらばならない。
 必要に駆られない限り、とてもそんな療法は甘受出来ないだろう。科学技術のもたらした安楽さ、美しさ、素晴らしい機械に取り囲まれている間は、どんなにこの手術が緊急を要するものかは、理解できない。自分たちが退化しつつあると言うことが認識出来ない。
 ガリレオは、たやすく測定出来る大きさや重さといった第一次的性質と、測定できないもの形、色、匂いのような第二次的性質を区別した。量的なものは、数式で表され、人間に科学をもたらした。質的なものは、顧みられなかった。この誤りが重大な結果を引き起こした。人間には、測定出来るものよりも、測定できないものの方が重要なのである。

http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/2008-6-5-gakudoutosyokujyu.html
 平成20年6月5日に、病院の隣の老人施設で、子ども達と施設の人達が一緒になって植樹した「ひまわり」が大きくなった。8月5日の夕方に行くと、少し元気なく垂れる感じになっていた。で、翌日の8月6日の早朝に行くと、元気な姿になっている。ひまわりの小さな苗木が、2カ月でこんなに大きくなり、それも、朝と夕方では、ひまわりの向く方向も格好も随分と違っているのだ。人間も、日々変化し、1日の内でもそれなりに変化のリズムを持って生きるべきもの。
 自然の変化に一喜一憂しながら生きたいものである。

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広島原爆体験記(6/6)

2008-08-06 08:05:19 | Weblog
 7日間程残務整理をした後に、故郷である島根県江津市の父母の元に復員した。
 気になるのは、被爆を一緒にして行動を共にしてきた町田伍長である。無事に復員しているだろうか?手紙を出した。父親より返事が来た。
 「あなたは、無事に帰られて良かったですね、私の息子は帰って来ません。遺骨も帰りません。」
 「ガーン、・・・。」と頭に大きな石が落ちて来たショックである。あの時、私も死んでいれば、この様なご返事を頂くことはないだろう。余りにも、残念である。涙が出た。あの憎い一発の(原子)爆弾の野郎め。
 就職せねばと整理していると、私の手を握って死んで行った前田美代子さんの遺髪と、名札の張ってある封筒が出て来た。しまった、海田市から美代子さんのご両親の住所である三篠本町は、わずか三里ほどの距離である。何故、故郷に復員する時、途中で届けなかったのであろうか?我ながらぼけていて残念である。おそらく、ご両親の元には、美代子さんは、遺体で帰っていない。永久に帰らないであろう。せめてこの遺髪と本人の名札を届け、死の前のあの言葉、埋葬してある場所を教えねばと、早々速達にて郵便を出す。そして、4日後に、再び、広島に赴く。
 近所の浜田市発の国鉄急行バスにて、中国山脈を横横断して横川駅に着く。
 目指す美代子さんのご両親の住所である三篠本町1丁目は、1キロもないはず。少しは民家が残っているだろうと想像していたが、やはり一面の焼け野原であった。こんな所までこの様な惨状であるのか。一発の得体の知れない(原子)爆弾の野郎め、この辺までもなめ尽くしたのか・・・・と、ふと焼け跡整理中の方に尋ねた。
 「この辺と思いますが、前田義夫さんのご家族の方はいらっしゃいませんか?」
 「今、そこで焼き跡を片付けをしんさっている人が、前田さん夫婦と家族の方ですよ。」
 やっと尋ねて来た前田さんの家族の方は、眼前30メートル先にいらっしゃる。ああ、美代子さんの遺髪を届けに来て良かった。
 「前田さんですか?」
 「ハイ、そうですが・・・・」
 「前田さんのお父さんですか?」と言うと、途端に眼をまん丸と開いて、私の足下から頭の上まで、驚いて家族の方総立ちで唖然として見つめるばかり。
 「速達を下さった近本様ですか?」
 「ハイ、近本であります。」 
 軍隊用語が突然私の口から出た。私が上官をしていたので、だいぶ年上と思われていたのであろうか。私は、21歳である。まだ、未成年であろうと、頭をかしげて疑っている様子である。
 「近本様であんさるでしたら、私が住んでいる家まで来んさい。」と言われた。広島弁である。
 可部線の踏切りを渡って15メートルもあろうか、大木で囲まれた大きな古い家に連れていかれる。その家の中には、焼け出された数世帯の家族で一杯であった。10畳ぐらいの広い座敷に迎えられた。
 お互いに正座をし、おもむろに「美代子さんは、私の部屋で亡くなられ、遺骨として帰って来られませんので、せめてもの形見として、遺髪と胸に付けられておられた名札を持参致しました。」と言って、封筒の中よりそれを取り出して、お父さんに渡した。
 「美代子、帰って来たか!」 ワッと涙々である。
 美代子さんの生前の様子、亡くなる前の最後の言葉、遺体は似の島に送ったこと、私も負傷していたので、充分な手当が出来なかったことなどをお詫びした。
 「この名札は、美代子が胸に付けていたのに間違いはありません。美代子、よく近本様の胸に抱かれて帰って来てくれた。」「近本様、よくぞ美代子を連れて来られました。」
 「いいえ、私の当然のことをしただけです。」
 前田さんのご家族にお別れする時が来た。横川駅より長崎行きの汽車に乗った。
 広島よ、色々な出来事があった。生死のことがあった。私の一生涯、決して忘れることは出来ない。
 被爆でお亡くなりになられた方々、静かにお眠り下さい。

