コジェーヴによるヘーゲル読解入門。「主と奴の闘争」における「労働」の意義と社会的変革。
「だが、《闘争》と《危険を冒すこと》だけが《自然的世界》における《否定性》や《自由》、つまりは《人間性》の唯一の『現われ』なのではない。《労働》もまたその一つである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.310」国文社)
「本来的な言い方では、どのような動物も労働しない。なぜならば、動物は自己が現実に現存在する世界において自己に与えられた所与条件によって解明されぬ『企図』に基づき、自己の生きる世界を変貌させることが決してないからである。この地上に生きる動物は、例えば水中とか空中とか、自己の自然的環境とは異なった環境に生きることを可能とするような道具を決して作らない。ところが、《人間》は自己の労働によって潜水艦や飛行機を作ってきた。実際、《労働》は所与の《自然的世界》を本質的に変貌せしめ、労働する者をこの《世界》における彼の『自然的な場』から放逐せしめ、かくして彼自身を本質的に変化せしめるが、それは当の行動が真に否定的である限りで、すなわちこの行動が或る何らかの『本能』や所与的、生得的な『傾向』に由来するのではなく、遺伝的な本能を否定し、生得的な『本性』を廃棄する限りのことである。そのとき、このような行動に《対立する》ことによって、このような本性は『怠惰』としてみずからを『現わす』。自由な状態にある動物は決して怠惰ではない。なぜならば、動物は飢えて死んでしまうか、或いは地上に広まらないだろうからである。《人間》のみが怠惰でありうる。しかも、本来の労働がどのような《生命の》必然性にも呼応していない以上、人間はただ《労働において》のみ怠惰でありうる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.310~311」国文社)
「《否定性》の実現であり『顕在化』である以上、《労働》はつねに『強制された』労働でありうる。すなわち、《人間》は自己を労働へと強制せざるをえず、自己の『本性』に暴力を加えねばならない。少なくともその発端において労働を強制し、かくして暴力を揮う者は《他者》である。《聖書》においては、堕落した人間に《労働》を課すのは《神》である(が、しかしそれは『自由』な行為であった堕落の『必然的』な帰結でしかない。したがって、ここでもまた労働は自由な行為の帰結であり、《人間》が自己の生得的で『完全』な本性を否定した否定的行動を顕在化するものである)。ヘーゲルにおいて《労働》は最初に《主》となった者が最初に自己の《奴》となった者に課す奴の労働という形で初めて《自然》の中に『現われる』。(加えて、奴は戦闘において死を受け容れることによって、或いは敗北の後に自殺することによって奴であることと労働とを逃れることができたはずだから、この奴はみずからの意志で主に服したのであった)」 (コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.311」国文社)
「《主》は《奴》に労働を強制し、その労働によって自己自身の欲望を充足せしめようとするが、この欲望はそのままでは『自然的』、動物的な欲望でしかない。(《主》が自己の欲望を充足せしめるときに動物と異なっているのは、必要な努力が《奴》によって為されるわけだから、ただ主が努力せずにそれを充足せしめるという点でのことである。このようなわけで、《主》は動物と異なりもっぱら『享受者』として生きることができる)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.311」国文社)
「だが、このような《主》の欲望を充足せしめるために、《奴》は(自分で食べたいにもかかわらず食べられない食物を用意するなど)自己自身の本能を抑圧せねばならなかったし、自己の『本性』に暴力を加え、したがって《所与》としての自己すなわち動物としての自己を否定し『廃棄』せねばならなかった。したがって、《労働》は自己を否定する《活動》であり、それによって自己を創造する活動である。すなわち、労働は《自由》を実現し顕在化せしめる、つまりは所与一般及び所与としての自己に対立する自立を実現し顕在化せしめ、労働する者の人間性を創造し顕在化せしめるのである。《闘争》において、そして《闘争》により《人間》は動物としての自己を否定したが、それとまったく同じように、《労働》において、そして《労働》により、人間は動物としての自己を否定する。労働する《奴》が自己の生きている《自然的世界》の中に技術の世界という人間特有の《世界》を創造し、それによってこの《自然的世界》を本質的に変貌させることができるのはそのためである。労働する奴は自己の生得的『本性』から必然的に結果として生ずるわけではない『企図』に基づいて労働し、(いまだ)自己の許には《現存在》していない何物かを労働によって実現する。自己の労働によって生み出した《世界》を除いては他のどこにも現存在しないもの、すなわち橋やトンネルや芸術作品など《自然》が決して生み出さないもろもろのものを労働する奴が創造しうるのはそのためである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.311~312」国文社)
