コジェーヴによるヘーゲル読解の続き。「否定性」の「威力」はなぜ「絶対的威力」と呼ばれるのか。前回引用したが、次の箇所はより一層踏み込んで述べられる。コジェーヴの説明も丹念になっていく部分。
「《悟性》が遂行する《分離》はまさに『奇蹟的なこと』である。なぜならば、この分離は実際『自然に反して』いるからである。《悟性》の介入がないならば、『犬』という本質は実在する犬において、そしてそれにより現存在するにすぎぬであろうし、実在する犬のほうが、逆にその現存在自体によって一義的にこの本質を規定するであろう。だからこそ犬と『犬』という本質の関係は『自然的』あるいは『直接的』と言いうるのであるが、《悟性》の絶対的威力により本質が意味となり、一つの《語》の中に組み込まれるとき、もはや本質とその支えとの間には語を除いては『自然的な』関係は存在しなくなる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.381」国文社)
「悟性」はその抽象的な-否定的な「絶対的威力」によって「自然的」な所与の状態を解体してばらばらに「分離」することができる。「分離」するばかりか、この抽象の威力によって、考えられる限りの創造力を発揮する。一般的な動物と人間の間にある測り知れない「違い」は、人間がこのような絶対的威力を平然と用いて様々な解体-「分離」をいとも容易になし遂げる点で際だっている。今や、人間特有の否定性の威力は各分野において、最先端技術の開発に余念がない。例えば、昨今の話題で言えば、時々刻々と更新されていく人工知能もその産物の一つだ。
しかし人工知能にしても、人間なしに生成してくることなど決してなかった。人間の創造物が人間を駆逐しつつある現状を見れば皮肉としか映らない面もなくはない。しかしそれを歴史の舞台に据えたのはまぎれもなく人間であり、さらには人間の創造力並びに自然的所与に働き掛けてそれを改変する労働を措いてほかにない。懸命に研究-労働した結果、その挙句、自ら開発した人工知能によって自らの職場を奪われてしまいつつある現実などは人間ならでは、と言うほかないが。このことはヘーゲルも述べている。学(哲学)の歴史は弁証法の歴史である。そしてこの弁証法というものは押し進めれば押し進めるほど、それはどこかで必ず反対のものに転化する。そのことは歴史が歴史によって証明していると。このときヘーゲルの念頭にあったのは一七八九年のフランス革命。国家のトップを独占してきたルイ王朝が逆に社会的最下層へ組み込まれるだけでは済まされず、王朝という制度自体が断絶されるに至った。
「そして、音声上或いは書法上、その他何か時間的空間的に実在するものとしては相互に何の共通点をもたぬさまざまな語(chien,dog,Hundなど)は、たとえそのすべてが唯一にして同一の意味をもちうるとしても、唯一にして同一の本質に支えるものとしては何ら役立つものではないのである。したがって、ここには(本質と現存在との間の『自然的』な関係を含めた)在るがままの所与の《否定》があった、すなわち(概念、ないし意味をもつ語、しかも、語としては、それ自体からは、その中に込められた意味と何の関係ももたない語の)《創造》があった、すなわち《行動》ないし《労働》があったのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.381」国文社)
「ところで、伝統的な《存在-思惟》の捉え方によって存在するものの意味を開示する言説の《可能性》が説明され、なぜどのようにして《存在》が或る意味をもつかが解明されるが、この捉え方では、言説がなぜどのようにして《実在するもの》となるか、すなわちなぜどのようにして実際に『存在から意味が解き放たれる』に至るか、そしてこの意味とは何の共通性ももたぬ語であり意味を込めるために完全に自由に創り出された語の全体の中になぜどのようにして意味が組み込まれるに至るか、は説明されない。だがしかし、まさしくこの言説の実在性こそ哲学が解明しなければならない奇跡であろう」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.381~382」国文社)
「奇跡的なこと、これは現実には他のものと《分離できぬ》ものが《分離された》現存在を得るという事実である、或いはまた、単なる属性ないし『偶有性』が《自立的な》実在になるという事実である、とヘーゲルは述べる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.382」国文社)
言語学に取り組んでいるかのような錯覚に陥ってしまいそうだ。しかし、むしろ、言語学に取り組むためには、ここで述べられている「《分離できぬ》ものが《分離された》現存在を得るという事実」、を認めるほかないし、また認めると同時に言語学もようやく近代言語学と呼ぶにふさわしい装いを整えて研究でき得る制度が学問諸機関で行えるよう可能になった。
