寂しいってどういう感情だったのだろうかと、ふと考えて
不安を覚える。今僕は寂しいのかということを帰り道で
漠然と考えていたら、そもそも寂しさなる感情は今の僕には
残っているのだろうか、という前提条件への疑問が湧き出した。
寂しいって何なのだろうか。何かに対する期待を抱き続ける
ことなのだろうか。満たされた期待の存続を願う感情なのか。
それともどこからか自然と湧き出す涙のような突発的な感情
なのか。好きなドラマの最終回を見たくないような心持のことか。
そういうことも歳を経るにつれて、段々と少なくなってきている。
好きなドラマはあるが大人になって物分りが良くなったのか知らないが
好きなドラマの最終回も何の抵抗も無く見ることが出来るようになった。
最終回って終わりのことなのに、あまり悲しくなくなった。寂しくない。
執着をしなくなったということなのか。それは仏教的な悟りなのか。
きっとそういう上等なものではないような気もする。ただの逃げなのか。
悲しいことに、寂しいことにフィクションであれなんであれ
気づきたくないのかもしれない。悲しいことはやっぱり嫌だし。
とか、何とか書いているけれど、ブログを振り返ってみると
普通に寂しいとか云ってるな、おぉぉいっ。
不安を覚える。今僕は寂しいのかということを帰り道で
漠然と考えていたら、そもそも寂しさなる感情は今の僕には
残っているのだろうか、という前提条件への疑問が湧き出した。
寂しいって何なのだろうか。何かに対する期待を抱き続ける
ことなのだろうか。満たされた期待の存続を願う感情なのか。
それともどこからか自然と湧き出す涙のような突発的な感情
なのか。好きなドラマの最終回を見たくないような心持のことか。
そういうことも歳を経るにつれて、段々と少なくなってきている。
好きなドラマはあるが大人になって物分りが良くなったのか知らないが
好きなドラマの最終回も何の抵抗も無く見ることが出来るようになった。
最終回って終わりのことなのに、あまり悲しくなくなった。寂しくない。
執着をしなくなったということなのか。それは仏教的な悟りなのか。
きっとそういう上等なものではないような気もする。ただの逃げなのか。
悲しいことに、寂しいことにフィクションであれなんであれ
気づきたくないのかもしれない。悲しいことはやっぱり嫌だし。
とか、何とか書いているけれど、ブログを振り返ってみると
普通に寂しいとか云ってるな、おぉぉいっ。