「労働する《奴》の行動的な自己-否定により創造され『制作されたもの』は《自然的世界》の中に繰り入れられ、それによりこの世界を《現実に》変貌させる。このようにして変貌せしめられた(すなわち人間化された)《世界》の現実の中で自己を維持しうるためには、《奴》は自己自身を変えねばならない。だが、所与の《世界》の中で労働することによってこの世界を変貌させたのが《奴》である以上、翻って奴が《蒙むる》ように見える変化は実は《自己-創造》にほかならない。すなわち、自己を変化させ、《所与》であった自己とは異なったものに自己を《創造する》のは奴自身である。《奴であること》から《自由》(しかし無為の《主》のそれとは異なった自由)へと《労働》が奴を高めることができるのはそのためである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.312」国文社)
「このようなわけで、外観とは裏腹に、《奴》は《自己のため》に(も)労働している。たしかに、《主》は奴の労働から利益を得る。《承認》のための《闘争》において《危険》を冒すことを受け容れたことによって自己の動物的な本性を否定した以上、《主》は自己の人間性を実現している。したがって、動物とは対照的に、《人間》がするように、主は、必ずしもそのすべてを作るように『命令』したわけでもないのに、《奴》の労働によって得られる人間特有の所産を我が物とすることができる。すなわち、主は、当初は『欲し』ていなかったにもかかわらず、もろもろの技術的な所産を利用し芸術作品を享受することができる。《奴》の《労働》により所与の《世界》にもたらされるもろもろの変革に基づいて主もまた変化するのはそのためである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.312」国文社)
「だが、みずからは労働しない以上、自己の外に、したがって自己自身の内にこれらの変化を生み出す者は主ではない。《主》が発展するのは《奴》の労働の所産を費消するからである。だが、《奴》は主が欲し命じた以上のもの、欲し命じたものとは異なったものを主に提供する。したがって、主は意図せずに、あたかも強制されたかのように、この(真に人間的、非『自然的』な)余剰物を費消する。すなわち、奴により提供されるものを費消するために主は自己の本性に暴力を加えねばならぬわけであり、そうであるならば、主は《奴》による一種の訓育(或いは教育)を蒙むっていることになる。したがって、主は《歴史》を受動的に受け止めるだけであり、それを創造しない。すなわち、主が『発展して行く』としても、主は《自然》や動物が進化して行くように受動的に発展して行くにすぎない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.312~313」国文社)
「それに反し、《奴》は人間的に発展して行く、すなわち(みずから承知の上で自己自身を否定しながら)意志的、意識的に、さらには行動的、自由に変化して行く。《労働》により自己自身の所与の本性を否定することによって奴は自己の本性の上に自己を高め、それに対し(否定する)《関係》に立つ。これはつまり、奴が自己を意識し、その意識化によって自己にあらざるものを意識する、という意味である。労働を通じ奴により《創造された》ものであり、そのため《自然的》実在性をもたぬものは、《観念的な》ものとして奴に己れ自身を映し出す、すなわち彼が遂行する労働の『範型』や『企図』となって彼に現われる『観念』となって奴に己れ自身を映し出す。労働する《人間》は(《自然》を思惟しそれを自己の労働の『素材』として語るように)自己の労働の対象を《思惟し》それについて《語り》、そして思惟し語ることによってのみ、《人間》は真に《労働する》ことができるようになる。このようなわけで、労働する《奴》は自己の行動とその結果とを意識している。すなわち、彼はみずから変貌させた《世界》を《把握》し、その世界に自己を適合させるためには否応なく自己自身を変えねばならぬということを自己自身で《理解する》。このようにして、《奴》は自己自身が実現し自己の言説により開示する『進歩について行く』ことを《望む》のである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.313」国文社)
