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日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

戦争は人を狂わす!

2008-08-05 08:43:47 | Weblog
 又、8月6日と9日が来る。かって広島に家族で行った時に、原爆ドームなどを見た。とても印象深く、今でもありありと思い出すことが出来る。又、被爆の体験者からも浪人時代に話を聞くことが出来、又、その手記も頂いて、今もその家族とは懇意にしている。
 平成20年8月2日(土)の夜の民放の番組で、終戦直後の63年前にアメリカのマクバガンが長崎原爆投下3カ月後に、現地の様子を撮るために撮影した秘蔵フィルムが初公開されていた。そこで赤ん坊を背負った14歳の美少女が映されていて、マクバガンは、その子がとても気になっていたそうだ。
 マクバガンは、晩年、「子どもは素直で純粋で希望そのものだ」と述べている。又、その時に映っていた14歳の少女が、追跡の結果、生存していた。結婚してわずか7年後に旦那さんを亡くし、28歳から一人で二人の女の子を育ててきていた。78歳になった今、弟さんと一緒に腰をかがめながら取材に応じていた。
 14歳での当時のことをしっかりと覚えていて、「お菓子をもらって嬉しかった。とても(アメリカ人が)優しくて、ホントにこの人が原爆を落とした憎しみのアメリカの人とはどうしても思えなく、別の国の人ではと思っていた。」と言われた。
 又、原爆の投下に関係した(アメリカ)人が、「出来れば、人のいない所に投下していれば良かったのに。」と語っていた。
 当時、原爆が投下するまで、日本もウランで原爆を造ろうとやっきになっていたのだ。又、日本が降伏してなければ、3番目の原爆が、東京にも落とされることになっていた?!とのこと。
 戦争は、人を狂わす。正にそうなのです。

*写真は、広島平和公園(19年前に撮ったもの)。

(その道に通じたある専門家の話によれば、日本の今の高度な科学水準をもってすれば、原爆を直ぐにでも造ろうと思えば、実現可能で、それも、大がかりでなくて、大学院の学生のレベルでも出来るとのことらしいのですが・・・?!、平和憲法を守り抜きたい気持ちで一杯です)

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広島原爆体験記(4/6)