「さて、本質はその〔自然的な〕支えに『結び付けられたもの』であり、それはそれ『以外のもの』、つまりはその〔自然的な〕支えとの『結び付きにおいてのみ客観的に実在』する。ではあるが、《悟性》は本質をその自然的な支えから《分離し》、それを発せられ記され思惟される語や言説の中に組み込むことによってそれに『固有の経験的現存在』をもたらす。語や言説に込められた意味は、《今とここ》とによって一義的に規定された自然的な支えに結び付けられた本質を支配する必然性にもはや屈従しないからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.382」国文社)
言語は「思惟すること」や「言葉を語ること」といった形式を得て「自由」を獲得した。獲得した自由はしかし義務の観念を発生させずにはおかなかった。ただ、ここではしばらく言語を用いた思惟という形態で独立的に創造力を発揮する「自由」の側面に重点を置いて述べられている。
「したがって、例えば、『犬』という語に込められた意味は、地上からすべての犬が消失した後にも存在し続けることができるし、(例えば電波に乗って)実在する犬には乗り超え難い障害をも飛び超えることができる。それは、実在する犬が場を占めることのできない所にも存在することができる、等々──。そしてまた、この『分離された自由』及びこの自由が由来する『絶対的威力』こそは、ヘーゲル以前の哲学によってはまったく説明されなかった《誤謬》の可能性を条件づけている。なぜならば、この『自由』によって、語に込められた意味には、それに対応し自然的な支えに結び付けられた本質とは異なった結び付きが可能となるからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.382」国文社)
「哲学(より正確には《学》ないし《知恵》)が説明するはずの奇跡とは、《存在》から意味を《解き放ち》、本質を現存在から《分離し》、意味-本質を言説の中に組み込むことのできるこの『活動』である。この『活動』を説明しようと模索しているうちにヘーゲルは《否定性》という(存在論上の)根本カテゴリーを、ここで『《否定的なもの》』すなわち『否定的ないしは否定するもの』とみずから呼ぶ根本カテゴリーを発見した(或いは明確にした)のであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.382~383」国文社)
「この《否定性》は《存在》から意味を解き放ち、現存在から本質を分離する『思惟のエネルギー』である。この《否定性》が『思惟』すなわち『《悟性》』とその言説とを生み出す『純粋抽象-《自我》のエネルギー』である。ところで時に聞かれはするけれども、言説は天から降ってくるわけではないし、『水面上の』虚空に浮いているのでもない。言説が本来『《自我》』に属する『思惟』を表現するとしても、この《自我》が《人間的》《自我》である以上、この《自我》は必然的に自然の時間-空間的な《世界》の中に経験的現存在を有している。したがって、存在論的次元において『抽象的-《自我》(Ich)であるものは(この《自我》は、《否定性》が《同一性》ないし所与《存在》の中で存続する形式である)、形而上学的次元においては人間の『人格的-《自己》』(selbst)であり、──現象学的次元においては《言葉を話す》自由かつ歴史的な個体として『現われる』《人間》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.383」国文社)
頭脳の中だけで組み立てられた設計図を元にして本当に実在する建築物を作り上げてしまう「思惟のエネルギー」。明らかに地上の現実であって、建築された物は実際に手で触れてみると固かったり柔らかかったりつるつるだったりざらついていたりする。まぎれもない現実である。しかしそれを可能にしたものは何か。始めはただ単に頭の中だけで考えられたに過ぎない否定性の力である。人間と動物を区別する絶対的威力は「思惟するエネルギー=否定性」である。否定性は、差し当たり「言語」として存在するが、それは「常に動いている限りにおいて」存在する言語でなくてはならない。思惟は止まるということを知らないゆえに思惟なのであり、それ以外に思惟は存在しないし、ヘーゲルに言わせれば止まることのできる思惟などあり得ず、またもしあるとすればそれはヘーゲルのいう思惟ではないと言うに違いない。人間は時間的存在なのであって、時間的存在として拘束されずにいられない以上、否定性は、どこまでも動的な形態を取ってでしかあり得ない人間的存在の根拠であると考えるべきだろう。さらにこのことは世界の共通認識として定着するに至った。思惟することは要するに人間特有の否定性であるとして、観念的に物事を「区別-分離」して始めて、様々な話題を設定したり、あれこれのものごとについて色々な言説を述べ合い、それらを弁証法的に対立させつつ議論を深め錬磨していくということが可能になる。そうして始めて常に既に、差し当たりではあるものの、れっきとした議論の場において幾つかの重要な決議がなされ得るに至る。テーブルであれ、犬であれ、札束であれ、実際に山岳地帯に入って、これここにある木が育ってくるためにはこうしてああしてそうした過程を経て、契約の結果切り倒すことになって、さらに場所を換えて材木として加工されて店頭で販売され現在のところようやくこの家のここにあるところのテーブルである。