この箇所にはコジェーヴによる次の原注がある。原注でもまた「労働を媒介とした承認への欲望」、「労働を通して世界を把握する」ということ、さらにここでは「義務」の観念について論じられている。
「人間が真に自己を意識しているならば、技術の《世界》を創造した《人間》は、労働者としても(また)生きるのでなければこの世界の中で生きることができない、ということを《知っている》。人間が《奴》であることをやめた後でさえも労働し続けようと《望むこと》ができるのは、そのためである。すなわち、人間は自由な《労働者》となることができるのである。──事実、《労働》は(《闘争》を媒介とした)《承認》への《欲望》から生まれ、この《欲望》に基づき維持され展開されてゆく。技術的進歩を実現するためには、人類はより多く或いはより良く労働しなければならない。すなわち『自然に対立し』より多くの努力を供しなければならない。なるほど、自分が『栄光のために』労働していると知っている人間はつねに存在していた(所与を認識しようという欲望はそれだけでもその科学的な『観察』に至るが、この《欲望》による所与の変貌に至ることはなく、ギリシャ人の例が示すように『実験的』操作に至ることはさらにない)。だが、ほとんどの人々は自分がより多くの金を得るため、或いは生活をより『安楽』にするためにより労働していると思っている。しかしながら、すぐ見て取れることだが、余剰に得られたものは純粋に対面を保つために費消されてしまい、いわゆる『安楽』は、とくに、隣人よりもより良い生活、或いは他者よりもより悪くはない生活をするということにある。このようなわけで、余剰な労働は、したがって技術的進歩もまた、実は、『承認』への欲望に基づいている。なるほど『貧者』もまた技術的進歩の恩恵を被るが、この進歩を創り出すものは彼らではなく、彼らの欲求や欲望でもない。進歩は『富者』あるいは『権力者』により準備され刺激され、実現される(《社会主義国家》においてさえ然りである)。しかも彼らは『物質的に』充足している。したがって、彼らは自己の『尊厳』や自己の権力を増そうという欲望に基づいてのみ行動する。場合によっては──義務によってと言ってもよい(なぜならば、隣人愛や『慈悲』がこれまで技術的進歩をまったく生み出したことがなく、したがって現実に貧困を撲滅したこともないのに対し、義務はこうした隣人愛や『慈悲』とはまったく異なったものだからである。隣人愛や慈悲にそれが不可能だったのは、まさしくこれらが否定する行動ではなく生得的な『他を思いやる本性』の本能的な溢出であり、所与の《世界》の『不完全な姿』に『悩まされ』ながらも実はそれと完全に両立しているからである。カントは『本能的傾向』から結果的に生ずる行動に『徳』すなわち人間特有の発露を観ることをみずからに禁じていた)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.353~354」国文社)
宗教者の「隣人愛」「慈悲」が技術的進歩をまったく生んだことがなく、現実の貧困を撲滅したこともないのはなぜか。義務の観念が実現されていないからである。「隣人愛」「慈悲」をスローガンに掲げる宗教者は現実社会の歪みや矛盾に対して「憐れみ」や「同情」で答える。それだけである。それだけで奴隷は自らの置かれた隷属状態から救われるだろうか。待っていれば解放されるだろうか。そんなことは金輪際まったく一切ない。そこでカントは「義務」の観念を強調した。カントによって宗教家は自らの義務の観念に目覚めさせられた。もしそれがなければ世界中のどんな宗教ももはや生き残ってはいられなかったであろう。なぜなら、「隣人愛」「慈悲」「同情」「憐れみ」だけでは、現実社会はびくともしない。むしろ逆であって、これら「隣人愛」「慈悲」「同情」「憐れみ」の感情は、「所与の《世界》の『不完全な姿』に『悩まされ』ながらも実はそれと完全に両立しているから」にほかならない。「所与の《世界》の『不完全な姿』に『悩まされ』ながらも実はそれ」を「完全に」容認するばかりではない。さらにこの「容認」という態度は、現実社会で増大する一方の悲惨この上ない『不完全な姿』をそのまま増殖させる方向性を取りがちな安易な政治体制を宗教者の立場から批判するのではなくて、逆に擁護する補完勢力として機能してしまう。
