「『そう、たぶん、卑劣漢でもあるでしょうね。そんなのは言葉だけの問題だと、きみだって知っているじゃないですか』『ぼくは一生涯、これが言葉だけであってはならないと思ってきた。そうあってはならないと思うから、生きてきた。ぼくはいまでも毎日、言葉だけに終わらせまいと念じている』『まあ、だれもがよりよい場所を捜しているんだから。魚は──いや、だれにしても、それなりの快適さを求めているわけで、それだけのことさ。とうの昔からわかりきったことですね』『快適さというのかね?』『まあ、言葉で争っても仕方がない』『いや、うまい言葉だ、快適さでいい。神は必要だから、存在するはずだ』『じゃ、それでいいでしょう』『ところがぼくは、神は存在しないし、存在しえないことを知っている』『そのほうが正しいかな』『きみにはわからないのかな、人間はそんな二種の思想をもちながら生きていけないことが?』『それで、自殺すべきだというわけですか?』『きみにはわからないのかな、これ一つだけでも自殺に値するということが?何十億というきみたちのような人のなかに、それを望まない、それに耐えられない人間が一人、一人だけは存在することがわからないのかな』『ぼくにわかるのは、きみが動揺しているらしいということだけですね──これは実によくない』『スタヴローギンも思想にくいつくされた』陰鬱(いんうつ)な顔で部屋の中を歩きまわっていたキリーロフは、その言葉に気づきもしなかった。『なんです?』ピョートルは耳をそばだてた。『思想って、どんな?彼が何かきみに言ったんですか?』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.433~434」新潮文庫)
「『いや、ぼく自身の推察ですね。スタヴローギンは、たとえ信仰をもっていても、自分が信仰をもっていることを信じようとしない。信仰をもっていないとしたら、信仰をもっていないことを信じようとしない』『いや、スタヴローギンにはもっとちがったものがあるな、もっと気のきいたものが』話の成行きとキリーロフの青ざめた顔を不安げに追っていたピョートルが、喧嘩腰(けんかごし)につぶやいた。<畜生、こりゃ自殺しないぞ>と彼は考えた。<思ったとおりさ。頭の体操、それだけさ。なんというろくでなしだ!>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.434~435」新潮文庫)
「『きみは、ぼくといっしょにいる最後の人間だ。きみとは気まずい別れ方をしたくない』ふいにキリーロフが期待に答えた。ピョートルはすぐには答えなかった。<畜生、またどういうことだ?>彼はふたたび考えた。『信じてくれたまえ、キリーロフ、ぼくは個人としてのきみにはなんの悪意ももっていない、そしていつも──』『きみは卑劣漢で、偽(にせ)の才知の持主だ。ところがぼくはきみと同じような人間なのに、自殺して、きみは生き残る』『というと、ぼくはおめおめと生きながらえるのを望むような下劣な人間というわけですか』彼は、いまのような場合にこういう会話をつづけることが得策か否かをまだ決しかねていたので、<成行きにまかせる>ことに決心した。しかし、以前からいつも彼をいらだたせずにおかなかったキリーロフの優越意識と、いつもながらのあらわな軽蔑(けいべつ)の調子が、いまはなぜかふだんより気にさわった。それは、おそらく、あと一時間もすれば死ぬことになっているキリーロフが(ピョートルはまだそのことを念頭に置いていた)、いまの彼には、何か『半人』のようなものに、もうとうてい傲慢(ごうまん)な態度など許せるはずもない存在に思えたからであろう。『きみは、なんだか、ぼくに対して自殺するのを自慢しているみたいですね?』『ぼくはいつも、みながおめおめと生きながらえているのをふしぎに思っていた』キリーロフには彼の言葉など耳にはいらなかった。『ふむ、それも一つの見識だが──』『猿だ、ぼくを手に入れようとして、きみは相槌(あいづち)ばかり打っている。何もわかりゃしないのなら、黙りたまえ。もし神がないとしたら、ぼくが神だ』『そこですね、きみの説でどうしてもぼくにわからないのは、なぜきみが神なんです?』『もし神があるとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある』『我意?