日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

趣味人間の人生の全て(その7)

2013-12-16 15:37:31 | Weblog


 「救急病院西田病院時代」

 昭和55年4月1日(正確には3月から)~平成2年11月10日まで、(私の故郷)佐伯市の中心にある救急病院で働きました。その救急病院、民間ですが、私が就職した時から既に(24時間365日の)救急医慮中心の医療を50年近くしていました。(産婦人科で有名な病院でしたが、ずっと小児科医不在で、私が就職した時に、小児科と脳神経外科が新設されました。)
 当時の大分県では、新生児・未熟児医療がとても遅れていました。特に、県南では・・・→それで、私の案で、それまでの「ベビールーム」を改築して、「新生児・未熟児センター」を創設してもらいました。
 病院側は、私の要求通りに(設計まで)何でもしてくれる感じで・・・とても忙しい病院でしたが、(各科の医師の意見が非常に強く)私なりの医療が難なく出来る仕事のし易い病院でした。
 ここで、大きな誤算をしました。あまりにも独りで抱え込んでしまったのです。小児の一般入院は、3ベッド前後で、毎日、救急をすることで入院を少なくし、後は、「新生児・未熟児医療」にエネルギーを注ごうと当初思っていました。
 しかし、実際して行く中で、そう言う訳にも行かず、次第に小児科一般の時間外入院が多くなり、毎日当直って感じの医療になってしまいました。
 私自身が救急医療が好きだったので、それに、若かったので、何とかそれを乗り切れたのでしょうが・・・睡眠不足で、過労死寸前の状態で・・・→「笑わない」「話さない」「目を見ない」「直ぐ怒る」って感じのイメージに思われていた様でした・・・?!
 佐伯市で唯一小児科専門医の開業の先生が病気でしばらく閉院となり、その時には、正に、人間の限界に挑戦って感じでした。病院側も、「ひょっとしたら、このまま働き過ぎて、倒れるのでは・・・」と心配していた様でしたが・・・(←私は、胎児期だけでなく、ここでも生き延びて、不死身でした・・?!)。
 まる3カ年して、月に1回、M医大から派遣して頂きました。その時は、慢性睡眠不足解消の為に、ずっと1日中、寝ていました。その内、月2回来てもらえる様になり、そうこうしている内に、水曜日の午後(←病院は、当時は、水曜日の午後休みで、土曜日の午後普通診療でしたが・・・)にも、O医大から来てもらえるようになりました。、
 運動もせず、朝から晩まで、仕事仕事でしたが、水曜日の午後に、(1カ月に1回、男性職員ばかりの院内ゴルフ同好会による大会があって)ゴルフを少し齧(かじ)りましたが、上手になれませんでした。(シングルの院長から、トラック一杯打たないと上手になれないと言われていました。院長は、とても早起きで、手術も上手、唄も上手、ゴルフも上手って感じで、完全なる趣味人間でした・・・←私も、そんな生き方に憧れていましたが、当時の私は、院長の足元にも及びませんでした・・・)。
 私をよく見守ってくれた先代の理事長(産婦人科医)が亡くなり、その後、理事長の御子息の(ゴルフの好きな)院長(産婦人科医)が亡くなりました。
 そんな中で、まる8年経過して、M医大から若い先生を派遣してもらいました。私の給与は変化ない状態で、小児科医2人になった訳で・・・少し、世界観が変わりました。
 ここから、趣味人間に変身したのです。
 ゴルフだけでなく、いろいろ挑戦しました。サイクリングや散歩や買物に、子どもと一緒によく行きました。バドミントン、卓球、真向法、縄跳びにも、少しだけ凝りました。深夜面白いことはないだろうかと考えて、星座にも凝りました。カラオケに凝りました。2泊で、家族旅行も、よくしました(←これが、結構疲れましたが・・・?!)。
 しかし、二人体制がまる2年間で終わり、その後、半年間、再び独りですることとなり、已む無く、勤務医での体力の限界を感じて突如開業しました。

*写真は、西田病院勤務中に、医学生の為に医師国家試験を10年間分析して作成した「医師国家試験小児科の手引き」です。昭和59年12月31日に第4版発行(限定850冊、非売品)
 又、昭和62年3月19日に、「続・為になるかも知れない本」を発行(限定1.000冊、非売品)。

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20080312/2(10年間で、小児科一般入院8956名・・・新生児・未熟児医療がこれ以上に、大変でした。)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070107/8.956_ 