半殺しの目に合わされている人間が宗教者の目の前にいるとしよう。そのような時、宗教者がどれほど「隣人愛」「慈悲」「同情」「憐れみ」の感情で一杯になり一心不乱に聖書の一節をわめき散らしたとしても、ただ単にそれだけで、半殺しの目に合わされている人間を救い出すことはできず、もっぱら不十分でしかない。事態を悪化させないためには、まず、目前の暴力的な現場へ介入しなければならない。間髪入れず、迷うことなく、行動へ移らなければならない。単純に言えば、110番したり救急車を呼んだり近くの歩行者に呼び掛けたり、しなければならない。そのあいだにも半殺しの目に合わされている人間は急速に死に近づいていく。古い時代の宗教者は被害者を見かけるとただ単に「運命」だとか「宿命」だとか、わかったような重々しい態度で述べて去るのが常であった。周囲の一般大衆もそういうものだと思い込んでいた。ところが、「110番したり救急車を呼んだり近くの歩行者に呼び掛けたり」すれば、加害者の側の勢力から逆襲されるのではないか、もしかしたら後日、逆に半殺しにされてしまったり家族が行方不明になったり記憶にない罪を負わされて冤罪で死刑判決を受けたりするのでは、という懸念はいつもある。いわゆる「泣寝入り」。宗教家は「泣寝入り」を推奨してきたか、少なくとも「容認」する側として機能してきた。しかも近代以降の社会では、動くはずのない「境界線」が、カフカの示唆する通り、実は「可動的」になっている。その意味で、カントの導入した「義務」の観念は何度も繰り返し改めて深く吟味されてしかるべき重要性をいよいよ増したと言えるだろう。
「したがって、《否定性》や《自由》の真正なる『現われ』は《労働》である。なぜならば、永遠に同一のままに留まるのではなく、所与において、そして所与として、現にある自己とは絶えず異なったものになって行く弁証法的存在者へと《人間》を作り変えるのは労働だからである。《闘争》と闘争を体現する《主》とは、言わば、《歴史》或いは人間的現存在の弁証法的『運動』の触媒でしかない。すなわち、両者はこの運動を生み出すのだが、みずからはそれによって影響を受けない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.313~314」国文社)
「(真実の)《主》は《主》としては誰も同じであり、(《主》である限り)誰一人《主》としての自己の本性を『廃棄』し自己と異なったものにはなりはしなかった(彼らが《奴》になることは不可能であったろう)。《主》が発展して行ったとしても、彼らの発展は純粋に外的或いは『物質的』でしかなく、真に人間的なもの、すなわち意志によって欲せられたものではなかった。そして、程度の差はあれともかく奴として労働する者が闘争する者につねに新たな武器を提供して来たにもかかわらず、《闘争》の人間的な意味あい、すなわち生命を《危険に晒すこと》は時代を経ても変化しなかった。ただ《奴》のみが在るがままの自己(すなわち《奴》)であることをやめようと《欲する》ことができるのであり、奴が《労働》により、さまざまの労働により自己を『廃棄』するならば、奴は絶えず他のものになり、遂には真に自由な存在、すなわち在るがままの自己にあますところなく充足せる存在になることができる。したがって、《否定性》が《闘争》として『顕在化』するのは、それが《労働》として『現われる』ことができるようになるためでしかない、と言うことができる(さもなくば労働は生まれなかったであろう)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.314」国文社)
「たしかに、終局においては、決定的に自己を解放するために、或いは真に《他のもの》になるために、《奴》或いは労働する者となったかつての《奴》は、《主》或いはかつての《主》に対し尊厳を求める《闘争》を再び開始せねばならない。なぜならば、この地上に無為な《主であること》が少しでも残っている限り、《労働する者》の中にもつねにいくばくか《奴であること》が残っているであろうからである。だが、《労働》だけが《人間》を平和裡に教化・変貌せしめるものである以上、無為の《主》が教化されることはそもそも不可能である。《人間》のこの最期の変貌ないし『回心』が生死を賭しての《闘争》の形を取るのはただそのためである。自己自身との(人間的な)同一性に固執する《主》を非-弁証法的に廃棄することによって、すなわち主を排除し主を死に至らしめることによって、《奴は主であること》を廃棄せざるをえない。《承認》のための最期の《闘争》において、そしてそれにより顕在化されるのは、このような排除であり、そのとき解放される《奴》は否応なく自己の生命を《危険》に晒さざるをえない。加えて、《労働》を端緒とする奴の解放を完遂し、奴に欠けていた《主であること》という契機を奴に導入するものはこの《危険を冒すこと》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.314」国文社)