2008-08-04 09:33:17 | Weblog
横の兵舎の・左の兵舎・右の兵舎からは、死体がぞくぞくと船艇に運び込まれて行く。似の島に運搬されて、火葬されるのではなく、防空壕の中に山積みされて、その上から土を被せて永眠にするのである。遺骨の内、果たして何名がちゃんと身内の元に帰られるのであろうか?誰が誰だかわからないので、それは不可能に近い。死んだ美代子をこのまま似の島に送ったのでは、あばあちゃん、御両親の元に帰る事は出来ない。もし私が生ありて御両親に会うことが出来れば、そして、何時私の身が死することがあっても、肌身から離さずあの世で再会しよう。
静かに眠る美代子の遺髪を切り取り、胸に付けていた名札を封筒の中に入れ、御両親の住所氏名を書いて貴重品袋の中に納めた。
 4名の兵が美代子を梱包して、私の部屋を出ようとする。隣にいた娘さんは立ち上がって、益々甲高い声をあげて泣き出す。
 「もう、泣くのは止めなさい、静かにして手を合わせて送んなさい。」と言って、私も手を合わせた。
 船艇は、死体を山程運んで、似の島に消えた行った。美代子よ、その他の亡くなった皆さん、静かに眠って下さい。
 一番憎いのは、何とも知れないあの(原子)爆弾1発である。
 その夕方、隊事務室より、市内は被爆者の救助と遺体処理で大混乱の為、軍事行動に入るとの情報が私の耳に入っ来た。陸軍兵器学校第4期生として、一緒に卒業して任官した同期の約3分の2が、既に戦死していることを耳にした。卒業前に南方方面配慮を強く希望していたのであったが、「近本は教育指導に残れ!」との上からの命令により、広島船舶司令部教育隊に配属させられてしまい、南方方面に配属される同期が、非常に羨ましかった。
 ところがである。東南アジア方面や東南アジア方面に着任した同期は、大混成団体部隊の中で、大部分が20歳そこそこで伍長として加わっていた。その大船団は、昭和19年11月15日、輸送船八隻、護衛艦四隻をもって門司港を一路南方へと出向したのであるが、済州島沖にて、敵潜水艦にて殆どが撃沈されてしまった。
 「潔く梢離れて散る桜」 このまま、ベッドで死にたくない、軍人として死ぬのであれば、軍事行動中に死にたい。私は中野隊長殿に申し出た、「絶対に参加させて下さい!」「近本、そんな負傷で大丈夫か?」「ハイ、大丈夫であります。絶対に行動に参加させて下さい。」
 翌9日、頭の負傷をものともせず、朝6時に兵60名を引率して再び市内に突入する。担当の場所は、寺町である。物凄い死臭の中を通って紙屋町に行き、西練兵傷右に見ながら産業奨励館を左に見る。行軍途中で見る左右の惨状、何たる悲惨さか。あの爆弾一発でこの様な惨事に、唖然としてものも言えない。 木造の家は1軒もない。焼け爛れて夢遊病者の様に、茫然と立っている人、座り込んでいる人、横になっている人、そして、死んでいる人。
 「兵隊さん、助けて下さい!」 行軍中に何回も聞く。直ぐにでも助けてあげたい気は山々であるが、軍の命令で、寺町に一刻も早く到達せねばならない。「後で直ぐに参りますから、待っていて下さい。」それしか言えない。やっと寺町に到着。
 まだ生きている被爆者の殆どの方は、真っ先に水を求めるけれども、水を飲ませたら直ぐに死んでしまうから、絶対に飲ませてはいけないとの軍令であった。私の水筒には水が入っている。しかし、心を鬼とせねばならない。「私の気持ちを察して下さい。」
 大きなお寺の焼け跡があちこちにあり、お墓が沢山有る。だが、殆どの石塔は横倒しになっており、その間には、被爆者の死体で一杯である。何たる有様か!生存者が運んでくるのであろうか、自分の死に場所をこのお墓に求めに来たのであろうか、この多勢の被爆者の死体には、驚いてしまった。
 この死体の中を、口鼻にタオルを当てて、自分の身内を、親戚を、又、知人を探し回っている人達があちこちに見える。死体の中には、目・口・鼻から白い虫が見えているものが多い。
 一刻も早くと焦る感じで、軍令による火葬の行動に入る。近辺より柱・板切れ、燃える物は何でも集め、その上に死体をどんどん並べる。その上に燃え易い木切れを量ね、又その上に持参した石油を振り掛ける。被爆者の皆さん、静かに眠ってくれ。
 くそったれ、一番悪いのは戦争であり、新型爆弾一発である。再び人間として生あれば、絶対に敵の国と作って戦争をしてはいけない。そして、この恐ろしき新型爆弾を使用してはいけない。
 火葬の火は、轟々(ごうごう)と燃え盛り、死体の皆様は、じりじりと焼けて行く。しかも鰯(いわし)を焼き炙(あぶ)る臭いがぷんぷんと鼻をつく。夕食は、握り飯に沢庵と水だけである。死体を焼く前で食事をするのもなかなかである。水で流し込むだけである。夕日は沈み、電灯一つない真っ暗な夜に入る。私達が火葬をしている火は、どんどん燃え続く。真っ暗な周辺を見ると、あちことと真っ赤な火が燃えている。遥か彼方にも、燃えている。何百何千の被爆者の死体が焼かれ、火葬にされている。

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広島原爆体験記(3/6)