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倉岳散策・・・

2013-12-16 10:42:32 | Weblog

 平成25年12月14日(土)、老人保健施設「きららの里」の演奏が終わった後に、そこの施設長F先生から、龍ヶ岳町の隣の倉岳町にある「倉岳」の頂上まで、車で連れて行ってもらいました。
 倉岳は、天草では一番高くて、682.2mあります(龍ヶ岳は、470m)。倉岳まで、車でも、かなりの距離でした。9合目当たりに、「東京スカイツリー」が道路を挟んで向かい合って2つ並んでいて、ここが「東京スカイツリー」の高さですとの説明がありましたが・・・。
 とてもいい眺めでした。天草では、アチコチある高い山の頂上からの景色、どこも素晴らしいですね。

*写真は、倉岳山8合目辺りの景色です。

http://www.youtube.com/watch?v=XZrKeHWtDZ4(その1)
http://www.youtube.com/watch?v=dzmJoCtx6UI(その2)
http://www.youtube.com/watch?v=DkfT0JhTvYs(その3)
http://www.youtube.com/watch?v=DkfT0JhTvYs(その4)
http://www.youtube.com/watch?v=hdrlYRU5B6w(その5、山頂からの絶景)
http://www.youtube.com/watch?v=Wv6yL-v9E48(その6、山頂からの絶景)
http://www.youtube.com/watch?v=O_W063b8rco(その7、山頂からの絶景)
http://www.youtube.com/watch?v=TRU8wgl3Rhs(その8)

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椿ロード前半散策・・・

2013-12-15 21:17:32 | Weblog

 平成25年12月15日(日)、13:30にタクシーで出発して、龍ヶ岳山頂まで行き、そこから、「椿ロード」の前半を通って、中腹からタクシーに乗って帰りました。
 天気は良かったのですが、PM2.5の影響で、遠方が少しかすんでいました。頂上の広場で昼食を(家内と一緒に)楽しく摂りました。少し寒かったのですが、周りの景色を見ながらの食事、良かったです。
 「椿ロード」の前半を30分余掛けて中腹まで降りました。前回のイメージと違って、思ったほど急な坂でなく、落ち葉の音かいい感じでした。又、病院の救急車の音がよく聞こえました。
 途中で、足元をよく見てなくて、足が滑って、転んでしまいましたが・・・→右手は、デジカメを落とすことなくしっかりと握っていて、又、左手は、握った枝を手放して、左手をサッと出してドタッと倒れるのを何とか防いでいて、左の脛のかすり傷だけで済みましたが・・・→まだ、歳を取っても(来年の5月に、満65歳)、反射神経健在かなと思いましたが・・・?!
 山頂から龍ケ岳登口まで、下りですと1時間少し掛かりますが、とてもいいコースですね。大矢野町の維和島のオルレ、松島のオルレ、とても魅力的ですが、この龍ヶ岳の「椿ロード」も、それに劣ることなくいいコースだと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=2zCHJq_p2Qc(その1、山頂の展望台)
http://www.youtube.com/watch?v=M7HrnRAz8LU(その2、山頂の広場)
http://www.youtube.com/watch?v=NRfoMGptfrI(その3、山頂付近の展望台)

「↓前半の”椿ロード”、山頂から中腹まで」
http://www.youtube.com/watch?v=nxSHc2D5E80(その1、入口近くに椿)
http://www.youtube.com/watch?v=hLJYXr91_4U(その2)
http://www.youtube.com/watch?v=6yCznIOg5iA(その3)
http://www.youtube.com/watch?v=o71yIGBVsHo(その4)
http://www.youtube.com/watch?v=oZHC947TETo(その5)
http://www.youtube.com/watch?v=ujnDZJ9uloI(その6)
http://www.youtube.com/watch?v=QozG7YJHzfg(その7)
http://www.youtube.com/watch?v=xyewPBn4WM8(その8)
http://www.youtube.com/watch?v=QjCEA8_X9QU(その9)
http://www.youtube.com/watch?v=bTqKieR4fUA(その10)
http://www.youtube.com/watch?v=jbE2msi3lPs(その11)
http://www.youtube.com/watch?v=cqvsWdzgfZA(その12)
http://www.youtube.com/watch?v=mnHUjFN61XE(その13)
http://www.youtube.com/watch?v=MQeV4iDcZjU(その14)
http://www.youtube.com/watch?v=YQ66mwXv95c(その15)
http://www.youtube.com/watch?v=uhZat7lDTP8(その16)

http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20131209/1(←椿ロード後半)
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20131124/1(←椿ロード全)