「普遍的で等質な《国家》の自由な《公民》が創造されるのは、労働する者となったかつての《奴》がただ一つの栄光のために闘争する者として行動する最期の《闘争》において、そしてそれによってであり、その暁、この公民は《主》でもあり《奴》でもある以上もはやいずれでもなく、『綜合的』、『総体的』な唯一の《人間》となる。このような人間においては《主であること》という定立と《奴であること》という反定立とは弁証法的に揚棄されている、すなわちその一面的、不完全な側面においては《廃棄》され、本質的、真に人間的な側面においては《保存》され、かくしてその本質及び存在において《昇華》されているのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.314~315」国文社)
「したがって、《人間》が弁証法的でありそのようなものとして『現われる』と述べること、これは人間が同一のままに留まらずに自己自身に留まる存在者である、との意味である。なぜならば、人間は《闘争》と《労働》により《所与》としての自己を《否定する》が、すなわち動物として、或いは社会的、歴史的な環境の中に生まれそれにより《限定された》人間としての自己を《否定する》が、しかしまた、この自己否定にもかかわらず、現存在において或いは望むならば自己自身との人間的同一性において自己を維持するからである。したがってこれは、《人間》は単に《同一性》でも《否定性》でもなく《総体性》或いは《総合》であるとか、人間は自己を保存しつつ昇華しながら自己を『廃棄』するとか、人間は自己の現存在そのものにおいて、そしてそれにより自己を『媒介する』、という意味である。だがまた、このように語ることは──人間が本質的に《歴史的な》存在者であると語ることでもある」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.315」国文社)
さてここ数日、大阪府豊中市にある学校法人問題が連日報道されている。主にテレビが報じているようだが、何を報道したいのかさっぱり、という気がしなくもない。だからといって、報道する価値がないと言うわけではまったくないのだが。同時進行している諸問題はどうするつもりなのか、と考えさせられないわけにはいかない。キーワードは「嘘」かも知れない。特定の報道にばかり集中して大幅に時間が割かれれば割かれるほど、ついこのあいだまでは緊迫感で充満していた沖縄の米軍基地問題が急速に画面から消えていく。なんと不可解なことか。
「嘘をつくことが不道徳なのは、神聖にしておかすべからざる真理がそれによって傷つけられるからではない。この社会はその強制メンバーを唆して腹蔵なく物を言わせておきながら、あとでそれを言質にいきなり彼らを逮捕するというようなことをやりかねないわけで、真理を口にする権利などすこしも持っていないのである。社会全体が嘘の塊りであるときにあくまで個別的な真理を要求するいわれはないのであって、事実、個別的真理は一般的な嘘のためにたちまちその反対物に変えられてしまうのだ。にもかかわらず嘘をつくことがなんとなく忌まわしいのは、一つには子供の頃に笞(むち)とともにその感じをたたき込まれたためであるが、いくぶんかは笞をふるった牢番たちの有り様(よう)にも関係している。ともかくあまりに率直であることは身を誤つもとになる。しかしそのために嘘をつく人間は恥ずかしい思いをしなければならない。なぜなら嘘をつく度に、生きていくためにはいやでも嘘をつかざるを得ないようにひとを仕向けながら、他方では、『つねに誠心誠意を心がけよ』という空念仏を歌って聞かせるこの世のしくみのあさましさを思い知らなければならないからである。こうした羞恥は神経の繊細な人間のつく嘘から効力を奪ってしまう。彼らはへたな嘘をつくことになるのだが、それによって虚言はそれこそ本当に相手に対する不道徳的行為となる。なぜならへたな嘘というのは相手の馬鹿さ加減を見込んでおり、相手を無視していることの現われだからである。嘘は現代の海千山千の実際家の間では事実をいつわるという本来のまともな機能を失っている。誰ひとり相手の言い分を信じない、お互いに相手の嘘が見すかしなのである。こうなると嘘を言うのは、相手の存在が自分にとって何ものでもないこと、自分が相手を必要としていないこと、またこちらのことを相手がどう思っていようが自分としてはどうでもよいこと、そういったことを相手に分らせる方法でしかない。かつては意思疎通(コミュニケーション)の自由な方便であった嘘が、今日では厚顔無恥のあやつる技巧の一つとなったのであり、それによってめいめいが自分のまわりに冷ややかな雰囲気を作りあげ、それを保護膜としてわが身の栄達をはかっているのである」(アドルノ「ミニマ・モラリア・P.26~27」法政大学出版局)