でも、どうして義務なんです?』『なぜなら、すべての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。ちょうど貧乏人に遺産がころげこんだが、それを自分のものにする力はないと思いこんで、金袋に近寄る勇気が出ないのと同じで。ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、ぼくはやってみせる』『まあ、やってください』『ぼくには自殺の義務がある。なぜなら、ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだから』『しかし、きみだけが自殺するわけじゃない。自殺者はたくさんいますよ』『理由がある。ところが、なんの理由もなく、ただ我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人なのだ』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.435~437」新潮文庫)
「<自殺しないな>ピョートルはまたちらと考えた。『いいですか』彼はいらだたしげに口を入れた。『ぼくがきみの立場だったら、我意を示すためには、自分じゃない、だれかほかの人間を殺しますね。それなら役に立てますよ。もし怖気(おじけ)づかないようなら、だれを殺せばいいか教えましょうか。それなら、きょう自殺しなくてもいい。相談に乗ってもいいですよ』『他人を殺すのは、ぼくの我意の最低点だし、そこにきみのすべてがある。ぼくはきみじゃない。だから最頂点を欲して、自分を殺す』<思弁そのものだ>ピョートルは心中、憎々しげにつぶやいた。『ぼくは自分の不信を宣言する義務がある』キリーロフは部屋を歩きまわった。『ぼくにとって、神がないという思想以上に高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい』<自殺しないな>ピョートルは不安になった。『だれが記憶にとどめるんですね?』彼はそそのかした。『ここにはぼくときみしかいない。リプーチンですか?』『だれもが記憶にとどめるのだ。だれもが知るのだ。顕(あら)わるるためならで、隠るるものなし(マルコ福音書・第四章・二十二節)。これは《あの人》の言葉だ』そう言うと彼は、熱に浮かされたような歓喜の面持で、救世主の聖像を指さした。その前には燈明がともっていた。ピョートルはすっかり怒ってしまった。『すると、きみはまだあの人を信じていて、燈明なんぞともしているんですか。《万一にそなえて》とちがいますか?』相手は黙っていた。『どうです、ぼくに言わせると、きみは坊主以上に信じているようだな』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.437~438」新潮文庫)
「『だれを?あの人を?聞きたまえ』キリーロフは足を止め、じっと動かぬ、狂信的な眼差(まなざ)しで前方を見据えた。『偉大な思想を聞きたまえ。この地上にある一日があり、大地の中央に三本の十字架が立っていた。十字架にかけられていた一人が、その強い信仰ゆえに、他の一人に向って、<おまえはきょう私といっしょに天国へ行くだろう>と言った。一日が終り、二人は死んで、旅路についたが、天国も復活も見いだすことができなかった。予言は当らなかったのだ。いいかね、この人は地上における最高の人間で、この大地の存在の目的をなすほどの人だった。全地球が、その上のいっさいを含めて、この人なしには、狂気そのものでしかないほどだった。後にも先にも、これほどの人物は現われなかったし、今後も現われないだろうという点が、奇蹟だったのだ。ところで、もしそうなら、つまらい自然の法則が<この人>にさえ憐(あわ)れみをかけず、自身の生み出した奇蹟をさえいつくしむことなく、この人をも虚偽のうちに生き、虚偽のうちに死なしめたとするなら、当然、全地球が虚偽であって、虚偽の上に、愚かな嘲笑(ちょうしょう)の上にこそ成り立っているということになる。つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だということになる。なんのために生きるのか、きみが人間であるなら、答えてみたまえ』『それは問題の局面がちがう。きみは二つの原因を混同しているように思うし、それは心もとない話ですよ。でも、失礼だが、きみが神であるとしたら?虚偽が終りを告げて、もしきみが、いっさいの虚偽の根原は旧(ふる)き神の存在にあることを悟ったとしたら』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.438~439」新潮文庫)