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独りボランティア演奏・・・

2013-12-14 22:02:03 | Weblog
 平成25年12月14日(土)の13:50~14:50まで、上天草市立上天草総合病院に隣接する老人保健施設「きららの里」で、独りボランティア演奏をしました。
 以下の内容で、自分で司会しながら、休憩なしで、ちょうど1時間で終わりにしました。

1、和太鼓・・・「龍ヶ岳音頭」
2、手品・・・「ロープ」「5000円」
3、篠笛・・・テープのピアノに合わせて「荒城の月」
4、篠笛・・・(季節の歌で)「ジングルベル」「聖しこの夜」
5、篠笛・・・「宵待草」「花嫁人形」「会津磐梯山」「黒田節」「酒よ」」「船頭小唄」「「島原の子守唄」「赤い靴」「赤とんぼ」「五木の子守唄」「青葉の笛」
6、篠笛・・・「上を向いて歩こう」「佐伯小唄」「笛吹童子」
7、和太鼓・・・「きよしのズンドコ節」「炭坑節」
8、ハーモニカ・・・「ふるさと」など5曲
9、篠笛・・・(古賀メロディー)「影を慕いて」「人生の並木道」「人生劇場」「悲しい酒」
10、篠笛・・・「月の砂漠」
11、「一本締め」
12、和太鼓演奏「飛翔」

http://www.youtube.com/watch?v=rODGhH4EasY(篠笛で、ジングルベル)
http://www.youtube.com/watch?v=pe9yDXXmSeQ(和太鼓で、きよしのズンドコ節)
http://www.youtube.com/watch?v=lwFztUduWWI(ハーモニカで、ふるさと)

 手品は、(前もって直前まで練習していて)6つ用意していたのですが(後でしようと思っていたのに)、2つで終わってしまって・・・「君が代」も、最後の方でするべきだったのですが・・・和太鼓も、練習不足でし損じた感じでしたが・・・それでも、受けは、良かったみたいです・・・?!
 とてもいい汗をかかせて頂きました。ありがとうございました。来年も宜しくお願いします(←この施設では、来年も、年4回予定しています、次回は3月予定)。

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趣味人間の人生の全て(その6)

2013-12-14 11:17:04 | Weblog

 「宮崎医科大学小児科勤務時代」

 昭和52年10月1日~昭和53年9月30日まで、宮崎医科大学小児科勤務でした。診療が始まるのに合わせて、宮崎医科大学(今は、宮崎大学医学部となっていますが)に行った訳ですが、ここでの生活で、又、新たな価値観が生まれました。
 やっと一人前の給料をもらえて(文部教官助手)、身分も安定したので、取り敢えず、(私と家内と子どもの誕生日が、ちょうど120度ずつなる様に計算して)子どもを造ることにし、目出度く、そうなることが出来ました。帰る時が常に遅くて、長女の起きた顔を見ることが少なく、私に似て、よく眠ってばかりの子だなあと思っていましたが・・・(←ホントは、起きている時、見てなかったんですね!)。
 県病院時代、診療でとても忙しかったのですが、ここでは、診療以外のことで、質の違った感じの忙しさでした。趣味らしい趣味をするゆとりもなかったのですが、クリスマス会では、「手品」をいつも披露していました。
 私が一番下っ端で、いつの間にか、外来の検査室の係りになっていました。(←これが大変で・・・大学の検査室が、尿の沈渣や白血球の分類の検査をしないので・・・私が独りで、外来も病棟も、全てする感じになっていました。又、毎日の最後の検査室の片付けも、いつの間にか、私の仕事になっていましたが・・・?!)
 オープン当初は、教授・助教授・講師・助手4人のわずか7人の出発でした。大学は、研究・診療・教育とあり、朝早く起きて、近くの小学校に採血に(リサーチの為に)行ったり、医学生の講義の準備をしたり(学生への講義用のスライドの整理をしましたが・・・)、又、外来病棟での診療以外に学生の教育も、大変でした(←元々、教えることは大好きだったので、別に苦にはならず、むしろ、楽しんでいましたが・・・)。
 医学生の反応は想像以上で、1を教えれば10まで理解するって感じで、教授に付いて行って私が講義した後、いつも学生に囲まれて質問されていました。その質問も、鋭く、凄いなあといつも感心していましたが・・・病棟では、手取り足取りって感じで、医学生独り独りに、聴診・触診・打診を重点的に教えました。(←完全右脚ブロックでのⅡ音の分裂、腎の触診での浮遊感など、ミッチリと教え込んだつもりでしたが・・・)
 教室は、循環器が主体で、心臓カテーテルの検査を週2回し、第二外科と組んで、術後のフォローもしていました。
 又、新生児・未熟児を10カ月間も独りで持ち、朝早くから、夜は遅くまでベビー室にいることが多く・・・そして、幸いに死亡0の結果で、少し自信を持つことが出来る様になりました。
 そうこうしている内に、私の進むべき道は、研究でなく、救急を中心として臨床で、その為には、好きな教育を捨てなければいけないと思う様になりました。
 