とか、そのテーブルに一匹の犬が繋がれており、この犬はどうのこうのという経過を経て今現在このテーブルに繋がれていて、それがだいだいいつものこの家の光景である。ただ気になるのは時々このテーブルの上に百万円の札束がぽいと置いてあったりすることくらいだ。とか、わざわざ現場を巡り巡って説明して廻らなくても、どこか適切かつ公的な場で法的な手続きに則って「言語に置き換えて」発言された説明が実際にあった事実として認定され得るのは、このような、実際に経てきた生々しい現場から「分離」された言語を操ることができる人間のみが持っている特権的な「絶対的否定性」の威力が世界中で広く認められていることによる。もっとも、最終的な証明は実地で確認されねばならない。それはともすれば「空論」のまま雲散霧消してしまいがちな観念論的な議論から離れて、多くの人々によってしっかり地上で確かめられ得る「唯物論的」な次元の証明として厳密に要請される必要がある。
「したがって、哲学が説明せねばならぬ言説の現存在という奇跡は、世界における《人間》の現存在という奇跡以外の何物でもない。実際、私が《言説》に関係づけて解釈したヘーゲルの文章は、《人間》自身にも関係づけることが可能である。なぜならば、《人間》もまた『他の物との結び付きにおいてのみ客観的に実在する』『結び付けられたもの』だからである。すなわち、人間はその支えとなる動物が存在しなくなれば何物でもなく、《自然的世界》の外では純粋の無である。にもかかわらず人間はこの《世界》から自己を《分離し》、それに《対立する》。純粋に自然的なあらゆる経験的現存在と本質的に異なった『固有の経験的現存在』を自己に創造し、『分離され他から切り離された自由』を獲得する。この『自由』によって人間はその支えとなっている動物とはまったく異なった在り方で動き回り行動することが可能となる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.383」国文社)
「動物は《否定性》を体現しておらず、したがって思惟し言葉を話す《自我》を有していないため、その行動は人間のそれとはまったく異なっている。人間は自己のうちで『驚嘆に値する』実際の『力』となる『絶対的な威力』を賦与されており、これにより人間は『行為』において、すなわち合理的『労働』において、つまりは『《悟性》』に浸透された『労働』において、自然に対立する実在する《世界》を作り出す。この《世界》が、人間『固有の経験的現存在』のために人間の『分離された自由』によって創造された《世界》であり──技術的ないし文化的な世界、社会的ないし歴史的な《世界》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.383~384」国文社)
ゆえに、動物には許されても人間には決して許されない背任行為という概念が生じてくるに至った。言語でだけ「百万円寄付する」と言うことは誰にでもできる。しかし寄付される側としてはそれが実際に振り込まれたことを実物で確認するまでは、百万円であろうが五〇〇億円であろうが「寄付する」という言語を信じることはできても信じるだけに留まる。それだけでは単なる暇つぶしにもならない。むしろ裏切りというものであって、一般的な社会ではどこの社会へ行ってもただでは済まされない。もっとも、資本主義的社会様式に打撃を与えたいという立場であれば、あるいはそういう手段がないわけではないが。しかしこのような現金がばんばん行き交うような手法はもはや古典的な部類に属している。今や資本主義を相手に何らか実効性のある批判を展開しようとする場合、連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミという三者による自作自演めいた「ごまかし」ででもない限り、その種の詐欺的手法などは当然見向きもされなくなった。例えば国会でも取り上げられた大阪府の学校法人問題。問題が何か核心部分に触れそうな気配が漂い始めると途端にマスコミはニュースで北朝鮮の核実験に関する予測のそのまた推測に基づく報道を大々的に取り上げたり、あるいは東京都内の選挙関連の話題を持ち出してきたかと思えば、東京都議会が日本そのものの命運を左右してでもいるかのような思い上がりもはなはだしいニュースを流してみたりする。あたかも疑惑の渦中にある学校法人問題を遥かに上回る国家的大問題が日本のマスコミを握ってでもいるかのようで滑稽のそしりを免れない。大事なことは次のようになるだろう。言語は人間の観念によっていつどのようにでも自然的所与状態から切り離され得る、「分離-解体」できるだけでなく、再加工することが可能だ。そこで再加工するに当たって言語を用いて契約なり約束なりする以上、その行為をただ単なる「口約束」に留めるばかりで現実化しないで放っておくことは何より資本主義が許さない。そして資本主義と相まって資本主義と保障され合う補完関係にある法が許さない。資本主義に忠実であるためには言語を用いた形式で遂行される契約なり約束なりに関し、反古などは選択肢に入れてはならないという鉄の掟が優先される。