2008-08-04 08:53:45 | Weblog
直ちに伝令が船舶司令部に飛んだ。直ぐにトラックで迎えに来てもらい、やっとのことで医務室で治療を受けることになった。司令部に帰隊する途中の木造の家々は殆ど焼失し、市内は丸焼けと化している。
 私が失神して、死体置き場にほおり込まれ様としている間に、何百発かの爆弾と焼夷弾が投下されたのであろうか?余りにも無惨である。
 まてよ、私が引率していた部下はどうなっているのだろうか?市内は、焼け野原になっているが、部下達には、全員助かって欲しい。心配でならない。1名でも生きてくれ。誰に聞いても情報がない。皆無事であって欲しいと祈るばかりだ。
 医務室の軍医殿に聞いて唖然とした。爆弾は唯の一発で、見た事も聞いた事もない新型の爆弾であると知らされて信じられなかった。私は、兵器や爆弾の専門の学校である陸軍兵器学校の卒業生であるのに、どんな爆弾なのか、皆目見当が付かない。
 陸軍技術軍曹の近本は、馬鹿であった。軍医は陸軍病院に入院せよとのことであったが、既に病院が焼失してないので、自分の隊に帰ることとなった。
 兵舎の中は、被爆で負傷した民間の人達が収容されて一杯であった。まさか、私の個室だけはとドアを開けて見ると、3名の娘さんが独占して寝ているではないか。
 軍務中負傷して帰った私は、何処に寝たらいいのか、直ぐに当番兵を呼び、「俺は死んで帰って来ないと思ったのか!」、腹立ち紛れに思わずビンタを一つくらわせた瞬間、当番兵はワッと涙を飛ばしながら私に抱きついて来た。
 「無事で帰隊される事を一生懸命に祈り、お待ちしていたのであります。」
 私の胸に顔を付けてワイワイと泣く。思わず私は、金山一等兵の両手を握り締めて私も泣いた。私が一番かわいがっていた金山一等兵である。
 「お前、俺が生きて帰って来るのを待っていたのか!」
 涙、涙である。
 「俺の部下は何名帰っているか!」
 「約12、3名、負傷して帰って来られております。」
 「その次は!」
 「まだ、はっきりとわかっておりません。」
 「上官殿が帰って来られたので、自分は、一番嬉しいであります。」
 又、私の腹に抱きついて泣く。
 「全員帰隊しているか調べて来い、俺はどうなってもいいんだ!」
 「ハイ。」
 これも上官命令である。私にはそれしか言えない。そのあとの部下はどうなっているのか、1名でも多く帰隊して欲しい。
 ふと私の寝る上段の畳を見る。3人の娘さんは、上半身を起こして、目を丸くしてこの有様を見ているではないか。軍人同士のこのよりとり、被爆している娘さん、どうも済みません。頭半分白い包帯をしている私から追い出されるのではないかと恐ろしがっている様子である。いや、絶対にここから出しませんから、どうぞ、そのままごゆっくりしていて下さい。
 当番兵である金山一等兵は、内務の成績が良く、私が第一線抜で一等兵にしたのである。真面目であった。同室の娘さんの面倒もよく看てくれた。私の個室は狭かった。机・椅子のある板の間は広かったが、寝る上段の畳は3枚だけで、私も負傷したので早く横になりたかった。3人の娘さん達は、「ここに居てもいいですか?」と聞いてきたので、「ハイどうぞ。」と言った。被爆者はお互い様である。生まれて初めて娘さんの横に休む次第である。残留部下が見舞いに来た。私は苦しいやら眠たいやら。
 隣の右兵舎・左の兵舎がバタバタしている。収容された被爆者がどんどん死んで行き、そして、死体置き場に運ばれて行く。次は私であろうか?横にいる3人の娘さんであろうか?衛生兵の話では、直前まで元気だった被爆者が、バタバタと死んでいると。恐ろしいことを言うな!30分前に会っていた松井中尉は死んだとのこと。「近本軍曹、お互いに死んではいかんぞ!」と言い合って、見舞いに行った直後の通報であった。「原子爆弾とは一体何物や?!」
 兵舎内の被爆者はバタバタと仏様になって行く。そして、死体置き場に運ばれて行く。次は私・・・、無になろう、このベッドの上で死にたくない。
 ふと、隣に寝ている前田美代子を見る。美しい可愛い顔して、安らかに眠っている。この娘さんよりも自分の方が早く死ぬであろう。さらばと、そっと右手を握った。
 ぞくぞくと死体が運ばれて行く。次は私か。「潔く梢離れて散る桜」「何くそ、ベッドの上で死んでたまるか!」私は職業軍人である。
 突然、隣に寝ていた前田美代子が、「おばあちゃんに会いたい、お母ちゃんに会いたい、お父さん・・・」 何を言っているのか?!容体が変になっている。
 「オーイ、衛生兵、金山一等兵、すぐに来い!」この美代子は、おばあちゃん子であったのか、さっきまで私と話をしていたのに。驚いて前髪を撫で挙げ、両眼を見た。目の玉が変である。直ぐに手を握った。微かに反応があり、目が開いているが、目玉を真上を見ているだけで、私の顔を見てくれない。「オイ、美代子、どうしたんだ!」 美代子の身体を揺さぶる。反応がない。「美代子!」ひどく揺さぶる。死んでいる。私より何故先に死んだのか。この馬鹿。 
 私が手を握って泣いている時、衛生兵が来た。「死んでいます。」 「直ぐに運びます。」と言った。とたんに、隣の2人の娘さんは、ワァーと大声で泣き出した。 
 「おい、一寸待ってくれ。」 衛生兵は無表情な顔をして出て行った。 
 この俺を誰だと思っているのか、この馬鹿野郎! 
 遂に来る時が来た。美代子とお別れか。可哀相に。直ぐに運び屋の兵が4名来た。筵(むしろ)と紐を持ってきている。無言で筵で美代子を巻こうとする。 
 「オイ、少し待ってくれ、後で呼ぶから。」 隣の2人の娘は、益々大きな声で泣き叫ぶ。
 「死体は、直ぐに梱包して、桟橋に着いている船艇に積みます。隊長殿からの命令であります。」 
 「オオ、そうか、この部屋は俺のものである。俺の命令を聞け、後で当番兵が知らせに行く、帰れ!」 私を睨み付けて4名の兵は出て行った。
 さあ大変、これからどんな事になるだろうか、天皇陛下の命令に叛逆したのである。「殺すなら殺せ、どうせ近い内に、俺も死ぬ身だ!」 腹をくくった。