*写真は、佐伯市で「たはら小児科医院」を開業している時に、「汲心亭」で撮ったものです。

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趣味人間の人生の全て(その5)

2013-12-13 17:00:04 | Weblog

 「宮崎県立宮崎病院勤務時代」

 昭和51年6月1日~昭和52年9月30日の1年と4カ月間、「(医学生の最後の夏休みに1週間程研修した)宮崎県立宮崎病院」に就職して、仕事をしました。ここでは、又、新たな出発でした。
 1、初めの12カ月間、給与月8万円で年間100万円にも達せず、2年目12万円でした。1カ月も経つと、(無給の)救急小児科当番(←当直は研修医は出来ない)を部長以外の医師で順番にしました。
 2カ月目には、新生児・未熟児も、(ほぼ順番で)受け持ちました(←新生児・未熟児は、何故か、早く持ちたい気持ちで一杯だったのですが、部長からは、まだ、未熟だから3カ月間は駄目と言われていました・・・しかし、7月の中頃には、実績で認められたのでしょうか、受け持つことになりました・・・)。
 2、引き継ぎで、13歳女児の慢性腎炎、11歳男児のネフローゼ症候群、13歳女児のテタニー(その後、私が、ビタミンD抵抗性くる病と診断しましたが)、4歳男児の急性腎炎)と、初めから引き継ぎで、4人受け持ちました。(←いきなり経験しない特殊な世界に入ってしまった感じで、少し慣れるまでは、しばらく鬱状態になっていましたが・・・)
 3、初めの月(昭和51年6月)に、新しく、4日に12歳男児の腎炎性ネフローゼ症候群、14日に5か月女児の川崎病、22日に1カ月男児の細気管支炎、25日に7歳男児の自家中毒症、と4人受け持ちました。まる3カ月過ぎると、もっともっといろんな沢山の症例を持ちたい気持ちで一杯でした。
 4、そんな感じで、16カ月間で、169例の貴重な症例を受け持ち、これから先の小児科医としての私の基礎の基礎が築き上げられました。(ありがとうございました、合掌!)
 5、最後に、1カ月を要して、「小児科研修医の手引き」なる本(具体的に、指示の仕方など、書いています・・・→こんな感じで、具体的に書いている本、今もない感じですが・・・←ホントは、具体的には、書けないのでしょうが・・・?!)を作成して、次の県病勤務の小児科研修医が困らない様にしました。(→県病に就職した次の小児科研修医がそれを真剣に見ていたそうですが・・・?!)

