二〇一七年三月四日作。
(1)雪に寝たまま閉園もう春
(2)咲かずにしおれる二輪ほど気になる
(3)隠しても隠しても沖縄
(4)喉深々と裂くつもり雀が見に来た
(5)通勤通学の鎖骨へ日溜まり
(6)人の声が誰もいない
☞「『精神現象学』の第七章において、ヘーゲルはどのような《概念的》把握も《殺害》に等しいと述べている。だからそのとき彼が念頭に置いていたものが何であったかを見ることにしよう。《意味》(或いは《本質、概念、ロゴス、観念》等々)が経験的に現存在するものの中に受肉されている限り、この《意味》ないし《本質》は、経験的に現存在するものと同じように、──《生きている》。例えば、『犬』という《意味》(ないし《本質》)が感覚的な存在の中に受肉されている限り、この《意味》(《本質》)は《生きている》。すなわち、それは実在する犬であり、走ったり、飲んだり、食べたりする、生きている犬である。だが、『犬』という《意味》(《本質》)が『犬』という《語》の中に移行すると、すなわちその語がその《意味》によって開示する感覚的な実在とは《異なった》《抽象》《概念》となると、《意味》(《本質》)は《死んでしまう》。つまり、『犬』という《語》は走らず、飲まず、食べない。《語》の中で《意味》(《本質》)は生きることを《やめる》、つまりは《死んでしまう》。経験的実在の《概念的》把握が《殺害》に等しいのはそのためである。当然のことながら、《概念》によって実在する犬を把握するために、すなわちそれを名指したり定義したりするために、その《犬》を殺す必要はなく、それが可能となるために実際に犬が死ぬまで待つ必要もないことはヘーゲルもよく承知している。ただ、犬が《死すべきもの》でないならば、すなわち本質的に《有限》ではない、つまりその持続が限定されていないならば、犬からその《概念》を《切り離すこと》はできないだろう、つまり《実在する》犬の中に受肉されている《意味》(《本質》)を生きて《いない》語の中に移行させることはできないだろう、(意味を賦与された)《語》の中に、すなわち《抽象》《概念》の中に、(それを実在化する)犬の中ではなく(それを思惟する)人間の中で現存在する《概念》の中に、すなわち概念がその《意味》によって開示する感覚的な実在《以外の》ものの中に移行されることはできないだろう、とヘーゲルは述べる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.207~208」国文社)
忘れないうちに続きを引用しておこうと思う。コジェーヴにはただ単にヘーゲルをわかりやすく読解したというだけではないユーモアがあることは前に述べた。ヘーゲルに忠実であればあるほどヘーゲル読解がヘーゲルに対してユーモアの位置に立つことができるのはなぜか。コジェーヴでは特にその点に注意しながら見ていきたい。また、ラカン理論の重要部分の多くはヘーゲルに負っているが、ヘーゲルだけを読んでいるばかりでは余りにも時間がかかって仕方がない。その意味ではコジェーヴによるヘーゲル講義に出席していた哲学者/思想家の中にラカンが入っていたことは全然偶然ではないので、ラカン理論が一体どれほど、また一体どの部分でコジェーヴに多くを負っているかという点からも大いに参考になるに違いない。
「『犬』という《概念》は、(犬についての)《私の》《概念》であり、したがってこの《概念》は生きている犬《以外の》ものであり、生きている犬に《外的》実在に関係するように《関係する》ものであるが、──このような《抽象》《概念》が可能となるのは、犬が《本質的に》死すべきものであるときだけである。すなわち、犬が死ぬときだけ、或いはその現存在の《各》瞬間に無化するときだけである。ところで、各瞬間に無化するこの犬、──これこそは、《時間》の中に持続し、各瞬間、《現在》において生きたり現存在することをやめ、《過去》の中に無化していく、或いは《過去》《として》無化していく犬である。もしも犬が永遠なものならば、それが《時間》の外に或いは《時間》なしに現存在するならば、『犬』という《概念》は決して犬そのものから《切り離され》ないであろう。『犬』という《概念》の経験的現存在は生きている犬ということになり、(思惟され話される)『犬』という《語》とはならないであろう。したがって、《世界》の内に《言説》(《ロゴス》)は存在しないであろうし、経験的に現存在する《言説》がただ(実際に言葉を話す)《人間》だけである以上、《世界》の内に《人間》は存在しないことになろう。《概念》-語は感覚的な《ここ》と《今》から《切り離され》るが、しかしそれが切り離されうるのは、《ここ》が《今》、すなわち空間的存在が時間的であるためでしかなく、この空間的存在が《過去》の中に己れを《無化する》ためでしかない。《過去》の中に《消失する》実在するものは、《語-概念》の形で《現在》の中に(非-現実的なものとして)《維持される》。《言説》の《宇宙》(《諸観念》の《世界》)は言わば滝の上にできる恒久的な虹であり、この滝が──《過去》の無の中に無化する《時間的実在》に当たるわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.208~209」国文社)
