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なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02006年010月030日(月)

2006-10-30 | 授業
中2女子生徒が自殺、いじめの可能性 岐阜県瑞浪市(朝日新聞) - goo ニュース


 今朝の「特ダネ」でキャスターの小倉さんは「報道することで自殺を誘発しているのではないか」という趣旨のことを仰っていました。こういった点に自覚的であるという点に少しの安堵を覚えたと同時に、ある種の類型的なマスメディア批判を儀礼的に行っているだけではないかとの思いも湧きました。実際にそのことについては軽く流した程度で、やはり「ポーズ」の意味合いが強いという印象を抱きました。
 
 夕方の「リアルタイム」ではコメンテーターの田宮さんが「昔は扱きなんて言うのは当たり前であった」との趣旨の発言をされていました。これは同様に小倉キャスターも仰っておられましたが。

 思うのは時代は連続してはいるけれども、価値観なども連続しているとは限らないということです。欧米では18世紀まで「子供」という概念は存在していないわけで、子供は小さな大人でしかなかった。そして「環境問題」と言うものは世界的に40年ほど前まではほぼ存在しては居なかったし、今でもそんな概念を知らない国もあるのです。

 田宮コメンテーターや小倉キャスターの時代とは違うのですから、「いじめ」を「扱き」と同様に扱われることには違和感を覚えます。客観的には同じ暴力であっても人間による認識は時代や個人によって異なるはずです。50年、30年前には「扱き」であったことも、現代においては「いじめ」と認識されることはあるはずです。

 まぁこんなことをブログで扱っている僕も日常のニュースの一つとしてしか接していないのだけれど。これもまたエクスキューズなのか。