 「実際に体を使わないと覚えない、兎に角、沢山いろんな症例を積んで、試行錯誤しながら自分のものにして行く・・・大きな失敗をしてしまうと大変だから、その時は、遠慮なく上の人に相談すること・・・」って感じで、初めは、何をするにも、上の人に金魚のフンの様に、しつこく尋ねていました。
 で、いい案が思い付きました・・・それは、過去の先輩のカルテを参考にすることです。全く同じ症例でなくても、病名と年齢で、ある程度、ナースへの指示や経過は、決まっているはずですから・・・ノートに書き出して、それに、自分なりに少し変えて、次第にいいのが出来上がって行きました。又、薬剤部から添付文書をもらってきて、薬がどこにどう効いているのか、調べて行きました。
 で、時間が経つと、次第に医療の周りが見えて来ました。私の質問に、先輩も、どう応えていいのか、迷っていたのです。つまり、臨床では、分からない事が実に多く・・・先々の経過は、誰にも分からないが多いのです。で、私が下した結論は・・・→今以上に悪くなる前に、ちょっとした変化が出ることが多いので、それを見逃さないこと・・・→それには、受け持ちの患者さんを主治医がいつもよく診ているしかありません・・・→特に、新生児・未熟児では・・・?!
 小児科部長(副院長)が次の様に言われました。
 「自分の目を信じなさい!検査室の結果が出る前に、自分でリコール(髄液)を数えなさい!小児科は朝来たら気になる患者さんは直ぐに診て、昼診て、夕方診て、そして、又、帰る前にもう一回診なさい!」(←私は、リコールの染色までして(←結構これ難しいのですが・・・)、部長回診(←週3回あり)の時に、部長からをそれを顕微鏡下に見てもらって、確認していました。当時は、細菌性髄膜炎が多くて・・・入院後の初回のルンバール(腰椎穿刺)のみ、失敗すると診断が正確に付かなくなるからと言って、細菌性髄膜炎と思われたもののみ、部長自らがしていました。)
 小児科部長は、不必要な検査をしない様に、不必要な薬を処方しない様にと常に言い、理学的診察(聴診・触診・視診・打診)をとても大切にする臨床医で、周りは、”臨床の神様”って感じに思っていました。独り勤務の病院に行っても、それなりに出来るドクターにすることが目標だったみたいですが・・・そこを辞めて大学に行く時、私の今後の目標は、いい研究でなく、出来るだけ早い内に、この小児科部長以上の臨床の腕を持った医者になることでした(家内に、しばしば、そう言っていましたが・・・)。
 お金がないので、子作りはしませんでした。仕事で忙しくて、運動らしい運動もしませんでした(←運動しようと思えば、出来たと思うのですが、当時は、そんな時間があれば、医学書を読むべきだと思っていました。)
 趣味もこれと言ってありませんでした。勉強勉強でしたが、何故か、私が手品が出来ると言うことを周りが知っていて、病棟の子どもの「クリスマス会」の時に、手品を披露しました。
 小児科部長(←朝型で、電話をすると、深夜でも、直ぐに駆けつけてくれていました。ピアノを朝早くからしばしば上手に弾いていました。)が私の手品を高く評価してくれ、とても嬉しかったのを覚えています。

 
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070608/1(当時の生の記録です・・・)


*写真は、平成7年11月23日、「勤労感謝の日」に、佐伯市の茶室「汲心亭(きゅうしんてい)」での「たはら小児科茶会」で撮ったものです。

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松島まで2回往復・・・

2013-12-13 11:06:09 | Weblog

 平成25年12月12日(木)、13:00に上天草総合病院を出発して、13:30に、松島町にある健診場所(松島庁舎)に行きました(年間5回)。そこで、3~4カ月の乳児健診をしました。
 どの母親も、ニコニコ顔でした(完全に母親脳になっている感じですが・・・)。15分間ほど、ボードを使って、子どもの見方(機嫌顔付食欲睡眠)や流行しているRSウイルスの話や今から流行しそうなロタウイルスの話をしました。その後、楽しく健診を12名にして、1時間余そこで要して、15時10分過ぎに病院に戻って来ました。
 録画は、その1と2は、行く時に、その3は、帰る時に撮ったものです。
https://www.youtube.com/watch?v=1SclFJUUt4g(←その1)
https://www.youtube.com/watch?v=MCrX7WU6UlY(←その2)
https://www.youtube.com/watch?v=3eb5Vg0L1Vk(←その3)

 ↓この日の夕方、医局から撮ったものです。
https://www.youtube.com/watch?v=9isoAYZqaWs(医局から見た不知火海)

 その後、インフルエンザの予防接種を(20名余)して、17:00からの夕方診療を終え、再び、18:00に、病院の玄関から送迎バスに乗って、松島町の5号橋の入口(出口?)にある宴会場に行きました。
 この日は、4病棟の忘年会で、院長、管理者、副院長など、ドクターもたくさん参加して、大層、盛り上がりました。
 私は、途中で、5枚の紙が瞬間に5枚の万札に変わる手品を(初めて)して、失敗することなく出来て、ホッとしました。(→その後、直ぐに院長が紙を一枚持ってきて、これを一万円に変えてもらえませんか・・・と言って来ましたが?!)
 最後に、私の拍子木による「一本締め」でバシッと締めて、終わりになりました。

 ↓宴会場に行く時の録画です。
http://www.youtube.com/watch?v=S_-JVuo-48U
http://www.youtube.com/watch?v=VCQOY2_glWI
http://www.youtube.com/watch?v=lQxllkNjuTs

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趣味人間の人生の全て(その4)

