白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年三月十六日(1)

2017年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年三月十六日作。

(1)世界資本の堪忍袋が真面目になれ日本

(2)ビッグデータの裏へ出てみる

(3)万博辺りが地上波の墓地

(4)庭園も病院の日溜り雨上り

(5)原発よりめった刺しにテレビ釘付け

(6)しっぽ精一杯迎えてくれる人違い

☞「私は私の書物をわずかの人々のために、わずかの年月のために書いている。もしもこれがあとに永く残るような内容のものであったら、もっとしっかりした言語に託すべきであったろう。今日までわがフランス語につきまとった絶えざる変化を考えるならば、現在の形がこれから五十年後も通用すると誰が期待し得よう。フランス語は毎日われわれの手から流れ出てゆき、私が生きている間にもすでに半分も変わった。われわれは、いま、これを完全なものだ、と言う。それぞれの時代にその言葉についてこれと同じことを言っている。しかし、私は、それが現に見るように、たちまちに過ぎ去り、変形してゆく限り、そのとおりには信じられない。言葉を自らに固定するのはすぐれた有益な書物のすることであり、また、その言葉に対する信用はわが国の運命と歩みを共にするであろう」(モンテーニュ「エセー5・P.368」岩波文庫)

ここでモンテーニュを持ち出すつもりはなかった。しかし「関西弁」とその語調について図に乗っている人々に対する疑問はずっと持ってきた。そしてなおさら「関西弁」に対する疑問や疑惑は増々増大するに至った。「関西弁ヴァージョン」問題。従って一応引用した次第である。

何かものを考えることは常に戦争機械たり得る可能性を持っている。だがしかし人間は、広い意味で戦争機械であることから逃れることは不可能であるが、同時に戦争機械としてではなくものを考えたり行動したりすることもまた十分に可能だ。事実上、そうしている。しかしそういう形態を使い分けることができるのはなぜなのか。差し当たり、学問として思想するだけにしても実際の経済活動に従事するにしても、いずれにしてもその前提となる「アレンジメント」抜きには、戦争機械として活動する可能性を常に持っている人間は人間自身を鏡に映して自己反省を加えつつ考え直すことはできない。もしそうでなければ戦争機械として行動しなければ生き残ることが許されないような状況下ですら、何をどのような基準で思考すればよいのか、決してわかりなどしない。この両方の状態のいずれにでも移行する可能性を常に持つ人間として、人間自身のためにできる考察は、ほんの初歩的な道具の製作の時点から関係してくる。

「変化は次の二大項目に類別することができよう──第一は、さまざまな次元の《時間的空間的特異性あるいは此性》と、それらに結びついた変形や変容の過程としての諸操作であり、第二は、こうした特異性と操作に対応する、さまざまなレベルの《情動的性質》すなわち《表現特徴》である。再び刀の例に、というよりもむしろ鋳鋼の例に戻ろう。鋳鋼は、高温による鉄の溶融という第一の特異性の現実化と次に第二の特異性すなわち継起的脱炭素化によって作られる。表現特徴は、繰り返し行なわれるこの脱炭操作に対応するのであり、硬さ、切れ味、光沢だけでなく、鋳鋼の内部構造の結果として結晶作用によって現われる波や模様もまた表現特徴である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118」河出文庫)

「鉄剣はまったく別の特異性にかかわっている──なぜならそれは、融かされるのではなく鍛造されるからであり、大気中で冷まされるのではなく鋳型にはめられ焼きを入れられるからであり、大量生産ではなく一本ずつ製造されるからである。鉄剣は、斬るのではなく刺すのであり、斜めからではなく正面から攻撃するのであるから、その表現特徴は必然的に刀と非常に異なっている。表現的な模様も鉄剣ではまったく別のやり方で、すなわち象眼によって作られるのである。《一連の特異性があり、それがもろもろの操作によって延長可能であり、それらの特異性が、そのような操作とともに、一つないしいくつかの指定可能な表現特徴に収束することを確認できれば》、一つの《機械状系統流》あるいは一つの技術の系統があると考えられる。もし特異性または操作が、異なる素材においてあるいは同じ素材において発散するならば、その場合には二つの異なる系統流を区別しなければならない。たとえば、短剣から発達した鉄剣と、短刀から発達した刀の場合はまさにこれにあたる。おのおのの系統流には特異性と操作、性質と特徴があり、これらが剣や刀といった技術的要素と欲望の関係を決定しているのである(刀の情動は剣の情動と同じではない)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118~119」河出文庫)