「『とうとうきみにもわかったな!』キリーロフは有頂天になって叫んだ。『してみれば、きみのような男にもわかる以上、これは理解可能なわけだ!さあ、これでわかったろう、万人にとっての救いは一つ──この思想を万人に証明することにこそあることが。だれが証明する?ぼくだ!どうしてこれまでの無神論者が、神はないことを知りながら、同時に自分を殺さないでこられたのか、ぼくにはわからない。神がないことを知りながら、同時に自身が神になったことを意識しないのは──不条理そのものだし、でなければ、かならず自分で自分を殺すはずだ。もし意識すれば──きみは皇帝で、もはや自分を殺すどころか、最大の栄光のうちに生きればよい。しかし一人は、つまり最初の一人は、どうあっても自分で自分を殺してみせなければならない。でなければ、だれがそれをはじめ、だれが証明するんだ。ぼくがどうあっても自分で自分を殺すのは、それをはじめ、それを証明するためなんだ。ぼくはまだ余儀なくされた神にすぎないから、ぼくは不幸だ。なぜって、我意を宣言する《義務》があるからだ。万人が不幸であるのは、彼らがすべて我意を宣言するのを恐れているからだ。人間がこれまで不幸であり、貧しくあったのは、我意の最頂点を宣言することを恐れて、小学生のように、隅(すみ)っこのほうでちょっぴり我意を張っていたからだ。ぼくはおそろしく不幸だよ。なぜなら、おそろしく恐れているから。恐怖は人間の呪(のろ)いなんだ──しかし、ぼくは我意を宣言するぞ、ぼくには、自分が信仰をもっていないことを信ずる義務があるのだ。ぼくは自分ではじめ、自分で結末をつけ、扉(とびら)を開いてやるのだ。そして救ってやるのだ。このことだけがすべての人を救い、つぎの世代を肉体的に生れ変らせることができる方法なんだ。なぜって、ぼくの考えだと、いまの肉体の有様では人間は旧い神なしにはとてもやっていけないからね。ぼくは三年間自分の神の属性を捜し求めて、それを発見した。ぼくの神の属性は──《我意》だよ!これこそ、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由をその頂点において示すことのできるすべてなのだ。なぜって、この自由は実に恐ろしいものだからね。ぼくが自殺するのは、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由を示そうためなんだ』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.439~440」新潮文庫)
「彼の顔色は不自然なほど青白く、彼の目は耐えがたいほど重苦しかった。彼は熱に浮かされてでもいるようだった。ピョートルは、彼がいまにも倒れるのではないかと思った。『ペンをよこせ!』ふいにキリーロフが強く霊感に打たれでもしたように、まったく思いがけなく叫んだ。『口述したまえ、なんでも書いてやる。シャートフを殺したとも書いてやる。おれが滑稽(こっけい)がっているうちに、口述するがいい。高慢ちきな奴隷(どれい)の思想なんぞこわくないぞ!隠れたるものがすべて顕われることが、きさまにもわかるだろうさ!それできさまは圧(お)しつぶされるんだ──信ずるぞ!おれは信ずるぞ!』ピョートルはさっと踊りあがって、あっという間にインク壷(つぼ)と紙を手渡し、この機会をのがすまいと、成功を念じておののきながら、口述に取りかかった。《余、アレクセイ・キリーロフは、宣言する──》『待て!いやだ!だれに宣言するんだ!』キリーロフは熱病にかかったようにふるえていた。この宣言ということと、それにまつわる一種独特の思いがけない考えとが、ふいに彼の全存在を呑(の)みつくしてしまったようだった。それは、疲れ果てた彼の魂が、ほんの一瞬にせよ、そこへまっしぐらに突き進んでいくための目標となった観があった」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.440~441」新潮文庫)