2013-12-12 12:44:32 | Weblog

 「医学部大学生時代」
 大学に入学する前に、大学でどのように過ごすのか、二浪の時にそれなりの計画を立てていました・・・更に、大学の講義が始まる前には、もっと詳細に方針を立てていました。
 卒業する時に、ほぼ、その様に出来たことの証として、「為になるかも知れない本」なる本を執筆して出版しました(→と言っても、お金がないので、生協でコピーして、20冊分作成しただけでしたが・・・)。それを今までお御世になった人に差し上げました(←皆が、国家試験で猛勉強している最中に・・・)。
 この時、10年後には、ちゃんとした本にして出版しようと決意し、佐伯の西田病院に勤務して、一番忙しい時に完成させて、全国の進学高校450校に配りました。ある年には、学生による鹿児島大学医学部入学生のオリエンテーションにも、私の「続・為になるかも知れない本」が配られました。
 
 私の大学生活とは・・・→
 大学に合格してから、不思議なことが沢山ありました。まず、(教育者であるはずの)父親から、「留年だけはしないように・・・」と言われ、勉強しろとは言われませんでした。医学部テニス部の先輩同士の会話で、「今度入ったの、(教養部の講義に)真面目に講義に出てるって・・・」と言うのが聞かれましたが・・・?!
 「学部(専門課程)では、朝早くから講義が始まり、遅くまで実習があり、一度に(基礎科目では特に)合格するのが難しく、とてもきついので、今しか遊べる時はないから、今の内(教養2年間)に悔いなく遊んでいた方がいい・・・」と、何人もの先輩から言われました。
 教養部の単位修得も、先輩の話では、出席していれば、まず大丈夫って感じでした。ただ、私の次兄(←その時、九大工学部の大学院を卒業して、鹿児島の高専に就職していましたが・・・)だけは、言い方が全く違っていました。
 「初めから一生懸命に勉強しろ・・・大学は、講義だけでなく、きっかけを作ってくれる所・・・後は、自分で勉強して行くしかない・・・ドイツ語は、マインドイチでなく、NHKのテキストが一番いい・・・コツコツやるしかない(←次兄は、大学の時はフランス語を、大学院を卒業後は、ロシア語を独学でしていましたが・・・)」とアドバイスしてくれました。
 医学部の軟式テニス部に所属して、後衛をしていました(←教養の時には、殆どサボることなく、真面目に練習をしていました)。フランス語やドイツ語の時は、しっかりと自分なりの訳を書いて、講義中に、それを添削していました。浪人の時も同じことをしていましたが、今度は、古文や英語でなく、他の言語かと思うと、ワクワクして、朝早くから楽しく予習をしていました。日中友好協会に通って、中国語も勉強しました。
 教養部での単位は、落とすことなく、追試も受けることなく、満単の110単位を取り、語学は25単位(優が20)取れました。それで、又、自信が付けることが出来ました(←自分の仕方でいいと思って・・・)。
 趣味は少なく、手品と囲碁だけって感じでした。
 教養部の時から卒業するまで、勉強ばかりの6年間でした。夜8時過ぎに寝て、朝3時頃から勉強することの多い生活でした。正に、学生=学に生きるでした。
 今までの押し付けられた感じの受験勉強の内容と違って、大学での科目が皆とても新鮮に思えて、私には、とっても魅力的でした。
 そんな中でも、山登り(霧島山)もしました。(医師になっても宮崎にいる時、しばしば、山に登りました。)
 専門では、長い休みは、図書館に籠って、厚い教科書を読破していました。講義が始まる前に、薄いその科の教科書を読みあげていることもしばしばでした。
 専門3年と4年では、長い休みを利用して、インターンの代わりと思って、アチコチで臨床修練をさせてもらいました。卒業試験中は、下の学年と一緒に講義を受けていました。
 大学での私の最大の収穫は、医師免許を取得した以外に、何と言っても、いい伴侶を見付けたことでした。
 島田陽子の顔立ちで、竹下景子の賢さを持ち、紺野美沙子の上品さと、西村知美の無邪気さを兼ね備えた感じで、口数少なく・目立つことが厭で(←私と丸っきり反対で)、上品で謙虚で、人を立てて、辛抱強く、年齢よりも若く見えて、とても賢くて、優しくて、愛情深くて、恥じらい深くて、奥ゆかしさがあって、しっかりいていて、物欲がなくて、そして、可愛いかったです。(・・・→今はどうかってですか・・・→横向きでなく仰向けに寝ると、時々、いびきが聞こえることもありますが、それも、可愛いです?!)(←難しい事を知っていても、知らないと言う人は、それまで、私の周りには、いませんでした・・・彼女は、超愛読家でしたが、今もそうで、同時に何冊かの本を読んでいたり・・・?!)
 私が入学した時の国家試験の合格率は、100%に近い状態で、よほどのことがない限り落ちないと周りから言われていましたが、それが次第に下がって行き、私が受験した時(昭和51年春)には、2割ほどが不合格になってしまいました。
 私の命の恩人である父の誕生日の4月18日、国家試験の発表前に、目出度く宮崎神宮で結婚式を挙げました。