(完)

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広島原爆体験記(5/6)

2008-08-05 08:56:26 | Weblog
 ふと見て驚いた。私達が火葬をしている火に向かって、さながら幽霊でも集まって来る様子で、水を求めて重傷の被害者が来た。今にも死にそうで、非常に弱っていて、衣類もボロボロになっている。この様子を見て、私は止む得ず、軍令を破ったのである。水を飲ませ、余った食事を与えた。昼間の疲れが襲ってきて、防空壕の中で睡眠を取ることにしたが、その被爆者の方達は、誰一人として立ち去ろうとしない。私達兵隊の側から離れようともしない。それで、一緒に、防空壕の中で寝ることにした。
 「私達は、兵隊さんの所に来たので安心しました。ひょっとして死んだら、あの様に火葬にされるのでしょうか?」 ハッとして、私はどう返事をしていいのかわからない。
 「大丈夫ですよ、日本は絶対に負けません!いつ戦死してもいいです。勝つ為に、自分達軍人は、国の為皆さんの為に一生懸命に、死ぬまで軍務に尽くします。」この返事しかなかった。被爆者の方達、疲れ切っている部下達、いつの間にか深い眠りに入る。
 ふと部下から起こされた。もう夜は明けていた。朝の5時半である。直ぐに火葬場を見る。あの赤くて燃えていた火は消えて、白い煙が静かに立ち登っている。場所を替えて、次の火葬の準備を部下に命じる。
 まてよ、防空壕の中で一緒に寝ていた被爆者の方達の様子はどうなっているのだろうか?皆横になってまだ寝ている様である。中に様子がおかしい方がいる。さてはと、一人一人の肩を揺さ振ってみる。4人程、反応がない。瞼を開けて目の玉を見る。瞳孔は開き切り、4人共、死んでいる。これ以上死なせたくない。1人でも助けたい。
 直ちに救助隊に伝令を飛ばす。昨夜、お互いに話をしたばかりなのに、火葬をするのが4人、突然に増して来た。可哀相に、又、涙が出て来た。
 10時頃であったろう。本隊に至急に帰隊せよとの伝令が自分に来た。何の要件かわからない。とっさに、負傷している私を休ませようとして、中野隊長殿が気を使われたのであろうか?その事であれば、私はまだ頑張るつもりであるが、命令とあれば、致し方ない。
 浅川兵長に後のことを宜しく頼み、兎に角、伝令と一緒に本隊に帰隊して驚いた。「海田市にある特別隊に編入転属を命ず。」被爆する前から、船舶司令部の名簿の中に私の名前は載っていたのである。
 急いで海田市にある特別隊に赴任する。遂に来た、沖縄決戦の名誉ある特別攻撃隊員である。それも幹部員である。
 船舶司令部の特別な秘密兵器である艇体は、総ベニヤ製にて長さ約6メートル、エンジンは貨物自動車エンジン60馬力、速度15ノット、艇3分の1先は、爆薬がぎっしり詰まり、先端には大きな信管が付いていて、所謂人間爆弾艇で、敵艦船手前500メートルで舵を固定し、搭乗者は、艇外の海中に飛び出し、艇だけが敵艦隊に体当たりして爆発する仕組みになっているが、敵の発見が早ければ、艇もろともに撃沈する恐れが大いにある。
 翌日より、敵艦船に突っ込みする特訓が始まった。遂に念願の原爆被害者の仇を取ることが出来る。500メートル手前で艇外に脱出しても、帰還の望みは先ずない。敵艦船のど真ん中に艇諸共に突っ込めば、私一人で見事に撃沈させることが出来る。最早決死の覚悟は出来ていた。
 いつ出撃なのか待機中である。今、8月15日の午後である。隊本部が急にざわめき出した。待ちに待った出撃出発かと歯を噛みしめて両拳を握った。
 どうも様子が変である。隊員達も頭を傾ける中、隊長が悲愴な顔をして全隊員集合を命じた。
 「・・・・・・、全隊員の諸君、戦争は終わった。ご苦労さんでした。」 
 日本が勝ったのか、休戦になったのか、・・・ああ、日本は負けたのである。
 全隊員泣いている。隊長も泣いている。
 国の為に一生懸命に勉強して、陸軍兵器学校に入学し、卒業し、船舶司令部に配属され、過去4年半軍務につき、今正に特攻隊員として出撃瞬前に、終戦となってしまった。
 残念無念である。

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