「『だれに宣言するんだ?だれにだか知りたい?』『だれにでもない、万人ですよ、最初にこれを読む人間。そんなことを決めてかかる必要はないでしょう?全世界にでもいい!』『全世界にか?ブラヴォー!それから後悔めいたことはいっさい抜きだ。後悔なんかいやだし、当局宛(あて)もごめんだ!』『とんでもない、当局なんぞ糞(くそ)くらえだ!さあ、本気なのなら、書いてくれたまえ!』ピョートルはヒステリックに叫んだ。『待て!おれは上のほうに、舌をべろりと出した面(つら)を描きたい』『ええ、くだらない!』ピョートルは怒った。『絵なんて添えなくても、そんなことはみんな調子一つで表現できる』『調子だと?そいつはいい。そう、調子だ、調子だ!調子でもって口述してくれ』《余、アレクセイ・キリーロフは》ピョートルはキリーロフの肩口にかがみこんで、彼が興奮にふるえる手で記(しる)していく一字一字を注視しながら、しっかりした命令的な口調で口述した。《余、キリーロフは、宣言する。本日、十月X日、夕刻、七時過ぎ、大学生シャートフを、その裏切りのゆえに、公園において、殺害せり。檄文(げきぶん)に関し、また、われわれ両名の居住せしフィリッポフ館に十日間逗留(とうりゅう)せるフェージカに関し、密告を行いたることもその理由なり。本日、余がピストル自殺をとげるは、後悔のため、ないし諸君を恐れるがゆえにあらず。すでに国外において、わが生命を絶たん意図をもちたるがゆえなり》『これだけ?』キリーロフが驚きと憤りの口調で叫んだ。『これ以上は一言も要らない!』ピョートルは、相手の手からこの書類を奪い取ろうと隙(すき)をうかがいながら、片手を振った」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.441~442」新潮文庫)
「『待て』キリーロフは片手をしっかりと紙の上に置いた。『待て、そんなばかな!おれはだれとやったか書きたい。なんだってフェージカのことを?で、火事は?おれは全部書きたいし、罵倒(ばとう)してやりたいんだ、その調子というやつで!』『もういいんです、キリーロフ、ほんとうにこれで十分なんですよ!』ピョートルは、相手が紙を引裂きはしないかとひやひやしながら、ほとんど哀願せんばかりに言った。『ほんとうらしく思わせるには、できるだけ曖昧(あいまい)に書く必要があるんです、つまり、これですよ、こんなふうにちらとほのめかすんです。真実というやつは、端のほうをちらと垣間見(かいまみ)せて、人の気持をそそるのが手なんですよ。人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるものなんですよ、これがいちばん、これがいちばんなんですね!さあ、およこしなさい、それで申し分なし、およこしなさいよ、さあ!』こう言いながら、彼は紙をもぎ取ろうとねらっていた。キリーロフは目をむきだして、何やら一心に会得しようとするふうだったが、どうやら、もう理解力を失っているように見えた。『ちょっ、畜生!』ふいにピョートルがかっとなった。『まだ署名をしてないじゃないか!なんだってそう目をむきだすんです。署名してくださいな!』『ぼくは悪態をつきたい──』キリーロフはつぶやいたが、それでもペンを取って、署名をした。『ぼくは悪態をつきたい──』『共和国万歳とでも書いておおきなさいな、それで十分ですよ』『ブラヴォー!』キリーロフは歓喜のあまり吼(ほ)えるような声で叫んだ。『民主的、社会的、世界的共和国バンザイ、シカラズンバ、死ダ──いや、いや、そうじゃない。自由、平等、友愛、シカラズンバ、死ダ!このほうがいい、このほうが』彼は、さも楽しそうに、自分の署名の下にこう書き添えた。『それでけっこう、もう十分ですよ』ピョートルはなおもくり返した。『待て、もうすこしある──そうだ、もう一度、フランス語で署名しておこう。《ロシアの貴族にして世界の市民なるド・キリーロ》とね。は、は、は!』彼は笑いくずれた。『いや、いや、いや、待てよ、もっといいのを見つけたぞ、これだ。《ロシアの貴族・神学生にして文明世界の市民なる》だ!これがいちばんいい──』彼はソファから跳(は)ね起き、ふいにすばやい動作で窓のピストルを手にすると、それを持って別の部屋へ駆けこみ、ぴったりとドアを閉ざしてしまった。ピョートルはドアを見つめながら、一分ほどその場に立っていた。<いまだったら、たぶん、射つだろう。だが、考えはじめたら、何も起きるまい>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.442~443」新潮文庫)