昭和45年・・・97.9%
昭和46年・・・96.6%
昭和47年・・・93.8%
昭和48年・・・88.9%
昭和49年・・・82.2%
昭和50年・・・82.4%
昭和51年・・・80.4%
(全て春の全国平均成績、国試は年2回あり)

*写真は、私の出版した「続・為になるかも知れない本」と、初めて参加した(佐伯市の修行寺養賢寺での)お茶会で、コチンコチンになっている私の姿です。

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趣味人間の人生の全て(その3)

2013-12-11 15:30:01 | Weblog
 「予備校生時代」
 1浪の時、九大の近くに間借りしました。周りに浪人生はいなく、大学生に囲まれて生活しました。これが大失敗でした。下宿するべきでした。
 遅れて、予備校英数学館の二次試験を受けました。運良く、前期も後期も、80名の東大クラスに入れました。席取り競争はなくて済みましたが・・・もう、浪人出来ないと強く思い込んでしまっていて、焦るばかりで、すればするほど、更に焦り、正に、受験一色って感じでした。
 年明けの最終の英数学館主催の西日本模試では、九大医合格確実、長崎医受験志望者の中では、1番でした。
 しかし、年が明けると、益々焦り・・・受験当日は、睡眠時間0時間に近い状態で・・・(学園紛争の中で)物々しい体制の中で、受験場所も変更となって、念願の長崎大学医学部を受けるも→得意の数学で大失敗して不合格になりました。Ⅱ期校の山口大学医学部も、前年同様に失敗して、二浪が決まりました。
 もう、こうなると、何をしてもダメになってしまう様な錯覚に陥っていました。
 福岡県立高校の中で一番レベルが高いと言われている「修猷館高校」の裏にある予備校「修猷学館」の入学試験を受けて無事合格しました。後で聞くと、理系の修猷館外生は、この年、殊更難関で、3倍の競争率で、九大の工学部よりも難しかったとのことでしたが・・・?!
 修猷館生と修猷学館生、総計1.000名中、最後の4回の模試の平均が23番で、修猷館の現役だと、3番でした。(この前年度、修猷館と修猷学館から、九大医100名中に22名も合格していましたが・・・)
 この2浪の時から、私の勉強法は、完全にリセットされました。浪人生活のコツを掴みました。アチコチ手を広げることなく、マイペースで確実に一歩一歩進むことが大切だと思いました。
 趣味として→星占い、手相、手品、人相学、兄弟学、姓名判断にも少し凝りました。
 1浪の時と違って、体力第一と考えて、朝、(同じ学校に通う浪人生と一緒に)マラソンをしました。走り切った後は、いつも、すがすがしい気持ちになりました。志賀島や大濠公園にも友達と行きました。佐伯の家にも夏休みと冬休みに帰りました(←1浪の時は、1度も帰りませんでした・・・)。
 2浪目で下宿先を決める時、既に決まっていたのに、下宿先の人に、私の趣味の手品を見せて、気に入られて、急遽、私が運良く代わりに入れました(←今、考えると、既に決まっていた人には、ホント申し訳なかったと思っています・・・)。
 この時から、芸や趣味は、身を助けると思う様になりました(←私の結婚式の時、福岡からわざわざ、この下宿のおじさんとおばさんに来て頂いて、有難い言葉を頂きました・・・←浪人の時に、お互いにそうすると約束を交わしていました)。
 大学入試では、国立大学のみ、6回受けました。2浪の時の5回目に、皆から九大医と思われていたのに、安全策で徳島医を受けて(修猷学館には、今まで、そこを受けた人がいませんでした・・・)、又落ちてしまって・・・→一体、何を信じていいのか分からない状態になっていました。
 もう、3浪までして浪人する気は全くなかったのですが・・・ひょんなことから6回目も、医学部を受けることになり、やっと合格しました。
 受ける時、受験と思わなくて、修猷学館での第7回目の模試と思って受けました。問題も、模試に近くて、普段通りに出来ました。この年、修猷館と修猷学館から、鹿児島大学医学部に7名合格していました。
 学園紛争で、1カ月遅れで講義が始まり、その分、夏休みが短縮されました。
*写真は、大分市戸次(へつぎ)の秋の祭りで演奏している私です。