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真剣に生きる

2008-08-04 08:33:49 | Weblog
人聞は生まれた瞬聞、死ぬ運命にある。生あるもの必ず死す。地位・学歴・貧富・国籍・全く関係なく人間皆、150年足らずで肉体は滅んで行く。「誰でも老人になることは出来るが、誰でも豊かな老年を迎えられる訳ではない。貴方の晩年は今日の貴方の生き方によって大きく左右される」とゲーテは云っている。「生のさなかに我々は死の中にいる、誕生の瞬間から常に人聞にはいつ死ぬかわからない可能性がある。そしてその可能性は必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。理想的には、全ての人間の一瞬一瞬を次の瞬間が最後の瞬問になるかのように生きることが出来ねばならない。常にいつ死んでもいいつもりで生きることが出来ねばならない。しかもそのためにふさぎ込むこともなく平静にである。この理念を全ての人間に求めることは無理かも知れない。しかし確信を持って云い得るのは、人間がこの理想の精神状態を手にいれる所へ近づくほど、それだけ立派なそして幸福な人間になれるということである」とは、前世紀の巨匠の一人、英国の歴史学者アーノルド・トインビーの言葉である。年をとればとるほど苦難苦行をしなければいけないし、いろんな事に挑戦して行かなければいけないと思う。老後に楽をする為に若い時に一生懸命に働くべきだと考えるのではなく、その時その時に、今の自分がどの様にすれば社会に一番貢献出来るかを考えて行動に移すべきだと思う。カーライル(1795~1882)は言っている。「われらの大いなる仕事は、遠方にかすかに存在するものを見るのではなく、目の前に明瞭にあることを行なうことである」と。かって、ハーバード大学のC・W・エリオット総長は、卒業式の時に、次のように云われた。「君達はあまりにも自分自身のことを考え過ぎている。あまり自分だけのことを考え過ぎるな。他人のことを配慮することが習慣化された人間になって欲しい。そうして正しいと思ったことは勇気を持ってやってくれ、そうすれば君達は報いられるであろう。」と。フランクルの書いた「夜と霧」(ナチスのアウシュビソツ収容所のことが書かれてある)を読めば次の事が解る。「ぎりぎりの限界に人間が置かれている時、唯一の支えになるものは、目的を持って未来を信ずること。あの中で牧師と医師が生きのびることが出来たのは、自分が死ねば同僚が死んでしまうと思ったから、つまり、牧師と医帥は愛の為に生き延びることが出来た」と。