「彼はともかく紙片を手にして、腰をおろすと、もう一度それを読み返した。宣言の書き方は今度も彼の気に入った。<当面、何が必要かだ。必要なのは、一時的にせよ、連中をすっかり混乱させて、横道へ連れこむことだ。公園?町には公園がないが、まあ、なんとか考えて、スクヴォレーシニキと気がつくだろう。それを考えつくまでに時間がかかるし、捜すまでに、また時間がかかる。で、死体が見つかって、遺書はほんとうだったということになる。そこで、全部がほんとうで、フェージカのこともほんとうだとなる。ところでフェージカとは何だ?フェージカ──こいつは火事だ、レビャートキン殺しだ。すると、すべてのもとは、このフィリッポフ館で、連中は何も気づかず、見落としていたということになる──これでもう連中はすっかり大混乱だ!《同志たち》のことなど、頭にもうかんでこない。シャートフとキリーロフ、それにフェージカとレビャートキンだ。で、この連中がなぜおたがいに殺し合ったのか──これがまたちょっとした疑問の種になる。ええ、畜生、ピストルがさっぱり聞こえないな!──>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.443~444」新潮文庫)
「彼は遺書を読みなおして悦に入っていたが、その間もたえず不安にかれら、一瞬ごとに耳を澄ましていた。そして──ふいにかっとなった。彼は心配そうに時計を眺(なが)めた。すこし遅すぎた。彼が出ていってから、十分ほどもたっていた──蠟燭(ろうそく)を手にすると、彼はキリーロフが閉じこもった部屋の戸口へ向った。ドアのすぐ前まで来たとき、ちょうど、蠟燭がもう燃えつきそうで、二十分もすれば燃えつきてしまうこと、そして代りの蠟燭がないことをひょっくりと思いうかべた。彼はドアのハンドルに手をかけて、注意深く耳を澄ました。ことりという物音も聞えなかった。彼はだしぬけにドアをあけて、蠟燭をかかげた。何かが吼(ほ)えたけりながら、彼にとびかかってきた。彼は力まかせにドアをばたんとしめると、ふたたびドアに体をもたせた。しかし、もうあたりは静まり──ふたたび死のような静寂がたちこめていた。彼は蠟燭を手にしたまま、長いこと決心をつけかねて立っていた。ドアをあけた一瞬の間に見分けられたものは、ほんのわずかでしかなかったが、それでも、部屋の奥の窓ぎわに立っていたキリーロフの顔と、彼が突然とびかかってきたときのすさまじい形相だけは目に映じた。ピョートルはびくりとふるえて、手早く蠟燭をテーブルの上に置き、ピストルを用意して、爪先立(つまさきだ)ちで部屋の反対側の隅へとびのいた。こうすれば、たとえキリーロフがドアをあけ、ピストルを構えてテーブルのほうへ突進してきたとしても、彼は狙(ねら)いをつけて、キリーロフより先に発射できるはずであった」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.444~445」新潮文庫)
「もういまとなっては、相手が自殺するだろうなどとピョートルは信じてもいなかった。<部屋のまんなかに突っ立って、考えていたな>──ピョートルの頭を、旋風のように、こんな考えが駆け抜けた。<おまけに暗くて、恐ろしい部屋だ──あいつは吼えるような声を立ててとびかかってきたが──これには二つの可能性がある。つまり、あいつが引き金を引こうとした瞬間におれが邪魔を入れたか、でなければ──でなければ、あいつは突っ立ったまま、どうやっておれを殺そうかと思案していたわけだ──そうだ、それにきまっている、やつは思案していたんだ──あいつは、もし自分が弱気を起したら、おれがあいつを殺さずには帰らないことを知っている、──してみれば、あいつは、おれがやつを殺す前に、おれを殺さなくちゃならない──それにしても、またぞろ、またぞろ静まり返ったな!