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趣味人間の人生の全て(その2)

2013-12-11 13:57:22 | Weblog
 「鶴谷(つるや)中学校時代」
 趣味は、将棋、囲碁、ピアノ、ギター、作曲、手品、手相。
 全校生徒の前で、ギター演奏をしました。NHKの貴方のメドレーに出して(←姉が作詞、私が作曲)、見事に落ちて、音楽の道を諦めました。
 中学2年生の1学期まで、受験勉強らしきものは、全くしませんでした。円周率を100桁まで言って、皆を驚かせていましたが・・・(←兎に角、人を驚かせるのが昔から好きだったんですね?!)
 英語が好きで、英語の教科書の文章を丸暗記していました。英語クラブと軟式テニスクラブに所属していました。第2回の英語検定試験を中学3年生の初めに受け、かろうじて、何故か3級に合格(←完全に落ちたと思っていましたが・・・)。この時、全国平均の合格率は、30%台で、1学年500人以上を有する佐伯一のマンモス校から10人受けて6人合格し、その時、塾に全く通ってなくて合格したのは自分だけで、それで自信が少し持てる様になりました。
 中学2年の2学期から、受験勉強(第1次ベビーブームの時)に入りました。受験勉強する上で、塾に行ったり、家庭教師に付いたりすることは全くなくて、お金の要らない方法、つまり、職員室によく行って、しつこく先生に質問していました。それも、一度に、質問事項を沢山まとめて、紙に箇条書きに書いて、昼休みに行きました。先生がトイレから出るのを待って質問していたこともありました(私が、授業終了後に質問するのを知ってか、サッと走って帰る先生もいましたが・・・?!)。

 「佐伯鶴城(さいきかくじょう)高校時代」
 私の高校3年間は、体力落ち、灰スクールで、この頃、大分県が全国で一番受験勉強をしていたらしく、正に、受験一色でした。当時、大分県立U高校の東大留年率は、全国一に、大分県の九大留年率は、九州一になっていて、マスコミで、話題になっていました。
 そんな中でも趣味を捨てることはなく、囲碁、ピアノ、手品、手相・・・と、楽しくしていました。芸術は、美術でなく書道を選択しました。1年の時、コーラス部に所属していました。自分が作曲した曲を、高校2年の時に、全校生の前で、自分でギターを弾いて歌いました(題は”小さな願い”・・・←ホントは、大きな願いって感じですが・・・?!。
 高校の成績は・・・好きな科目しかしないと言う、受験する上では最悪の方法で・・・読書の習慣がなかったので、国語が全くの不得手で、入学しての初めの実力試験で45点、3年生の最後の実力試験で、37点でした。社会も不得手で、世界史を選択しましたが、最後の実力試験で、48点(←100点満点、受験まで、完全に間に合いませんでした・・・)。
 受験時、数学と物理は、伸び切っていて、浪人して、国語と社会が人並みの点数となりました。それでも、高校3年生の時に実施された県下一斉模試の3回の平均では、全県下で250番となっていましたが・・・。
 現役の時、国立1期の医学部を受けるのに、学校からは、「長崎大では、5分5分だろう、徳島大だと(国語と社会の配点が少ないので)ほぼ確実」と言われたので、浪人だけは避けたかったので、長崎を諦めて徳島に変更し、落ちるイメージは全くありませんでした。(姉からは、受験前に太ったのはアンタだけよ・・・と言われていましたが・・・?!)
 大学に入ったら、剣道部に入って、体を鍛え、囲碁部に入って、頭を鍛え、真剣に勉強して、阪大の大学院に入って、将来は、大学に残って研究医になろうとの夢を膨らませていました(←ちゃんと当時の日記に、そう記載されています!)。
 しかし、化学での記入の仕方のケアレスミスで、それも、1点差でなく、0.5点差で、浪人することになりました。しかも、2浪も。
 この時、クラスの担任の先生が、付き添いで付いて来てくれたにも関わらず、クラスから徳島大の医学部を現役5人も受けて、5人とも落ちてしまいました。担任の先生も、こんなこと、初めてと言われていましたが・・・?!

*写真は、福岡県柳川市の夏祭りで演奏している私です。

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