そうでなければ一般の銀行業務などは成り立っていかない。銀行を根底から支えている一般の預金者とその大量の預金そのものを裏切ることは許されない。万が一のことがあれば銀行制度そのものが危機に瀕し破綻するほかない。従って、いつでも言語として「分離」され得る実際の行為は、この「分離」する抽象の力-絶対的威力を実際に用いたことがある他の誰でもない特定の人間自身の行為によって着実に現実化される義務が負わされなければ社会的にも法的にも許されない。実際、ほんのちょっとした口約束のせいで、事実上の借金まみれになってしまい、自殺するに至った痛ましい事例にはことかかない。メガバンクは日本国民の大半の預金を信用の名において預かっている。この信用は、銀行が預金者から預かっているすべての預金が価値ある貨幣として常に流通過程を繰り返し反復しながらその都度その都度貨幣としての承認を得て価値を確認させることで始めて認められる信用だ。連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミは、もしかしたら、この信用の大半を占めているのは連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミであるとでも勘違いしているのではなかろうか。事実は逆だ。銀行預金のほとんどすべてを占めているのは一般の預金者からの預金である。どんな銀行であれ、一般の預金者からの信用を得て始めて銀行業務を開始することができる。しかしメガバンクは預金者から預かった預金のみを運用しているわけではない。むしろ連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミ関係者らからの預金も与り運用している。銀行だからそれが仕事でもある。ところが一般の預金者の信用を裏切るようなことがあればただちに破産するしかない銀行であるにもかかわらず、連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミ関係者らからの預金の側を政治的な面で効果的に働き掛けるために優遇させるような態度を取ってはいないだろうか。日本の主要銀行が一般の預金者から預かっている預金の蓄積は凄まじい額にのぼるわけだが、そのすべては常に同一程度の信用と価値を確実に確保できていると言えるような状態だろうか。もし確実であるなら、なぜたった一個の学校法人による使途不明金問題がここまで疑惑化するのか。それとこれとはどんな銀行も関与していないというのならまだしも。金銭が動いたことは明白である。まったく誰も知らないわけはないのだ。棚上げしてしまいたい政府関係者は確かにいるだろう。しかし一般の預金者の信用の上に始めて成り立つ銀行が、連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミ関係者らと同一の地平で物を考えているわけはない。同一でないと思っているからこそ、一般の預金者も信用して大量の預金を預けて運用も任せている。このような動かしようのない事実は、果たして信用していてよいのだろうか。もしかして、銀行もまた連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミ関係者らと同一の地平に立って、他の一般の預金者から預かっている莫大な資本を運用しているのではという疑惑が生じてくる。学校法人なので当然土地問題とも絡んでいる。資本主義は役に立たなくなって激しく腐敗してきた部分をいきなり自己暴露して、資本主義自身の足を引っ張る人と物を一緒くたにして資本主義社会から叩き出す方法を「公理系」の一つとして学ぶことを覚え、実際に学んで実践してきた。資本主義に反対するにしても、それは資本主義がより一層盛り上がる場合に限って、という条件付きである。例えば資本主義的生産様式とは何かを論じた書籍などはばんばん売れるだけでなく、その反論本もその半分くらいは売れる。実際、売れてきた。歴史的ロング・セラーもある。資本のシステムが更新されればまた新しい反資本主義関連書籍が爆発的な売行きを示す。と同時にそれに反論する書籍や文書類も売行きを伸ばす。反対デモがあれば反=反対デモが組織される。そのために動く貨幣の総量から資本主義は剰余を生み出す。貨幣の増殖のためだけを自己目的とする資本主義はそうすることで人類絶滅の日まで延長することをも学んできた。一つや二つの原発が大爆発したとて資本主義がなくなるわけではまったくない。むしろ大爆発して一時的に住めなくなった地域の再開発のための資本価値を大爆発それ自身の中に見い出す。従って、もし世界資本にとって日本の銀行に預けられている預金の一部が世界全体から見てマイナス部分としての効果を発揮することにでもなれば、その時は、連立政府与党と日和見野党共闘並びに大手マスコミ関係者らは先に情報を得てとっとと逃げ出すだろうが、日本の一般の預金者は後になってからしか知らされもせずに瞬時に全財産を失うわけだ。信用していたばっかりに。それでいいのだろうか。貨幣と言語と時間。歴史はじわじわ苛酷さを増す。