NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02006年012月024日(非モテの人が否定される)

2006-12-24 | 授業

 僕は逃げる。すぐ逃げる。某シンジ君が「逃げちゃ、駄目だ」と言ったのをリアルタイムに聞いて、真に受けて、そうだっ、その通りだっ!!、と意気込んだものの結局は壁にぶち当たって終わる。当のシンジ君も、終盤には「嫌なことから逃げて、何が悪いんだよっ!!」といみじくも言っておりました。


 逃げる分野は多岐に渡る。目の前の小さなことから、大きなことまで、様々様々。しかしもっとも重大なものは目の前の小さな事柄。特にはコミュニケーションの部分に関して、僕はよく逃げる。それも一目散に。けれど自分では周囲に逃げていると知られたくない。だから変な形で逃げる。「風変わりな人」というスティグマを自らに科すことで、一人でいることを正当化、当然化させてきた。

 場の空気が悪くなると、僕は。そう逃げる。自分は関係ない、ハードボイルド、松田優作、タバコ、クール、と連想ゲームのごとく次々に自分の中では脈略があるが、他人には理解されない文脈で言葉が浮かんでくる。自分のせいで場の空気が悪くなると、「俺は松田優作のようになりたい」、「ハードボイルドだから人間関係なんてどうでも良いさ」とか「この場の空気なんてこの場限りのもの、どうでもいいさ」となんともイカ臭い、極めて個人的な(客観性がない)、論理が頭の中を駆け巡っている。

 僕がしばしば口にする、自分を形容する諦観はもはやポジティブな意味を持たない。諦観ではない。そんないいものではない。ただの逃げ口上。14歳のころから10年を経て、未だに立ちはだかる問題に向き合うことはせず、諦念という都合の良い言葉を使って、逃げ回っている。ずうっと。

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