恐ろしいぐらいだ。いきなりドアをあけてやるか──何より頭にくるのは、あいつが坊主より熱心に神を信じていることだ──絶対に自殺なんかしっこない!──ああいう、《思弁だけの》やつらが、このところやけに増(ふ)えてきたな。ならず者め!ちぇっ、畜生、蠟燭が、蠟燭が!十五分で確実に燃えつきるな──けりをつけなくちゃ、なんとしたってけりをつけなくっちゃ──ところで、いまなら殺してもいいな──この遺書があれば、だれもおれが殺したとは思うまい。発射したピストルを手に握らせて、床の上にうまいこところがしておけば、だれだって、自分でやったと思うさ──ええ、畜生、どうやって殺すかな?おれがあけると、やつはまたとびかかってきて、おれより先に射つだろう。ええ、畜生、これじゃしくじるにきまってらあ!>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.445~446」新潮文庫)
「こうして彼は、この計画がもう避けられないこと、そのくせ自分の決心が定まらないことにおののきながら、ひとり悩んでいた。とうとう彼は蠟燭を取りあげ、いつでも射てるようにピストルを構えながら、ふたたびドアのそばに近寄った。そして、蠟燭を持っている左の手をドアのハンドルにかけた。しかし、それはうまくいかなかった。ハンドルがかちりと鳴って、ぎいっという音がひびいた。<狙い射ちだ!>──ピョートルはちらと思った。彼は足で力まかせにドアを蹴(け)って蠟燭をかかげ、ピストルを突き出した。しかし、ピストルの音も、叫び声もなかった──部屋の中にはだれもいなかった。彼はびくりとふるえた。部屋は行きどまりで、ほかに出口はなく、どこへも逃げ道はなかった。彼は蠟燭をさらに高くかざして、注意深く部屋をのぞきこんだ。人っ子一人いない。彼は小声でキリーロフを呼び、もう一度、すこし声を高めて呼んだ。だれも答えない」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.446」新潮文庫)
「<まさか窓から逃げたわけでもあるまい?>事実、一つの窓の通風口があけ放されていた。<ばかな、通風口から逃げられるわけもない>ピョートルはずっと部屋を横切って、まっすぐ窓のほうへ近寄った。<どうしたって無理だ>ふいに彼はすばやくうしろを振向いた。すると、何か異常な気配に彼はぎょっとなった。窓と向かい合った壁の、ドアの右手に、戸棚(とだな)が一つ立っていた。この戸棚の右側の、壁と戸棚でできた凹み(くぼ)に、キリーロフが立っていた。それも実に奇妙な立ち方だった。身動きひとつせず、体をぴんと伸ばし、両手をズボンの縫目に当てがい、頭を起して、後頭部を壁にぴったりと押しつけ、その凹(くぼ)みの中におさまっている様子は、そのまま全身をかき消してかくれてしまいたいとでも思っているようだった。あらゆる兆候から見て、彼はかかうれているのにちがいなかったが、どうもそれが本気にできなかった。ピョートルはその隅(すみ)からはいくぶん斜めの位置にいたので、彼に見えたのは、体のはみ出ている部分だけであった。彼にはまだ、左のほうへ体を動かして、キリーロフの全身を目にし、謎(なぞ)を解こうという決心がつかなかった。彼の心臓ははげしく鼓動しはじめた──と、突然、彼は凶暴な怒りの発作にかられた。彼は身をひるがえすと、大声をあげ、足を踏み鳴らしながら、猛然とその恐ろしい場所へ突き進んだ」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.446~447」新潮文庫)