「たしかに、《実在するもの》は《実在するもの》として《時間》の内で《持続する》。だが、それが《時間》の内で持続する以上、それはそれ自身の《記憶》であり《想起》である。実在するものは各瞬間にその《本質》ないし《意味》を実在化する。と言うことはつまり、実在するものはそれが《過去》の中に無化された後に残るものを《現在》において実在化するものであり、そしてこの残ったものにして再び実在化されるもの──これがその《概念》である、ということを意味している。現在に《実在するもの》が、過去の中に沈む瞬間に、その《意味》(《本質》)はその実在(《現存在》)から《切り離される》。ここに、この《意味》を《語》の中に移行せしめ実在の《外に》保持する可能性が現われる。この《語》が《実在するもの》の《意味》を開示するのであるが、この《実在するもの》がそれ自身の《過去》、すなわち《語-概念》の中に『永遠に』維持される同じ《過去》を《現在》において《実在化する》わけである。要するに、《概念》が《世界》の内に経験的現存在(この経験的現存在は人間的現存在以外の何物でもない)を有しうるのは、《世界》が《時間的》であり、《時間》が《世界》の内に経験的現存在を有する限りでしかない。それによって、《時間》が経験的に現存在する《概念》《である》と言いうるようになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.209」国文社)
「こうして、《世界》の内に経験的に現存在する《時間》が存在しない限り、《世界》の内に《概念》は存在しない。ところで、すでに見たように、《世界》における《時間》の経験的現存在は、人間的欲望(すなわち《欲望》としての《欲望》に向かう《欲望》)であった。したがって、《欲望》がなければ概念的把握は存在しないということになる。さて、《欲望》は否定する《行動》によって実現され、《人間的》《欲望》はまったくの尊厳を求める《死の闘争》という《行動》によって実現される。しかもこの《闘争》は《奴》に対する《主》の勝利によって、及び《主》への奉仕においてなされる《奴》の労働によって実現され、この《奴》の《労働》が《主》の《欲望》を《充足せしめ》、それを《実現する》のであった。したがって、そしてこれをヘーゲルは第四章においてはっきりと述べているのであるが、──《労働》がなければ《概念》は存在しないということになる。《悟性》と《思惟》、すなわち《世界》の概念的把握が生まれるのは、《奴》の労働からである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.209~210」国文社)
「今や我々はなぜそうなるかを把握することができる。真に《新しい》現実を創造することによって《世界》を《本質的に》変貌せしめるのは、《労働》であり、ただ《労働》だけである。この地上に動物だけしか存在しないとすればアリストテレスは正しかったであろう。すなわち、《概念》は、永遠の類、永遠に自己同一な類の中に受肉されることになり、それは、プラトンが主張したように、《時間》と《世界》との《外に》は現存在しないことになろう。だがそうなると、どのようにして《概念》が類の外に現存在しうるか、どのようにしてそれが《時間的世界》の中に《語》という形で現存在しうるかは把握されぬことになろう。したがって、どのようにして《人間》が現存在しうるかもまた把握されぬことになろう。例えば、この存在者は犬ではないが、にもかかわらずその中に『犬』という《語-概念》が存在する以上、この存在者の中に『犬』という《意味》(《本質》)は犬におけると同じように現存在している。このようなことが可能であるためには、《概念》により開示される《存在》が本質的に時間的でなければならない。すなわち有限的、つまり《時間》の中で発端と終末とを有するものでなければならない。だが、本質的に時間的なものは、──自然の物体ではなく、動物や植物ですらなく、──ただ一つ人間の《労働》が生み出したものだけである。人間の《労働》こそが、空間的な《自然的世界》を《時間化する》のであり、したがって《労働》こそが、《自然的世界》とはまったく異なったものでありながらこの《自然的世界》に現存在する《概念》を生み出す。したがって、《労働》がこの《世界》に《人間》を生み出すのであり、《労働》が純粋な《自然的世界》を《人間》の住む《技術の世界》へ、すなわち《歴史的世界》へと変貌せしめるのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.210」国文社)