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広島原爆体験記(2/6)

2008-08-03 18:23:37 | Weblog
 どのくらい空中にいたのだろうか?ふと気が付くと大木の折れる音、家屋の崩れる音、その他もろもろの轟音のする暗い民家の中から助けを求める声、呻き喚く声、人間であって人間の声ではない。先程までの広島は何処にあるのか?一体地球はどうなっているのか(どの様に表現したらいいのかわからない)。そして、先程まで私が引率していた部下は今何処にいるのか、一体、今どうなっているのか?
 私には重大な責任がある。あの物凄い爆風がだんだん薄れて行くに従って明るくなってくると、私と行動を共にして来た部下の姿が見え始めてきた。私の身近にいるはずである。まだ、はっきりと見えない。(後でわかったことだが、私は、右眼を負傷して視力がなかった)。
 やっと見えた。中腰になって戦友を助けている姿が、4、5名見えて来た。先程まで男前であった部下の美男子の顔は、今や一人もいない。汚れ果てた長虫が、血の中でのたうち回ってうごめいている。どうしようもない。私は今どうしたらいいのか?再び爆弾が投下されれば、私はどうでもいいが、全員が死んでしまう。 
 「早く防空壕に入れ!」と何回もどなっているのに通じない様である。一体、自分の口から声が出ているのか、それもわからない。
 私は戦争でいつ戦死しても悔いのない、女性も知らない独身者である。部下の多くは、妻子のある兵である。何とかして一人でも部下を救いたい。ふと頭に過(よ)ぎった。陸軍兵器学校時代、実行演習中、相模原で(陸士と同じ場所)泥沼田の中で銃を両手に支え、泥まみれになり、ブドウ畑を前進中、若井区隊長から「近本、貴様、腰が高い」と言われて、鞘付きの軍刀で強く腰と尻を殴られ、非常に痛かった記憶が甦って来た。
かくなる上は、私の最後の手段を使う。一名の部下でも助けたい。尊い部下を助けたい。私はとっさに軍刀を腰からはずして持ち、正に鬼と化し、のたうち回る可愛い部下の連中の中に飛び込み、「早く防空壕に入れ!」と鞘の付いている軍刀で部下の背中・腰・尻を殴っていた(だが、実際にそうしていたかどうかわからない)。私は人間ではない、気違い野獣と化していたと思われる(果たして近くに避難すべき防空壕があったのだろうか)、ああっ、眼が見えない。無惨になっている地球が見えない。地球のどん底にいる(ここまでしか記憶にない)。後でわかったことであるが、この時、私は、頭部に3、4箇所のひどい裂傷を負い、血まみれになり、出血多量で倒れていたのである。
 