「しかし、ぴたりとそばまで近寄ると、彼はふたたび釘(くぎ)づけにされたように立ちどまり、さらにはげしい恐怖におそわれた。何より彼を驚かせたのは、彼の叫び声と気違いじみた剣幕にもかかわらず、相手の姿が、まるで化石したか、蠟人形ででもあるかのように、びくりと動くでもなく、手足ひとる動かそうとしないことだった。彼の顔の青白さは不自然なほどえ、黒い目はまばたきひとつせず、虚空の一点を凝視していた。ピョートルは蠟燭を上から下へ、さらにまた上へと移しながら、あらゆる角度からこの顔を照らして眺めまわした。ふいに彼は、キリーロフがどこやら前方を見ていながら、同時に横目で彼のほうを見ているばかりか、観察までしていることに気づいた。すると、ふと彼の頭に、蠟燭の火を<この人>の顔にじかに近づけて、火傷(やけど)をさせ、相手が何をするか見てやろうという考えが浮んだ。と、ふいにまた、キリーロフの顎(あご)がわずかに動いて、人をあざ笑うような微笑がつと口もとを走ったように感じた──まるでこちらの肚の中を読み取りでもしたようだった。彼はがたがたとふるえだし、われを忘れて、むずとばかりキリーロフの肩をつかんだ」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.447」新潮文庫)
「それにつづいて起ったことは、あまりにも無茶苦茶な、とっさの間の出来事で、ピョートルもその記憶をあとから秩序立った形にまとめることがどうしてもできなかった。彼がキリーロフに触れるか触れないうちに、相手はふいに頭を沈め、その頭で彼の手から蠟燭を叩(たた)き落してしまった。燭台(しょくだい)ががらんがらんと音を立てて床にころがり、灯は消えた。その同じ瞬間に、彼は自分の左手の小指にはげしい痛みを感じた。彼は悲鳴をあげた。そして、彼が記憶していたのは、自分がもう前後も忘れて力まかせに三度、自分に襲いかかってきて指に噛(か)みついたキリーロフの頭をピストルでなぐりつけたことだけであった。ようやくのことで彼は指をもぎ放すと、暗闇(くらやみ)の中を手で探りながら、後も見ずに外へ駆けだした。その後を追って、恐ろしい叫び声が部屋の中からとんできた。『いますぐ、いますぐ、いますぐ、いますぐ──』十度ほども立てつづけだった。しかし彼はいっさんに走りつづけ、もう玄関口まで走り出たとき、ふいに高らかな銃声が聞えた。彼は玄関の暗闇で足を止め、五分ほどあれこれ考えていたが、ようやく、もう一度部屋に取って返した。しかし、まず蠟燭を見つけなければならなかった。戸棚の右手の床の上を捜して、叩き落された燭台を見つければよいわけだったが、それにしても、燃えさしにどうやって灯をともしたものか?ふと彼の頭に、あるぼんやりとした記憶がよみがえった。きのう、フェージカにつかみかかろうと台所へ降りていったとき、片隅の棚の上にマッチの大きな赤い箱をちらと目にしたような気がしたのである。彼は手探りで、左手の台所のドアのほうへ進み、ドアを見つけると、小部屋を抜けて台所へ降りていった。棚の上の、彼がたったいま思い出したちょうどその場所に、暗闇を手探りしながら、まだあけてない、ぎっしり詰ったマッチの箱を見つけた。彼は火をともさずに、そのままいそいで上に戻り、そしてなんとか戸棚のそばの、噛みついたキリーロフをピストルでなぐったあの場所まで来たとき、ふいに指を噛まれたことを思い出し、それと同時にほとんど耐えがたい痛みを感じた。歯を食いしばって、彼はなんとか燃えさしに火をつけ、またそれを燭台にさして、あたりを見まわした」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.448~449」新潮文庫)
「風口をあけ放してある窓のそばに、足を部屋の右側に向けて、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみに射ちこまれ、頭蓋骨(ずがいこつ)を貫通して、左の上端から抜けていた。血と脳味噌のしぶきが散っていた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手に握られていた。瞬間的な即死であったらしかった。いっさいの模様を綿密に調べあげると、ピョートルは体を起して、爪先歩きで部屋を出た。ドアをしめ、蠟燭を元の部屋のテーブルの上に立て、ちょっと思案したが、火事を起す心配もないと考えて、火は消さずにおくことにした。テーブルの上の遺書のほうをもう一度ちらと見て、反射的ににやりとすると、なぜかあいかわらず爪先立ちで、この家を出ていった。またフェージカの通路をくぐって、そのあとをまたきちんとふさいでおいた」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.449」新潮文庫)