「《世界》であることなしに《世界》の中に経験的に現存在する《概念》において、そしてこの《概念》によって開示されるものは、人間の《労働》によって変貌せしめられた《世界》だけである。したがって、《概念》が《労働》《であり》、《労働》は《概念》《である》。マルクスがきわめて正当に指摘したように、ヘーゲルにとり《労働》が『《人間》の本質そのもの』であるならば、──ヘーゲルにとり人間の本質は《概念》であるとも言いうる。ヘーゲルが単に《時間》が《概念》であると述べたばかりか、《時間》が《精神》であるとも述べたのはそのためである。なぜならば、《労働》が《空間》を時間化するものならば、《世界》における《労働》の現存在は、この《世界》における《時間》の現存在となるからである。ところで、《人間》が《概念》であるならば、そして《概念》が《労働》であるならば、《人間》と《概念》ともまた《時間》である。そうであるならば、まず《第一に》、概念的把握が存在する場は、本質的に時間的、歴史的な現実が存在する所だけであり、《第二に》、歴史的、時間的な現存在だけが《概念》により開示されうる、と言わねばならない。或いは換言するならば、概念的把握は本質的に《弁証法的》であると言わねばならない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.210~211」国文社)
フィヒテに関するヘーゲルの叙述はフィヒテ批判どころか、むしろフィヒテに対する完全な「論駁」であるとコジェーヴは述べる。フィヒテは「観念論」の立場に立って叙述した。そのフィヒテの観念論を完膚なきまでに容赦なく「論駁」してしまうことで、ヘーゲルは観念論の総集成を試みながら実はヘーゲルこそ逆にヨーロッパ最大の「唯物論者」ででもあるかのようにフィヒテ流「観念論」を論破し切ってしまう。
「──†《知》はただ単に自分自身を識るだけでなく、自分自身にとって否定的なものをも識る、すなわち自分自身の限界をも〔識る〕。自分自身の限界を知る、もしくは識るということは、自分自身を犠牲にするのを知るということである。この犠牲が疎外ないし外化であり、その中で《精神》は自分の純粋な《自己》を自分の外に《時間》として、同様に自分の《所与-存在》を《空間》として直観し、《精神》に〔向かう〕自分の生成を《自由かつ偶然的な過程》という形式で叙述する†──この一節はまず一種の《実在論》の『演繹』を含んでいるのだが、他から切り離してこれだけを受け取るならば、それは誤解されるかもしれない。この一節はフィヒテに向けられた反論である。フィヒテに語りかけながら、ヘーゲルはここでフィヒテ自身の言葉(限界など)を用いている。だから、この本文は自己自身の限界を措定することで《客観》を措定する《主観》の活動について語っているように《見え》、まったくフィヒテのもの、すなわち『《観念論》』のものであるように見えるが、注意深く読むならば、そしてヘーゲルが述べることをフィヒテが他のところで述べることと比較するならば、これは論駁であることが理解される。まず、《自我》ないし《主観》が《客観》や自己の限界を措定するのではなく、《精神》がそれを措定する、とされている。いったい、ヘーゲルは倦むことなく、《精神》が根源や始元ではなく終末や結果である、と繰り返す(少し後でまたこれを繰り返している)。《精神》──それは開示された《存在》であり、つまりは(客観的)《存在》とその(主観的)《開示》との《総合》である。《主観》ではなく、《精神》(したがって《存在》)が《空間》及び《時間》として自分自身を措定するのであり、すぐ後に見るように、《自然》(=《存在》)及び《歴史》(=《人間》=《主観》=《自己》)として自分自身を措定する。彼は単に、《知》がそれを『識る』、と言うだけである。したがって、ヘーゲルは、《知》が自分自身を把握することができるとしても、すなわち自分自身を解明したり『演繹』したりできるとしても、それは、知にあらざるもの、すなわち実在する《客観》の現存在を仮定する限りでしかない。《知》の外に、この《知》から独立して存在する《客観》の現存在を仮定する限りでしかない、そしてこのような実在する《客観》を《知》が開示する、と言おうとしているにすぎない。これはフィヒテの述べることとまったく正反対である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.226~227」国文社)