 「ガタン。」、私の体に大きなショックがあったのだろうか?何となく変だ。右の眼は全く見えない。左眼でボーッとかすかに何かが見える。私は何をしているのだろうか?ここは一体どこなのか?私は普段は、柔らかいベッドで寝ている筈なのに、今の背中の下は硬い。すぐに当番兵を呼んだ。寝ている私の足下に二人の兵がぼんやりと立っているのが見えた。オオ、俺は大負傷している。私の体は全身血まみれで、ハエが蜜蜂の様にブンブンとくっついていた。私は生きていた。足下に立っている二人の兵に、「早く連れて行ってくれ!」と声を掛けた。 
 とたんに兵は、「上官殿は生きているぞ!」と言い、頭の傍に立っている兵に、「どうしようか・・・」と言っている。私は、生きているので、病院か本隊に連れて行ってくれるものと思っていた。「どうしようか」とは、何事ぞ。「とぼけたことを何を言うのか」、この野郎何を考えているんだ。気力のない私は、頭を左に傾けた。
 3、40メートル先に、赤々と大きな火の固まりが燃え上がっている。4人の兵は、茫然として立っている。
 わかった!私を死体置き場に運搬中なのだ。今にも火の中に投げ込まれる寸前であった。「おう神様仏様、人間、生と死の間は、どちらを取っていいのでしょうか。私は、生を取りました。生と死は、わずか2、3分間で決まりました。

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広島原爆体験記(1/6)

2008-08-03 11:56:40 | Weblog
  「おおう、今日もB29が1機空高く飛んでいるなあ。」と、私は隣の町田伍長に話し掛けた。
 「そうであります。4、5日前から毎日飛んでいるのに、爆弾1つも落とさないで、何の目的で飛来しているのかわからないですが、高射砲の弾丸でも怖いのでしょうか?」1万メートルの高度にて飛行中である。
 私は、陸軍兵器学校の専門の生徒の出身であり、三年生卒業前に大阪造幣所局に実習に行った時、高性能の自動一式高射砲が試作中であるのを知っていた。この新型高射砲は、軍事機密であった。当時広島には旧式の88式高射砲の陣地しかなく、高度5千メートルしか爆発信管調整が出来ないことを知っていた。だから、頭上高く飛来しているB29は、平気そのもので飛行中であったのだろう。私は船舶司令部整備教育隊より兵60名を引率し、比治山の兵器所に向かう軍事行動中にあった。
 その日、8月6日の朝8時頃であったろうか、雲一つない晴天に太陽は燦々と照り輝き、炎熱の電車通りを目的地に行軍中にあり、再び隣の伍長に「何処か涼しい近道はないか、暑くて堪らん。」
 実は、部下達も皆そうであった。とても細い路地道に軍行を進め、眼前に比治山公園を見た。思い出せば、数カ月前に田淵少尉と一緒に比治山公園の広場にて、初年兵の徒手教育訓練をしたなあと思った瞬間であった。
 突然にピカピカキラキラとあたかも電気のスパークの如き青白い光線が空を走って広がり、オレンジ色と化した。思わず熱いと驚いた間一髪、地球が破れんばかりのドカン、バリバリの強烈なる爆発音、耳は勿論、五体も張り裂けんばかり。とっさにあの大きなガスタンクに爆弾が命中したのかなと思った瞬間、今度は、ゴウーと物凄い音の轟く爆風の渦の中に巻き込まれ、一瞬、真っ暗な中で地上の全ての物が吹き飛ばされた。生き地獄の中の真っ只中にあり、私は地球上には立っていなかった。

 (この内容は、被爆者の方の御好意により頂きました。本人から浪人の時に大変お世話になり、又、何度も、当時のこと聞かされました。今は、残念なことに、故人となられていますが、故人の奥様とは、今も安否の連絡を取り合っています。被爆関係者の生の記録です。しばらく、続きます)