「しかし、ある系統流から他の系統流へ延長可能な特異性のレベルに身を置いて両者を統一することはつねに可能である。結局のところ、唯一の同じ系統発生の系譜、理念上は連続する唯一の同じ機械状系統流しか存在しないと考えることができるであろう──つまり、運動-物質の流れ、特異性と表現特徴をになって連続変化する物質流である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118~119」河出文庫)

「この操作的かつ表現的流れは自然的であるとともに人工的であって、いわば人間と<自然>の統一体である。しかし、同時に、この流れは自己分裂し自己分割することなくしては、今ここに現実化することはない。この流れから抽出された集合、つまり人工的かつ自然的に収束するように(存立性)、選択され組織され地層化された特異性と表現特徴の集合を、アレンジメントと呼ぶことにしよう。アレンジメントとは、この意味で、真の発明なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.119~120」河出文庫)

次のセンテンスは「アレンジメントという無意識的諸条件」並びに「アレンジメントに関する思考」について、一旦まとめとして目を通しておくのが便利かと思われる。

「さまざまなアレンジメントは集まって非常に大きな集合になり、『文化』や、あるいは『時代』さえも構成することもあるが、各アレンジメントはその場合でもやはり系統流または流れを分化させ、さまざまな種類、さまざまなレベルの系統流に分割し、運動-物質の理念的連続性のなかに選択的非連続性を導入するのである。つまり、アレンジメントが系統流をさまざまに分化した諸系統に切り取ると同時に、機械状系統流はそれらのアレンジメントのすべてを貫流し、あるアレンジメントを去って別のアレンジメントに移動したり、すべてのアレンジメントを共存させたりするのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.120」河出文庫)

石器から金属へ。この移行は人間のものの考え方を変容させる。その意味で大変重要な論考だと言える。

「金属と冶金術は、その他の物質や操作において隠され、あるいは埋もれていた何かを意識せざるをえないようにするらしいのだ。なぜなら、その他の物質においては、どんな操作も、操作のために準備された物質を構成する閾と、具体化すべき形相を構成する閾という二つの閾(たとえば粘土と鋳型)のあいだで行なわれるからである。質料形相モデルが一般に通用するのはこの事実によるのだ。操作の終了を告げる具体化された形相は新しい操作のための質料として、しかも継起する閾を示す固定した順序にしたがって役立ちうるからである。しかし冶金術において、もろもろの操作はさまざまな閾のあいだに跨がっているために、エネルギーを孕んだ物質性は準備された質料をはみ出し、質的な変形ないし変容は形相をはみ出すのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.127」河出文庫)

「たとえば焼き入れは型取りを飛び越えて鍛造と連鎖している。別な例としては、鋳型による型取りの場合には、冶金術師はいわば鋳型の内部で操作するのである。さらに別な例をあげれば、溶けて鋳られる鋼は一連の継起する脱炭操作を受けるのである。最後の例として、冶金術は物質を再び溶融して再利用する可能性をもっていて、そのため物質に《鋳塊という形式》を与える──金属の歴史は、ストックとも商品とも異なるこの特別な形式と不可分であり、貨幣価値はここから生まれるのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.127~128」河出文庫)

「貨幣価値はここから生まれる」、とある。マルクス「資本論」参照。

「より一般的に言って、『還元的』という冶金術の観念は準備された物質からの物質性の解放と、具体化すべき形相からの変形の解放という二重の解放を表現している。冶金術の場合ほど形相と物質が硬く固定したものにみえることはない。しかしながらそこではさまざまな物質の変化に、連続変化する物質がとって代わろうとする。冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.128」河出文庫)

「拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』(単にもろもろの神話だけでなく、実証的な歴史も考慮にいれる必要がある──たとえば、音楽形式の進化に『銅』〔金管楽器〕の果たした役割、あるいはまた電子音楽における『金属的合成』の構成の問題(リシャール・ピナス)など)である。要するに、金属と冶金術によって日の目を見るのは、物質に特有の生命であり、物質そのものの生命的状態であって、おそらくいたるところに存在しているにしても、普通は質料形相モデルによって分離され、隠されるか覆われるかして認めがたいものになっている物質的生命性なのである。冶金術は『物質-流れ』の意識ないし思考であり、金属はこの意識の相関物である。汎金属主義が表明しているように、すべての物質は金属と見なしうるのであり、すべての物質は冶金術の対象となりうる。水や草や木や獣ですら塩や鉱物的元素にみちている。すべてが金属ではないが、金属はいたるところに存在する。金属は物質全体を導くものなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.128~129」河出文庫)

「機械状系統流は冶金術にかかわるものである、あるいは少なくとも金属の頭、移動する自動誘導弾頭(ヘッド)を備えている。そして思考は石よりもむしろ金属とともに生まれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129」河出文庫)

ただちに思い出しておこう。「武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.99」河出文庫)。金属とともに金属を前提として思考するだけでなく、「プラス」、加速される速度の武装化を前提に考える。そして「核爆弾」は誕生した。

「最初の根本的移住者は職人である。しかし職人とは、狩人でも農民でも牧人でもなく、また二次的にしか職人的活動に携わることのない陶工や籠作りでもなく、純粋な生産性としての物質-流れに随う人であり、それゆえに植物や動物ではなく鉱物的形態に随うのである。それは大地や土地の上で活動する者ではなく地下生活者である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129」河出文庫)

「金属は物質の純粋生産性にあたり、金属に随う者は生産者の典型であると言ってよい。ゴードン・チャイルドが示したように、冶金術師は最初の専門的職人であり、職人としての《団体》(秘密結社、ギルド、職人組合)を形成したのである。職人としての冶金術師は、地下の物質-流れに随うゆえに移動者である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129~130」河出文庫)

「もちろん冶金術師が『他の者たち』、すなわち土地や大地や天上の者たちとさえ関係を持っているということ、言い換えれば、定住する共同体に属する農民やそうした共同体を超コード化している帝国の雲上人たち〔官僚たち〕と関係を持っていることは確かである。冶金術師は生きるために彼らを必要としているし、生きのびるために帝国の貯蔵農産物に依存しているからである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.130」河出文庫)

「しかし、仕事においては冶金術師は森林生活者たちと関係して、部分的には彼らに依存しており、必要な木炭を得るために森林の近くに作業場を設けなければならない。また空間においては、地下は平滑空間の土地を条理空間の大地に結合しているのだから、冶金術師は遊牧民たちと関係している──帝国の住民となった農耕民の耕す沖積平野には鉱脈は存在せず、砂漠を横断し山に入らなければならないし、鉱山の管理にはつねに遊牧民が絡んでいるからだ。《あらゆる鉱脈は逃走線であり》、平滑空間と通底している──現在では石油をめぐって同じ問題が見られるであろう」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.130」河出文庫)

キーワード「移動者」。様々な呼び方がなされてきた。「浮浪者、(さまよっていた頃の)ユダヤ人、遊女、行商人、山水、、、(古代〜近世にかけての)芸能民、など」。それぞれ被差別者ではあるが、注目すべき点は「移動者」あるいは「移動民」という点で共通していることだろう。定住していない。だからといって定住していないことがなぜ差別の根拠となるのかは判然としない。また同時に言えることは、彼ら彼女らが社会の最底辺を構成するためには同じ社会の最上層に位置する存在者がなくては最底辺もまた存在し得ないということだ。古代から中世、さらには近世(江戸時代)にかけては最上層に天皇が位置していたため、最底辺に位置する被差別者らは最も深い部分から逆に最上層を支える形態を取っており、その限りで、彼ら彼女らは天皇とのただならぬ深い繋がりで結び合わされた一つの世界を形成していた。この独特の体制は明治国家による近代資本主義の導入によって大きく変化した。移動する民としての行商人や遊女や能役者は、近代資本主義的生産様式に組み込まれた天皇との繋がりを断ち切られ、改めて資本主義的「商人・売春婦・芸人」という職業の体現者として再編・再出現することとなったのである。近世(江戸時代)には存続していた両者の関係は近代資本主義的搾取の全面的導入によってただひたすら激烈な階級間格差増殖装置の中で様々な役割を与えられ加工された上で、そのために奉仕する各部品として配置された。