「したがって、ここには語のフィヒテ的な意味での《実在論》の『演繹』はない。語のヘーゲル的な意味での『演繹』があるだけである。すなわち、《存在するもの》の《ア・ポステリオリな》演繹或いは概念的把握があるだけである。フィヒテの場合と違って、《主観》ないし《観念》から出発して《客観》ないし《実在するもの》を演繹することは問題となっていない。ヘーゲルは《精神》から、すなわち実在するものと観念的なものとの《総合》から出発するわけであり、したがって、(私が引用した一八〇一年の著作の本文においてきわめて率直に述べているように)彼は一方から他方を演繹することを放棄している。彼は両者を措定する、すなわち両者ともども前提とする。そして彼はこの両者を後で、両者共通の結果である《精神》の側から『演繹』する。換言すれば、実在するものと観念的なものとが一致する絶対的に真なる認識という、彼によればすでに獲得された事実から出発し、ただ両者の関係──これが認識の生成である──を《把握しよう》とするだけである。だが、《真理》、すなわち『《学》』や『《体系》』を所有しているからといって、その根源を忘れてはならない、その根源は相互に独立している実在的なものと観念的なものとの一致ではなく、両者の対立であり、相互作用である、と彼は述べる。《学》が《知》であるならば、《存在》もまた《知》(ないし《主観》)であると思ってはならない。《存在》は《精神》である、すなわち《知》《と》《実在するもの》との総合である。『《体系》』それ自体、《主観》が自己自身の内部で戯れた結果ではなく、《主観》と《客観》との相互作用の結果であり、このようにして体系は《主観》による《客観》の開示であり《客観》における《主観》の実現である。ヘーゲルは彼が『結果』であると述べるところの《精神》から《出発する》。しかもそれを結果として把握しようとする、すなわち精神の精神への生成の結果として精神を記述しようとする。《精神》が《主観》と《客観》との(或いはここでヘーゲルが述べるように《自己》と《存在》との)一致であるならば、その生成はこの一致に至る道程であり、そうである以上この道程を歩む間、両者の《区別》は維持され、したがってこれを説明することができるのは形而上学的《実在論》だけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.228」国文社)
「このように述べた後にヘーゲルは正確を期して二つの限定を与えるが、これはきわめて重要である。まず第一に、ヘーゲルは『《精神》の生成』は『自由かつ偶然的な過程』という形式をとる、と述べる。したがって、彼はここでつとに周知のものとなっていることを繰り返しているわけである。すなわち、『演繹』が可能であるとしても、それは後から、或いはよく言われるように《ア・ポステリオリ》でしかない、と述べるわけである。《精神》の生成が『自由かつ偶然的』であると述べること、これは、生成の終末ないし結果である《精神》から出発してこの生成の歩みを再構築することはできるが、発端からこの歩みを予見することはできず、それから《精神》を演繹することもできない、という意味にほかならない。《精神》が《存在》と《主観》との同一性である以上、精神のほうからそれに先立つ両者の対立とこの対立を廃棄する過程とを演繹することはできる。だが、最初の対立から出発するならば、この対立の終局における廃棄もそれに至る過程も演繹できない。この過程(ことに《歴史》)が偶然な出来事の自由な連鎖となるのはそのためである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.228~229」国文社)
「第二に、《精神》(すなわち《存在》の開示された《総体》)は、その生成において必然的に二重になる、とヘーゲルは述べる。すなわち、精神は一方では《自己》或いは《時間》となるが、他方では静的-《存在》或いは《空間》となる、と述べる。これはきわめて重要である。これはまず《実在論》の新たな主張である。なぜならば、きわめて明白なことだが、《実在論》は必然的に二元論であり、存在論上の二元論はつねに『実在論的』だからである。問題は挙げて、《実在論》において存在論上対立する二項をどのように定義するかを知ることに還元される。ところでヘーゲルはこれらを《時間》と《空間》として対立させねばならない、と述べる。このように述べることで、彼は言うならば自己の全哲学を要約し、そこに含まれる真に新しいものを指摘している。だが、他から切り離して捉えるならば、この主張は逆説的に見える。《存在》の総体を《時間》と《空間》とに分割しようなどと考えた者はこれまで誰一人としていなかったあ。(西洋の)哲学は、『実在論的』、ないし二元論的であった限りでは、《存在》の総体を《主観》と《客観》や《思惟》と《実在》等に分割してきた。だが、周知のように、ヘーゲルにとり《時間》は《概念》《である》。とすると、ヘーゲルの分割の仕方は、逆説的であるどころか凡庸に見える。言ってみれば、これはデカルトの(ここではデカルトの名しか挙げないが)《延長》と《思惟》との対立である。だが、実は、《思惟》という用語を《時間》という用語で置き換えることによって、ヘーゲルは偉大な発見をしていたのであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.229~230」国文社)