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咳止め雑感

2008-08-03 09:55:30 | Weblog
 去痰剤として医師になりたての頃よく使っていたビソルボンなる去痰剤、これって、痰が多くなるだけで、却って良くない感じがしているが・・・。レフトーゼやノイチ ームなどの去痰剤、子どもではアレルギーが怖くて、使い難いと思っています。よく使われているムコダイン、発疹が出た子がいましたが、めったになかったことなので、私は、ムコダイン+ムコソ ルバンを頻回に使用しています。
 去痰剤を使用したその夜は、かえってよく咳が出ることが多いので、親御さんにはそう説明しています。2晩目からは、咳が軽くなることが多いです。去痰剤と同時に気管支拡張剤のメプチンやホクナリンテープを処方することも多いですが、メプチンで副作用の出る子がたまにいます。メプチンよりも頻度は少ないですが、ホクナリンテープでも、気分が悪くなる子が時にいます。
 小さな子どもの場合には、その多くで咳止めは無意味なことが多いと私自身は思っています(全てではないが、大半が)。小さな子どもの場合、直ぐに湿性の咳になることが多く、咳止めで却って治りを悪 くしているのではと思うことが経験的に多いです。
 抗ヒスタミン剤(ペリアクチンやポララミンなど)+アスベリンでは、痰が粘稠になって、却って良くないのではと思っていますが、この処方をされているケース、多いですね。むしろ、乳児の喘鳴では、私自身の個人的な意見では、禁忌ではとまで思っていますが・・・。
 (冬に乳児に多くRSウイルスが原因のことが多い)細気管支炎での吸入は、吸入の時間や回数など、点滴の速度と同じく、かなり細かく診てして行くべきだと思っています(私の場合、早期から漢方薬の清肺湯を使用していますが)。
 時に、細気管支炎と思っていたら、クループや喘息のこともありますし、又、細気管支炎と合併していることもあり、兎に角、小さければ小さい程急変することが多いので 、随時よく診ることが必要だと思っています(3カ月未満は、小児科医にとっても、急変するだけにその判断は難しいです)。
 抗生物質は、当たり前ですがウイルスには無意味(しかし、麻疹の時には、免疫力が落ちて細菌感染を引き起こすことが多いので、抗生剤をしばしば使用することがありますが)。強い抗生剤は、個人的には、腸内細菌のバランスを強烈に崩すので、禁忌とさえ思っています(やむなく抗生剤を使用した後は、殆どの例で、漢方薬を追加していますが)。
 退院後に咳が止まらず、その原因が何かよく分からず、長いこと掛かって父親(時に母親や祖父)の喫煙と判明したことがありました(最近では、咳が止まらない場合、まず、同居の人の喫煙の有無を尋ねています)。つい最近の痛い経験では、大きな子どもの百日咳( 百日咳の多くでは、熱がなく、予防接種をしていたり、大きな子どもさんですと百日咳独特の咳をしないことがあります)があり、(独特の咳を典型的にするまで百日咳を疑わなくて)見落としていました。


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コロコロと大臣が交代していますが・・・

2008-08-02 09:49:53 | Weblog
 8月1日の早朝の「みのもんた」の「朝ズバ!」に、厚生労働大臣の舛添要一氏が出ていた。彼は、私と同じ59歳で団塊の世代の人間。頭の髪が薄く、ぶっきらぼうに話す人で、極めて庶民的。しがらみがなく、堅い守りの福田政権の中で、上を守りながらも自分の力を出そうとしている政治家。
 私は、個人的には大好きで、マリナーズで孤軍奮闘しているイチローに劣るとも勝らずに、頑張っているなあと関心している。
 で、朝ズバでの彼の国民からの(朝ズバのアンケートでは?)評価では、年金問題49点、後期高齢者医療費制度35点、厚生労働省・社会保険庁の信頼回復31点、医師不足・介護職員の待遇44点との辛い点数を付けられて、やや浮かぬ顔になっていた。調べれば調べるほど、おかしかった所で誰も指摘してこなかったことが次から次へと暴露されていて、それを舛添氏は素直に言われている。これは、紛れもなく真面目な政治家の証明だ(おかしくてもおかしいと言わないで来れた人のツケが彼に回っているのだ)。
 まだ、舛添氏は、厚生労働大臣に就任してからわずか11カ月しか経っていない。それを、戦後からの60年間のツケをどっと一人で背負わされている感じだ。誰が担当しても、いや、舛添氏だからこそ、これで何とかやって行けているのかも知れない。
 彼は、本気で、医師不足と社会保障の問題に取り組む構えでいる。それは、福田総理も同じとのこと。
 労働省と厚生省が一緒になってさぞかし大変だと思ったら、彼の口から、それを一緒にして見れるのでいいとの爽やかな回答だった。頑張って欲しい。いっそ、総理大臣になって、自分のカラーを100%出し切る感じで、本領をもっと発揮して欲しいと思っているのだが(その前に、自民党が分裂?)。
 厚生労働省が発表している医師の数が、実際に従事してない人も入れての数で、絶対的に不足していると、舛添氏の口から述べられていた。勤務医が絶対的に不足しており、今の勤務医も、その多くが労働基準法に違反する形で働かされていることも彼は熟知している。救急医、産科医、へき地医への手当も、ちゃんと払われていないと認めている。
 「兎に角、財源がない。保険料や税金を上げても、限界がある。後は、消費税を上げるしかない」って感じで言われていましたが。(無駄を省く方法もあると思うのですが・・・?!)。
 今度の改造内閣人事、舛添氏と渡辺氏と石破氏は、留任かなと思っていたら、舛添さんだけだった。こんなにコロコロ変えること自体、問題ではないでしょうか?