「犠牲者たちも、状況に応じて浮浪者、ユダヤ人、プロテスタント、カトリック教徒というふうに、つぎつぎに入れかわることがあるのと同様に、そのうちのどれかが、自分こそ規範としての力を持つと感じるようになれば、今度は、同じやみくもの殺人への欲求へとかられて、殺人者の地位にとってかわることもありうるのだ。天性の反ユダヤ主義というものはありえず、生れつきの反ユダヤ主義者などはもちろん存在しない。ユダヤ人の血を求める呼び声が第二の天性になってしまった大人たちは、ユダヤ人の血を流すことを命じられている若者同様に、なぜにユダヤ人を血祭にあげなければならないか、ほとんどわかっていない。それを弁えている上層部の黒幕たちは、もちろんユダヤ人を憎んでもいないし、彼らの命令に従うものを愛しているわけでもない。しかし経済的にも性的にも満足できない追随者たちははてしなく憎み続ける。彼らは充足を知らないが故に、緊張を解くことを耐えがたく思うのだ。こう見てくれば、じっさいこの組織的な殺人強盗の輩を鼓舞しているのは、一種の動的な理想主義なのである。彼らは掠奪するために出かけて行くくせに、それにごりっぱなイデオロギーを結びつけ、家族や祖国や人類を救うためなどと駄弁を弄する。しかししょせん彼らは欺かれた者にすぎないので──そしてこのことを彼らはすでにうすうす感づいてはいたのだが──、彼らの哀れな合理的動機、つまり合理化がそれに奉仕するはずの掠奪〔という目的〕は、結局はまったく抜け落ちてしまい、〔正当化の手段だった〕合理化自体が本来の意志に反して大真面目なものになってゆく。この合理化がはじめから理性によりも親近性を持っていた暗い衝動が彼らをあます所なく占有する」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.357~358」岩波文庫)

「合理性の島は水没する。そうして自暴自棄の輩が、ただ一人なお、真理の守護者として、すみずみまであます所なく改革せずにおかない地表の革新者として立ち現れる。すべての生き生きした生は、彼らの恐るべき義務の素材となり、いかなる自然な心の動きも、その義務の命令を妨げることはできなくなる。行為そのものがじっさいに自律的な自己目的と化し、それ本来の無目的性を蔽い隠してしまう。いつだって反ユダヤ主義は、全力をあげた仕事を呼びかけてやまない。反ユダヤ主義と全体性との間には、当初から緊密な内的連関があったのだ。盲目性は何ものをも明確に把握しないが故に、すべてを包みこむ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.358~359」岩波文庫)

「自由主義はユダヤ人に経済的な所有は許していたが、命令する権力は与えなかった。何の力もないところでも幸福を約束するというのが、人権というものの本質なのだ。欺かれた大衆といえども、階級差が存在するかぎり、この約束がたんに一般的なものであり、しょせん空手形にすぎないことをうすうすと感じとっているから、こういう約束は彼らの憤激を呼びおこす。馬鹿にされていると彼らは感じるのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.359」岩波文庫)

「ボルシェヴィズムに金を出す強欲なユダヤ人銀行家の陰謀という妄想は、彼らの生れつきの無力さの徴しであり、優雅な暮しは幸福の徴しである。これにさらにインテリのイメージがつけ加わる。インテリは他の人々には恵まれていない高尚なことを考えているように見え、しかし汗水流して苦労し体を使って働くことはない。銀行家とインテリ、貨幣と知性、この二つは流通の指数であり、支配によって傷つき、歪められた者たちの否定された願望像である。そして支配者はこの願望像を、支配の永遠化のために利用しているのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)

「現代社会、そこでは宗教的な原始感情やその再生品が、諸革命の遺産と同様に、市場に売りに出される。そこではファシストの指導者たちが密室の奥で国土や国民の生命を取引する。他方抜け目のない聴衆はラジオにかじりついて相場の研究に余念がない。こういう社会、そこではさらに、この社会の仮面をあばく言葉は、まさしくそれ故に、政治的結社への加入を勧める勧誘の辞として正当化される。こういう社会では、たんに政治も商売だというだけでなく、商売が政治全体を蔽う」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)