*写真は、国民文化祭での佐伯市での104名太鼓演奏の一番最後のシーン。

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常態化した不正システム

2008-08-01 09:06:51 | Weblog
 大分県の教員採用での不採用で、ある弁護士が、「常態化した不正システム」と言う言葉を使っていた。教員採用や教頭や校長になる場合の選考基準の公開が、こんなに騒がれても、何故積極的かつ徹底的に進められないのか?!
 かって、民放で、興味深い内容が放映されていた。「状況の力」と題してのアメリカでの実験で、監獄での囚人と監視人とをデモでして、その心境の変化をつぶさに報告していたもの。それを思い出した。
 それでは、14日の計画が、耐えられなくて、6日で中断していた。している方も、されている方も、実際の姿になってしまっているのだ。
 その中で、次の3つのことが言われていた、つまり、1、「権威への服従」、2、「非個人化」、3、「間化」である。それが、現実に、イラクで、アメリカ兵が囚人にしている様に、起きているのだ。で、今回も、日本で、文部科学省を頂点にして、それに官僚が後ろ盾になって、全国つつうらら毅然と存在していることが判明したって感じに思っているのは、自分だけだろうか?
 似たことは、アチコチ、沢山あるのではないだろうか。医師や教師と言う人間的な職業の世界以外でも、強い後ろ盾がある為に権威を振りかざし、又、組織の中で自分を失い非人間的な行為をしても気が付かないことが。
 そう言えば、自分が大学に入学した時も、おかしなことに気が付いていた。一生懸命に勉強していると、上の先輩が、「どうして大学には行ってそんなに勉強するのか」と聞いてくること。「国家試験なんて、99%合格だし、今まで受験で苦しんできているのだから、遊んだら・・・」とよく言われた(しかし、その後、どんどん国家試験の合格率が下がって行って、自分が受けた時には、80%になっていたが)。しかし、その状況でも、私は自分なりに勉強していたが、・・・。その時、皆が遊んでいるのに、一生懸命に勉強するのが恥ずかしかったことをはっきりと記憶している。
 常に失敗をしても立ち直れて、冷静になって研ぎ澄まされたシャープな頭で判断できる力のある人を選択しようと思えば、面接試験で(今から行われようとしている裁判官の様に、試験官に一般の人を無作為に選んで)以下のチェックもしてみたらいいのになあと思うのだが・・・。
 特殊な狭い環境で受験勉強に追われっぱなしで生活してきた青二才の秀才よりも、雄大な自然に囲まれた所にしばしば出向き、又、いろんな人と寝起きを一緒にして楽しく過ごせ、かつ、いろんな(大きな)失敗した経験を持っている人の方が(出来れば、それから自分なりに努力して這い上がれた経験のある人の方が)、頭でっかちでなくて先々頼りになりそうな気がするけどなあ。

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